今回は筆者の友人であり、イスラエル留学7年間の留学経験を持ちイスラエルの音楽アカデミア(The Jerusalem Academy of Music and Dance)でアコーディオンを学ばれたY・Oさんにインタビューを行いました。

 

●イスラエルに留学しようと思ったきっかけ何ですか?
大学受験に失敗した私は今後の進路に悩んでいました。その時に、同じキリスト教の信仰を持つ若者が集まる会があったので参加しました。その会の中で不思議な体験をし、「このままではいけない、イスラエルに行って今後の事を示されたい」と思ったのがきっかけです。キリスト教の家庭に生まれ、イスラエルは身近にある国でした。ですが特にそれまではイスラエルへの興味が無かったんですが、「イスラエルに行って何かを変えたい」という思いになったのです。
 
●なぜイスラエルで音楽を学ぼうと思ったのですか?
イスラエルに留学して一年が経ち、留学を続けるか日本に帰国するか考えていました。今帰国してしまうと、「前の生活に戻ってしまうんじゃないか」という考えに至りました。そこでお世話になっている方に相談したところ、「じゃあ音楽の勉強をイスラエルでやってみたら良いんじゃないか?」と言われました。そこで、イスラエルに留学してから弾き始めたアコーディオンの勉強をするため、イスラエルの音楽アカデミアに入りました。
 
(写真:Y・Oさんの通っていたThe Jerusalem Academy of Music and Dance)
 
●アカデミアではどんな授業をしていたのですか?印象に残っている授業がもしあれば教えてください。
自分が思っていたイメージとは逆に、授業は教室での講義が多かったです。主に音楽の歴史や理論、世界の音楽の授業といったものがありました。あとは個人レッスンや、アンサンブルの授業などでした。
 
一番面白かった授業はジャズの授業でした。今までジャズを取り組んだことは無かったです。クラシックは楽譜に従い美しく弾くような形ですが、ジャズは簡単な楽譜しかないので“どれだけその人が音楽を理解しているか、何がその人から出てくるか”が問われます。授業としては、先生が突然生徒に指名をして演奏のアドリブをしていくスタイルで気を抜くと置いていかれることもありました。自分を表現するという点ではとても勉強になり、自分の音楽の幅を広げる良いきっかけになりました。
 
(写真:エルサレムのベン・イェフダー通りにて友人と演奏しているところ)
 
●イスラエル留学の一番の思い出は何でしょうか?
一番の思い出は、ユダヤ人の結婚式に演奏者として参加できたことです。ユダヤ式の結婚式は喜びを全身で現そうとするので、狂ったように踊ります。バンドの一員として演奏している中で、喜びが爆発した会場の雰囲気を肌で感じました。日本人の私も一緒に結婚の喜びを体験できて嬉しかったです。
 
●イスラエル留学中に嬉しかったことは何ですか?
アカデミアの集大成として卒業リサイタルがありました。同じ学生の友人と共に演奏し、アカデミアで学んだことを披露するコンサートです。そこでの演奏は、最後の集大成として自分が持てる全部を出し切ったという手応えを感じました。

 

(動画:卒業リサイタルの様子)

 
●Y・Oさんにとってアコーディオンの魅力は何でしょうか?
アコーディオン一つで様々な音楽が弾ける事です。ワルツ、クレズメル、タンゴ、クラシック、ジャズ、ギリシャ音楽など様々なジャンルの音楽が弾けます。
またアコーディオンは心臓の近くにある楽器ですので、演奏しているとアコーディオンと体が一体になります。それはまさに“心の音”を奏でる楽器だと思います。
 
●これからの目標は?将来やりたいことは?
イスラエルで学んだアコーディオンを魅力を広めたいですね。様々な音楽を弾けるアコーディオンの面白さを伝えたいです。
 
本日はインタビューにご協力頂き誠にありがとうございました!
Y・Oさんがアコーディオンの活動としてYoutubeに日々動画を上げています。
Youtubeでは、アコーディオンのレッスンや様々な曲にアコーディオンで取り組んでいる動画が公開されております。
ぜひこちらもご覧ください⬇︎

