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考える道具を考える

The instrument which I think

ケニアからの留学生ワンジルさんが転落死した。
僅か24歳。

痛ましいニュースだった。


オリンピックのマラソンで金メダルを取った時、
日本の中のケニアアスリートの代表として、
心の中で応援し、そして優勝した時は、
何故かとても嬉しかったのを憶えている。

仙台育英高校の選手として、
年末の京都を驚異的なスピードで駆け抜けていった姿は、
日本人とケニア人の根本的な差を感じ、
ただ、ただ驚くばかりだった。

その彼が、ケニアの代表選手として、
オリンピックに参加し、
そして、あっさりと優勝した。
しかし、その時の日本語でのインタビューで、
彼は日本人的な言葉を発した。

‥‥我慢。

日本に来て学んだことは、
苦しい時に「我慢」することだったと‥。

天性の才能に、日本的な我慢という精神力。
この二つが融合した時、既に世界で一番早い長距離ランナーは完成していたのだと思う。


しかし、その後の彼の人生がどうだったのかは分らない。

栄光の後にやってくる、周囲のざわめき。
彼を取り巻く人々の思惑。
あるいは単なる恋愛上の問題かもしれない。

しかし、確実に変化した彼の人生が、
いつしか人生の「我慢」を忘れた時、
転落が待ち受けていたのかもしれない。

どちらにしても、真相は分らない。


東日本大震災の真っ只中。
仙台の高校に留学して得た才能と栄光が、
こんなにも早く消え去ってしまうのが、
たまらなく哀しい‥‥。

彼は、今回の震災を、誰よりも、
悲しんでいたに違いない。

合掌
東日本大震災。
特に福島原発に関連してテレビに映される、
東京電力、原子力安全・保安院等。

まるでお粗末な記者会見を見ていて、
日本人のプレゼン能力のお粗末さに、
日本人の一人としてウンザリする。

テレビを見ている日本国民に対して、
「お手元の資料1の●●を見ていただき‥‥」
と発言している。

我々の手元に資料が配布されているとでも言うのか?

一番心配している福島原発から避難している
その住民の皆様に、
その資料は配布されているのか?


思うに、記者会見は、
そこに集まっている記者のために開かれている。
だから資料は記者に配布される。
いずれはネットに公開されるが、
その場に、被害を受けている当事者はいない。

問題を発生している当事者、国、官僚の、
本音が全てこの記者会見のプレゼンの姿に反映されている。

大切なのは世論であり、
避難者ではないのだ!


そして、もう一つ。
日本のマスコミ、ジャーナリストのテイタラクに、
愕然とする。

ことの本質に論壇を張るジャーナリストが一人もいない。
テレビの放映のパターンは、
被災地の惨状、避難所の酷い状況の放映、
そして、お涙頂戴の物語。
最近はとうとうペットとの再会の物語まで登場してきた。

論説、解説に登場する有識者にも、
何故か愕然とする。

一時期、さかんに登場していた東大系原子力専門家は、
パタリと姿を消した。
安全を強調する役割が終わり、
表面上、安静化しているような今の世論を形成できれば、
専門家はもういらないというのか?

短期的な解説はもういい。
長期的にどのような影響が発生しているのか?
継続的なテレビ番組の特集があってもいいのでは?

本日の放射線量の情報発信ではなく、
本日までの蓄積線量の情報を発信し、
状況を発信していく番組があってもいいのではないか?


何故か、不思議に思う。
情報は、伝え方によって、その内容が変化する。
客観的情報などないのだということを実感する。

全ては、プレゼン能力なのか?

誰か、国や東京電力の人に、
プレゼン能力向上のためのサゼッションをする人はいないのか?

総理にも‥


不謹慎かもしれない。

でも、かれこれ20年近く、
停滞する日本で暮らしてきて、

一瞬にしてリセットされた生活を眼前にして思うことは、
「もう一度一からやり直しなさい!」
という天からのお告げを受けたとしか思えないからです。

復興を楽しもう!


