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考える道具を考える

The instrument which I think

まだ頑張っている商店街を歩いていると、
ビートルズの初期の作品が耳に届いてくることがある。

だいたいはCDを屋台で販売している
安価な臨時の屋台のようなショップの
安いCDプレーヤーから流れていることが多いのだが、
プリーズプリーズミーなどが流れていると、
ふと、足を止めて振り返ってしまうことがある。

いつの時代も共通の共有感覚というものあるようだ。
歌は、その時代の最も共感性の高い歌唱歌詞がヒットする。

また、自分の体験や悲しみ、絶望について歌う歌手の存在もずっと時代に共感してきた。

一発屋はお笑いの世界だけでなく、
歌の世界にもあるが、人々の悲しみを歌った楽曲は、
時代を超えて支持される歌が多いように思える。

その歌が生まれた時代に適応しつつ、
その後の時代の変化にも惑わされることなく、
強いインパクトを与え続ける歌となって残るからだろうか?

ビートルズの全盛期は、
既に40年以上の前なのに、
その新鮮さは失なれてはいない。

今に共感し、
そして過去の記憶を蘇らせる何かがあるのが、
音楽の力なのかもしれないですね。

今日も、元気で!




将棋の元名人加藤一二三九段が好んで使っている、

 直感精読

という言葉が私は大好きだ。
このブログでも何度か書いたが、
この言葉には、

「直感力」という情念的な要素と、
「精読力」という論理的な要素の
二つの対立する概念が結びついた
人間の判断を促す極めて人間的な衝動を表現していると思えるのですね。

瞬間的に「これは、こうだ!」と直感し、
その直感に「本当にそうか? それは何故か?」と問うていく。


直感は、
自分の経験によってインプットされた様々な情報を、
直前の判断に応用しようとする脳の自然な力であり、
その直感によって瞬時に導き出された判断を、
一旦立ち止まって、じっくりと読んでいく姿勢が、
精読という努力なのです。


ところで、イメージングという脳の活用領域の研究によって、
自分が強い思いで願うことは、
現実化するという昔ながらの言い伝えが、
極めて科学的に解明しようとしている。

これまで様々な格言でも伝えられてきた、
夢の実現は、自分の中に実現しようとするイメージが強ければ強いほど、
現実のものとなるというわけだ。

このイメージングは、
即ち直感精読に通ずるものがあるのではないかと‥。
ふと、そんな風に思ったのですね。

さて、本日より大型連休に入る方も多いのでしょうね。
どんな風に楽しもうとするのか、
どこか行楽地に行ったときに、
その場所、そのシーンでどんな風に楽しんでいる自分がいるのか、
そのイメージを強く思うことで、
きっと、休日が充実するように思えます。

大いに楽しみましょうね!

名門ハーバード大学。
マイケル・サンデル教授のJustice正義というタイトルの授業がはじめて公開され、その映像が毎週日曜日の夜6時から教育テレビで放映されている。全部で12のテーマ。6月20日まで続く。

門外不出の大学の授業が、映像で全世界に流れているのですね。

政治哲学というジャンルは、今までそんな興味があったわけではない。
しかし、この授業で展開されている議論は、
一般市民の私でも刺激に溢れていますね。

例えば、第3回のテーマ「富は誰のもの?」では、
アメリカのスーパースターであるマイケル・ジョーダンとビル・ゲイツが取り上げられ、彼らが得ている収入を、税金という形で国が取り上げることは、強制ではないのか? という問いが投げ掛けられる。

市場原理主義が渦巻くアメリカにあって、富を得たものは、自らの努力によって得たのだから、その富を国が強制的に税金として収奪するのはおかしくはないか? という問いだ。

税金を払うのは国民の義務だと、何の疑問もなく思っている私達は、改めてこういう問いを投げかけられると、びっくりする。富を膨大に得た人間は、社会からの恩恵にあずかっての結果なのだから、社会に還元するのは当り前だという考え方と、そもそも国が、個人の努力によって得た富を再度収奪していくのはおかしいという考え方がディベートされる。

それにしても、この議論を見ていて、
日本の国の形を考えてしまった。

まずは、そもそも、日本にはビル・ゲイツやマイケル・ジョーダンのようなスーパースターはいない。あるいは、そのような突出した存在を認めたがらない風潮がある。集団嫉妬の国民などと言われる。

また国も、その権力を使って、突出した人物の存在を許さない気配がある。
莫大な富を得た人物は、必ず突き落とされる、場合が目立つ。

水泳の北嶋選手がどんなに金メダルを取ったところで、その代償に莫大な富を手に入れたとは思えない。いやむしろ、だからこそ、赤貧の美学にすら仕立て上げられているのかもしれない。マラソン選手のプロ化が叫ばれたが、世界大会で勝っても、賞金の額は知れている。マラソンで莫大な富を得たという話は聞いたことがない。

日本人の富と再配分の考え方は、国家主義的だといわれることが多いのは、こんな事例を見ても分る。では、日本の大学教授で、このような日本の現状を、サンデル教授のように授業で展開している方がいるだろうか?

‥‥いろいろ、考えさせられますね。
  そうそう、考えさせられるということが、教育の最大の効用なのでしたね。

続きが楽しみです。

今日も元気で!
会議進行役。
ファシリテーターという言葉が
わが国で普通に使われるようになったのは、
いつ頃からでしょうか?

少なくとも、つい最近。
ここ10年?

ファシリテーションを研究する団体の一つである、
日本ファシリテーション協会は、
2004年1月に、内閣府より特定非営利活動(NPO)法人の認証を受けたとされている。
僅か、6年前だ。

日本の組織は、
基本的には垂直統合型のヒエラルキーで、
縦型の指示命令系統が重視され、
一気呵成に驀進する組織が好まれた。

個人の意見より、
集団の意見を重視する。
それが個人と組織との関係性を維持する規範となった。

ついこの間まで、
そして今でも、
この考え方に支配されている企業や団体は多い。

しかし、時代が変化を求めるようになり、
個人の自律型ワークスタイルが重視されるようになると、
これまでのヒエラルキーでは問題解決しない課題が露骨に現われ始める。
誰かが指示を出し、働くものは、その目標のために走るだけでは、
問題は解決しない。

こういう場面で組織形態を変革しようとするのが、
ある意味ファシリテーターの役割なのでしょう。
その意味で、ファシリテーターは、
単なる会議の進行役という役割に留まることなく、
組織変革、ひいては企業の事業そのものにも
深く係わることになるのでしょう。

しかし、そういう役割が、
現状の組織の中の、どこに位置づけられるのかは、
まだまだ試行錯誤の中にいるようですね。

ファシリテーターとしての機能は新しい組織の中でこそ活きるわけですから、
組織が変わろうとしなければ、
機能だけいれようとしても変化は期待できない。

企業組織の変革とは、
ファシリテーターの位置づけで見ることもできそうですね。


今日も元気で!