 

 

今回はパウロの第1回伝道旅行の中心地、ピシデヤのアンテオケ、コンヤ(イコニウム)、ルステラをご案内します。

地図の真ん中あたりにある町々です。



 

弊社のツアーでは必ず旅程に含めている町ですが、一般のツアーではまず行かない町だと思います。

カッパドキヤ地方とパムッカレとの間にある都市のコンヤは、大きな町で大型ホテルもあるため、中継地点としてグループの宿泊もありますが、ピシデヤのアンテオケやルステラでは、日本人のグループはおろか、他の国の観光客にもまず会いません。

 

キプロスから船で渡ってきたパウロとバルナバが、最初にたどり着いたのは、アンタリヤ近くの港ペルガでした。

ペルガから進んで、当時のピシデヤ州にあったアンテオケという都市に到着します。

 

シリアのアンテオケと同じように、この町を作ったのは、セレウコス・二カトールで、その父、アンティオコスの名前を付けてアンテオケと名付けました。
現在の町の名前は「ヤルバッチ」。

預言者とか使徒という意味があるそうで、イスラム教の国であるトルコですが、町の名前は、新約聖書に由来しているとしか考えられないですね。

 

現在の町のはずれのほうに、ローマ時代の町の遺跡が広がっています。

 


 

ここピシデヤのアンテオケには、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)がありました。

安息日にパウロはシナゴーグに行って席に着きましたが、ユダヤ人から「どうぞお話しください」求められ、立ち上がって手を振りながら語ったと、使徒言行録(使徒行伝・使徒の働き)13章14~16節に書かれています。

 

ツアーでここに訪れた時、ちょうど土曜日で安息日の午前中でした。そういえばパウロがシナゴーグで話したのも土曜日の朝だったな、と思いながら、遺跡内のビザンチン時代の教会跡を見学しました。

 

 

ツアーに参加された方々にここでの出来事を案内したら、ある方から「パウロはどのように手を振りながら語ったんでしょうね?」と尋ねられました。

聖書には「手を振った」としか書かれていませんし、答えがあるわけでは無いので、皆さんと一緒に考えました。

トルコの子供たちは非常に人懐こく、私たちに向かって盛んに手を振ります。その子供たちのように振ったのでは? とか、熱弁をふるって、興奮して身振り手振りで語ったのでは? や、皇室の方のように穏やかな感じで手を振ったのでは? など、いろいろな意見があって非常に楽しいひと時でしたが、もちろん結論は出ませんでした(笑)

皆さんは、どんな風だったと思いますか?

 

さて、パウロの話を聞いた人々は、次の安息日にもここにきて話してほしいと頼みますが、パウロが異邦人伝道のことを語ると、町から追い出します。

追い出されたパウロたちはイコニウムに行きますが、ここでもユダヤ人の怒りを買い、石打されそうになったため、ルステラに移動します。

現在、ルステラはほとんど発掘のされていない、こんもりとしたテル(人工的に作られた丘)があるだけで、丘のふもとに井戸があります。

ルステラにはユダヤ人の人数が少なく、シナゴーグがなかったのでしょう。シナゴーグではないところで足の不自由な人を癒します。

後の第2回の伝道の時、パウロたちがピリピに行った際、祈り場があると思って川のほとりに行ったと、使徒16:13に記述がありますが、ユダヤ人は祈るときにシナゴーグがない場合、水のあるところで祈りました。

詩編137篇やエゼキエル書1章にも書かれていますが、シナゴーグのない異邦の国では、シオンを思い起こしたり、神の幻を見たりしたのも川のほとりでした。

2千年前にもあった井戸かどうかは分かりませんが、もしかしたらこの辺りでパウロは癒しを行ったのでは? と想像しながら井戸から水を出して飲んでみました。

 