きっと不謹慎だと思う。

今、近隣の避難所を回っていて、
既に絶望するかのような家族の方々の表情を見ていて、
こんな言葉は吐けないのも事実です。


でも、一瞬にして消え去った故郷を、
どのように復活させるか、
考える機会を貰ったと捉えれば、
本当は、心の中では、凄いことのど真ん中にいて、
歴史のど真ん中で、
仕事ができると考えることもできる。

被災地の中にいて、
こんな気持ちに揺すられて、
今、自分にできることは何か?
と真剣に考えることができること、
それは実は、素晴らしいことなんだと、
思わなければ、明日を迎えられない。


本当に不謹慎なことだと思う。

戦争で町を失ったヨーロッパの復興政策は、
全てを元の町に戻すことだった‥‥と、
そんな話を聞いたことがある。

ヨーロッパの町を旅行で訪ねた時、
これだけ戦争が続いた地域なのに、
人々の家並みが1000年続いていることに驚いたことがあった。

本当は、何度も何度も、
壊れてしまった町ではなかったのか?

そんな体験を思い出した。
その時、町で出逢ったヨーロッパの地元の人々は、
過去の町をそのまま再現することを、
復興と呼んだ、と聞いた記憶がある。

これから東北の美しい沿岸の街並みを、
どのように再生していくかの議論が渦巻くだろう。

でも、願わくば、元の町そのままに、
戻していくことを軸に計画が立案されていくことを、
私は静かに願うばかりです。

過去、そういう町を作ってきた必然性が、
その町にはあり、だから、そういう町の姿であったからです。
元の姿に、そっくりそのまま再現したい。

だって、
ここが故郷なのだから!


私が少年の頃、
横浜の下町は、まだバラックが立ち並ぶ戦後の町だった。

みんな貧乏で、
それでも大家族が必死で、
ただ、ひたすら、今日を生きていた。

そしてその頃の私は、
日々起こる哀しい出来事を忘れるために、
夜が来ると、ただひたすら、
一生懸命、眠ろうとしていた。

‥‥

朝が来て、
目を覚ますと、
周囲が見違えるような夢の国になっていのではないか?

そんな期待をもって、
昨日の悲しみが去っていってくれないかと、
目覚めの時は、辺りを見回すのが常だった。

でも、次第に目が覚めてきて、
周囲が見違えるような夢の国になっていることは
残念ながら、なかった。
また、哀しい現実が、始まるのだった。

戦後の横浜の下町は、
戦災の傷跡が消えない、
哀しい町だった。

‥‥

今、東北の避難所で暮らす子供達を見ていて、
つい、自分の遠い過去を思い出した。

子供達は、きっと、
明日の朝起きたときには、
昨日まで住んでいた自分の家の、
自分の寝床で目が醒めることを願って、
一生懸命、眠ろうとしているのではないか‥。

朝起きて、‥‥
ねぇ、ねぇ、凄く怖い夢を見てきたんだよ!
ってね、そう言える筈だよねって、
そう思って、一生懸命眠ろうとしているのではないか?

この現実は、
きっと夢なんだよね!
ってね、誰かが言い出すのを、
静かにじっと、待っているのではないか?

‥‥

私は、夢の扉の前に居て、
まだ、その扉を開けていないんだ!

そう信じていた少年の自分が、
まだ私の心の中に居る。

静かに静かに横たわる、
少年の繊細な心の襞を癒すには、
この現実は、惨すぎる‥‥



未曾有の‥‥
という言葉も使いたくない気分。

誰もが予想だにしなかった‥
という言葉も使いたくない気分。

誰が、こんな風にした?‥
という言葉を使って、
突然、反原発原理主義者になる、
知識人? にも、うんざり。

今、反原発を称えても、
原発の近隣にいる人にとって、
何の役にも立たない。

一度は受け入れた原発に、
東電から嘘をつかれたと言って、
怒る気分ではない。

地理的には、
原発の比較的近くで仕事をする私にとって、
原発を意識しなかった自分を振り返りながら、

まずは、今の現実を、
目を見開いて、受けとめることからしか、
一歩を踏み出せない‥気分。

まだ、諦めてはいないぞ!