パウロとバルナバはルステラで、足の不自由な人を癒したために、ルステラの人々はバルナバをゼウス、パウロをヘルメスと呼んで、神々が人の姿をとって現れたと、二人に雄牛数頭と花輪をもって犠牲までささげようとしました。

それにはこんな背景があります。

へルメスとゼウスが人間の姿をして地上界に降りて、ルステラあたりに来た時、ある老夫婦だけがヘルメスとゼウスを手厚く招待して家に招いてもてなした。それ以外のルステラの町の人たちは、変装したゼウスとヘルメスを無視した。それで宿も貸さなかったということで、ヘルメスとゼウスが怒って町を滅ぼしてしまったというのです。

 

こうやって足の不自由な人が踊りあがって歩き出したのを見て、「あっ、また神様が降りて来た」と人々は思ったのでしょう。

ひどい扱いをしてこの2人の神様が怒って、またルステラが滅ぼされたら大変だ、ということでゼウスの神殿から祭司がやって来て、犠牲を捧げようとしたというわけです。

 

ピシデヤのアンテオケでは、聖書を読んでいるユダヤ人たちが相手でしたので、聖書に基づきイエスこそがメシア(キリスト)であることを証ししました。

ルステラの人々は、聖書を全く読んでいない人だったので、二人は、私たちは同じ人間だということ、全天全地を創られた神様がおられることを説き、やっとのことで犠牲をささげることをやめさせます。

犠牲騒動が落ち着いた、と思う間もなく、ピシデヤのアンテオケやイコニウムから来たユダヤ人たちが、石で打ってパウロを殺してしまいます。

石打ちされたパウロを弟子たちが取り囲んで祈ったのでしょう。よみがえったパウロは、たった今、石打されたルステラの町の中に再び入っていきます。それどころか、パウロを追って来てまで石打ちしたユダヤ人がいる、ピシデヤのアンテオケ、イコニウムにまで行き、福音を伝えます。

なんという不屈の魂を持っているのでしょうか。

 

現在、コロナウイルスの影響が非常に大きく、海外への旅はおろか、国内もままならない現状が続いています。

このブログを書きながら、パウロのような不屈の魂で、この難局を乗り切っていきたいと強い祈りが湧いてきました。


銀座 教文館 3F ギャラリーステラにて
「聖書の国イスラエル」写真展
ー聖書の国の自然と人々ー
聖書の書かれた地イスラエルの風景を和紙に

があります。

8月17日(月)〜31日(月)
11:00〜19:00(日曜日は13:00〜19:00)

現在、コロナ禍でイスラエルには行けませんが、こちらの写真展で「聖書の国イスラエル」を味わい見てくださいアップ

※コロナウイルス感染防止のためマスク着用等の対策をお願い申し上げます。

弊社の国内ツアーの中に「山陽・関西3日間の旅」があります。

旅の中で訪れる倉敷美観地区は、白壁となまこ壁が美しく、伝統的な日本建築をよく残している地区で、観光客でいつも賑わっています。

 

江戸時代この地区は米の集積地として栄えたところで、往時をしのぶことができる建物が保存されています。旅の中で、この美観地区の中心に立つ「大原美術館」を訪問いたしますので、今回はこの美術館についてご案内してみたいと思います。

大原美術館は、昭和5年(1930年)に、倉敷の産業と文化に多大の貢献をした大原孫三郎(1880~1943年)により建てられた、日本初の私立西洋美術館です。玄関にはギリシア神殿風の大きな柱が据えられ、その館内にはエル・グレコの『受胎告知』、モネの『睡蓮』をはじめ、ルノワールやゴーギャンなど、有名な西洋の名画が数多く展示されています。

大原孫三郎は大地主の家に生まれました。父が創業した倉敷紡績が時代の波に乗り大きく発展。氏が27歳のときに会社を引き継ぎ、地方の1紡績会社にすぎなかったものを、日本で指折りの大会社へ成長させます。さらに倉敷絹織(現クラレ)を設立し、こちらも大会社へと育てていきます。

(大原孫三郎)


彼の活躍はそれだけにとどまらず、工場に必要な電力を得るため、工場付近の火力発電所と上流河川の水力発電を合わせて電力会社を作ったり(後の中国電力の祖)、資金調達力を高めるため、倉敷銀行ほか地方銀行6行を合併し、第一合同銀行(現在の中国銀行)を作り、その頭取にもなりました。

ある人は彼を評して、「金を儲けることにおいては大原孫三郎より偉大な財界人はたくさんいました。しかし金を散ずることにおいて高く自己の目標をかかげてそれに成功した人物として、日本の財界人でこのくらい成功した人はなかったと言っていいでしょう」と語っています。
この大原氏の生き方に大きな影響を与えたのが、慈善家で、岡山孤児院を創設したクリスチャン・石井十次(1865-1914年)でした。岡山孤児院には多いときで1200人の孤児がいたと言われます。孤児院の経営は赤字がかさみ、職員の給与支払いにさえ困ることもあったようですが、こうしたとき石井が頼りにしたのは大原孫三郎でした。彼は金を出すことがまるで生きがいのようにして、石井の求めるまま必要額を自分の責任で工面していたそうです。俗事で稼いだ金を世のために生かす。その延長上には、倉敷紡績社員の福祉充実や大原美術館建設がありました。


(石井十次)

 

また、労働者の労働条件・労働環境改善のために設立された倉敷労働科学研究所(現大原記念労働科学研究所)、岡山の農業発展に大きく寄与した大原農業研究所(現資源植物科学研究所)、倉敷中央病院(現大原記念倉敷中央医療機構倉敷中央病院)など、現在にもつながるいろいろな施設を創立しています。倉敷の発展はまさに大原氏抜きには語れないでしょう。
大原氏の日記の中には、「余がこの資産を与えられたのは、余の為にあらず、世界の為である。余は其の世界に与えられた金を以って、神の御心により働くものである」とあり、石井十次は自分にとって人生の師である、という思いのある大原氏にとって「石井さんに惚れた、自分から進んでご奉公してみたい」という気持ちだったようです。

私たちのツアーの中には、石井十次記念館の訪問も入っていますが、この二人の間の関係性を考えると、欠かせない訪問箇所だと思っています。

さて、その大原孫三郎が、大原美術館を建てることになるのですが、西洋美術については、なんの関心も知識もなかった彼を動かしたのは一人の画学生が描いた1枚の絵からでした。
その人、児島虎次郎(1881-1929年)は、倉敷近郊の出身で孫三郎の1歳年下。東京に出て美術学校研究科在学中のとき、すすめられて勧業博覧会美術展に自らの作品2点を出品しました。その中でこの無名の画学生が1等賞になり、他の1点は明治皇后様のお気に入りとなり、宮内省買い上げとなりました。大原氏は、その才能と素朴で真面目な人柄に惚れ込み、彼を見込んでヨーロッパへ5年間留学させたのでした。のち、石井十次の娘友子を彼に嫁がせたことでも、彼への思い入れが分かります。
児島は洋画の本場で自分の幸運を喜ぶだけでなく、日本にいる大勢の画家仲間たちのために、せめて1点でも本物に触れさせてやりたいと痛切に思うようになり、その思いを何度も大原氏への手紙で訴えました。
大原氏は、児島を送り出したのは、本場で勉強させその作品に新しい境地が開かれることを願ってのことという思いがあり、しばらくは返事を書きませんでした。児島は諦めず、繰り返し手紙を送るのですが、その熱意に大原氏は少しずつ考えを変え、これはきっと数多い画家仲間に刺激を与え、向上の機会を提供することになると確信し、
「エヲカッテヨシ カネオクル」
との電報を送りました。


(児島虎次郎)

 

早速、児島は絵の収集にかかり、画商や画廊を訪ねるだけでなく、少しでも安く入手し1点でも多くの絵を送れるようにと、画家のアトリエにも直接出かけました。画家の優れた作品や愛着がある作品は、手放さずにアトリエに置いておくことが多いと言われていたからです。アトリエで直接買ったものの中には、モネの「睡蓮」やマチスの絵があります。
児島はすべてを任されていましたが、さすがにエル・グレコの「受胎告知」だけは値がはるため、写真を送って意向を伺ったとされています。他のめぼしいものについても照会しましたが、孫三郎はきまって「カエ」と返電し、ほとんど無条件で送金したようです。

児島は、昭和4年(1929年)3月に病没。彼の霊を慰めるため、大原氏は児島の絵と児島が収集した絵画を常時展示する美術館を作りたい、との思いに至りました。建設は急ピッチで進み、昭和5年(1930年)11月25日に一般公開。当時の入館料は30銭でした。しかし当時日本の西洋絵画好きの層は厚くなく、場所も地方都市、さらに大不況の時期でもあり、初日こそ100人を超す入場者があったものの、その後は入場者ゼロの日もあり、10人入れば大喜びという有様でした。
最晩年、「わしのはじめた事業でいちばん重荷になったのは、美術館じゃ」と述懐していたそうです。大原氏は、常々「わしの目は10年先が見える」と語っていたと伝えられますが、この美術館の存在が、結果として倉敷を救うことになります。

それは昭和7年(1932年)、満州事変の真相調査のため来日したリットン調査団の一部団員が、大原美術館を訪れ、エル・グレコをはじめとする名画の数々に仰天して帰っていきます。このことから「クラシキ」の名前が知られるようになり、世界的な美術品を焼いてはならない、ということで爆撃目標から外された、と言われています。美術館の存在が、倉敷を空襲から救い、有名な絵画を守っただけでなく、江戸時代の景観を今に残すことになって、現在の美観地区の整備へとつながっていくのです。

有名な絵画を楽しむに当たり、その背景、キリスト教をバックボーンにして築かれた大原孫三郎と石井十次の関係、児島虎次郎などの生きぶりなどが分かると、絵を見る際に一層の深みを与えてくれると思います。ぜひ一度ご一緒しませんか?

イスラエルは民族として4000年の歴史を持ちながら、その内半分は土地を持たない流浪の民として世界中に散らばり、今から72年前(1948年)に建国を成し遂げました。そのため「古くて新しい国」と称されることがありますが、ワインについても同じことが当てはまります。ワインは旧約聖書の中だけでも185回も記述されています。
 

聖書のなかで最初のワイン作りをした人をご存知でしょうか?
そう、方舟で有名なノアで、聖書にはこのように記されています。
「さてノアは農夫となり、ぶどう畑を作り始めた」(創9:20)
でも、その直後を読むと最初の酔っぱらいもノアですね。
ワインは豊かさの象徴、自然が生み出す恵みとして描かれることが多く、
「どうか、神が 天の露と地の産み出す豊かなもの 穀物とぶどう酒を お前に与えてくださるように。」(創27:28)、とイサクがヤコブを祝福した際の言葉にも見て取れます。
 
新約聖書では、ヨハネによる福音書2章にある、カナ村の結婚式での奇跡、水をワインに変えてしまうという物語は皆様も良くご存知かと思います。その中で出てくる「良いぶどう酒」ですが、今とは違いまだ保存技術も確立していない当時、古くなったワインは酢になるものが多く、生鮮食品に近い感覚で、若い味わいでぶどうの甘さが残っているものを良しとしたと言われます。
ガイド仲間では聖書の「裏話」がまことしやかに語られることがあり、例えばここでワインがなくなったのは、お弟子さんが漁師で飲兵衛だったためだとか、だから母マリヤが何とかしてください、とお願いにいったとか、、、、。
 
紀元70年にイスラエル民族はローマとの戦いに破れ離散。その後7世紀にアラブ人がパレスチナを支配するようになると、イスラム教の教えから酒造が禁じられ、古代から伝わるワイン作りの伝統は途絶えていきます。
19世紀後半、イスラエルが建国される半世紀も前のことですが、ヨーロッパから次々と入植者が来るようになります。その頃エドモンド・ロスチャイルド男爵(フランス系のユダヤ人)の援助で、ヨーロッパのワイン作りの技術が持ち込まれ、今のイスラエル北部・カルメル山でワイン作りが始まります。「カルメルワイン」の誕生です。カルメルワインは、入植者のための殖産興業的な意味合いがありましたが、もっと大切だったのは、ユダヤ人の食事規定(コーシャー)に準じたワインを作ることでした。
 


コーシャー・ワインの認定を受けるためには、例えば醸造設備や果汁に触れることができるのはユダヤ教のラビに限定されるなど、畑から瓶詰めまで厳格な規則が適用されます。ワインは安息日の祝祷には欠かせないもの、また、ユダヤ教で最も大切な「過越の祭」でも不可欠な存在です。金曜日の夕食前、安息日の祝祷に使うカップには溢れるほどワインが注がれて、一家の家長がそのカップを高く持ってお祈りを唱えます。これは溢れるばかりの祝福があるように、という願いからだそうです。


 

(過越の祭りの様子)
 

筆者がイスラエルで学生生活を送っていた際、春になると「過越の祭」によく招待されました。家族が一同に介して、式次第に沿って出エジプトの物語を読み、歌を歌って数時間を過ごしますが、その間に1年で一番豪華な食事と4回のワインを飲むことになっています。手を抜かずに最後まで進めると、だいたい4-5時間はかかります。
2000年前は今と同様の式次第はなかった様ですが、イエス様と弟子たちの最後の晩餐(=過越の祭)でも同様な雰囲気の中で進められたようです。夕方から数時間かけて出エジプトの話をし、数回の乾杯と豪華な食事をとっている中で、イエス様は種入れぬパンとワインを取り上げて、「これが私の肉である、血である」とのお話をされました。賛美を歌い、すべて終わって、夜半ころイエス様と3人の弟子がゲッセマネに行くわけですが、お腹いっぱいでアルコールも入った弟子たちが眠くってしょうがなかったという状況は、現代の過越の祭に出てみて、よく分かりました。
 
さて、イスラエルのワイン市場では、カルメルワイン=イスラエルのワイン、という時代が長く続きましたが、1980年代に入ると、アメリカやヨーロッパで醸造学を学んだ人がワイン作りを始め、次々と国際的な評価を得ていきます。中でもゴランハイツ・ワイナリーはその初穂となるワイナリーで、日本でも「ヤルデン」の銘柄でよく知られています。


(ゴランハイツ・ワイナリー)

 

イスラエルは狭い国土ながら、土地によって気候と土壌が大きく異なり、多彩で個性的なワインができます。現在300ほどの大小のワイナリーがありますが、2007年、世界的に有名なワイン評論家のロバート・パーカー氏が14銘柄を指定して、「イスラエルのワインは世界レベル」と評価したところから世界的な地位が確立された、と言われます。
2016年にイスラエル初のマスター・オブ・ワインとなったエラン・ピック氏が働く「ツォラ・ヴィンヤード」ではまさに世界標準のワインを作っていて、イスラエルの中でも最高峰という評判です。ちなみにソムリエとして皆様もご存知の田崎真也氏の選出した、ワイン・バイイング・ガイド・田崎真也セレクション(情報誌「ヴィノテック」2020年2月号)では、選ばれた5本の内の2本が、このツォラの赤白2本でした。
 
最後にひとつ異色のワインをご紹介します。
パレスチナの土着品種で「マラウイ」と呼ばれる白ぶどうがあるのですが、DNA鑑定をおこなってみると、紀元前後に飲まれていたとされる品種と同じものだと分かりました。ニューヨークタイムズやCNNで「キリストが飲んだワイン」として報告され、話題になりました。イスラエルのいくつかのワイナリーと修道院でこの品種を使ったワインが作られています。
 
(マラウイのワイン)

 

ワインは作られたところで飲むのが一番美味しいと言われます。イスラエルを回りながら、ゆっくりとワインと料理を楽しむツアーを企画してみたいな、と思っています。皆様も一度いかがでしょうか?