His Divine Grance - Reverse Aleph / Schlangenkönigin

電子雑音ではハンガリーのバンドと書いてしまったような気がするフランスのダークアンビエントバンドHis Divine GraceがDer Blutharschのレーベルから出した2枚のアルバムのご紹介。2001年に出たReverse Alephは打ち寄せては引いていく音の波が延々と1時間以上繰り返される。典雅な響きを持つその波は漆黒の空を背景として薄靄のように音が届く限りの空間を侵食していく。NWWのSoliloquy For Lilithと透過性分子が合体した様な真夜中に延々と流れていて欲しい黒檀のような美しさを持つ作品。「蛇の女王」と題された2枚目は1枚目に比べて明度の高い音の波が漂う冒頭が「葉の中に住まうもの」という意味深な曲から悲劇の様相を帯びた旋律の繰り返しとなる。やがてそれは荒涼とした風の吹く中に小さく小さく灯る何らかの救いがあるはずの場所への目印の様にふとした拍子に見失い、消えてしまいそうな音へと収斂していく。そしてまたこの世の全てから遊離していくような荘厳な音の波が始まる。人の声が物を語り、遠雷が聞えたり、鳥の声が頭上の梢から聞こえてくる中でもその音は響き続ける。アルバムが終盤に近付く中、人を近づけぬような厳めしさは柔和な物へと徐々に場所を譲り、まるで眩い金色の陽光が降り注ぐ音の森を抜け、暖かな陽の射す小道を逍遥しているかの様。道端に置かれた巡礼の鈴の音か、若しくは放牧された牛の胸に取り付けられた鐘の音かが長閑な間隔を置きながら鳴る中でまたしても遠雷の音が耳に入り、今までその下に隠れ潜んでいた女の声が地上へ現れてくる。その声は何を訴えるでもなく、ただ発せられ、ただ人々の耳に聞こえてくる。この2作目はErnst Jüngerの小説”Auf den Marmorklippen”に題を取ったものらしい。大理石の断崖の上でとして邦訳ありだが未読。

Luke Holland ー Purgatory

恐らく私はこの手の作品のレビューを書くたびに痴呆症の如く繰り返すのであろうが1980年代半ば頃にノイズとは「垂れ流しのオナニー」、「自己陶酔」と言って貶して良いジャンルであった。その様に貶めたふりをして読者の興味を引こうとしたのか、はたまた弱い者いじめの様なものであったのか(私はそう思っている)は不明だが2021年の今であっても、私のPCで「垂れ流し」と打つと「垂れ流しオナニー」が予想検索される程に私の中では強烈なタームとしてこの表現は残っており、私の好みの中には今でも「垂れ流しオナニー」というジャンルがある。しかしながら年が経つにつれ垂れ流しオナニーをしているアーティストを見つける事が段々と難しくなってきた。ますます「ノイズミュージック」は細分化され新しいジャンル名が発現し、確立し、何も垂れ流しオナニー何ぞという不興かつお洒落でも何でもない言葉を使う必要もないまでにノイズは受け入れられ、オナニーがオナニーであった事は忘却され、レコードショップに「これはオナニーではありません。どなた様でも楽しめます」という風な売り文句と共に商品として鎮座している。それはそれで良い。しかし、あの自己陶酔的オナニーから放射というか染み出てくる陰鬱、陰気、陰湿な音感は正に「ノイズ」に他ならず、絶滅危惧種としてでもこの世の中に生き残って欲しいと考えている。そんな中で久し振りに見つけたオナニスト的アーティストがLuke Hollandである。何故か死蔵されていたTrapdoorからのカセット。人の声がしないAtrax Morgue,Anenzephaliaの様な空間が時として仄かに耽美な死の香りを伴って垂れ流れていく。陰湿な音色、不愛想な外観、曲名表記無し、何か嫌な感じのジャケットと全く人を楽しませようと考えていない自己陶酔振りが素晴らしい。

CRIMINAL PARTY - NECROPHILIA

 

*CRIMINAL PARTYの情報をお待ちしております*

 

私はギリギリのタイミングで80年代のノイズ系カセットがレギュラープライスで買えるタイミングでモダ~ンミュージックへ出入りをする様になった。初の来店時に購入したのがMerzbowのAGE OF 369とこのカセットである。FMで取り上げられていたナチの死体解剖ビデオ(3万円也)の発行者であるCPは私の中で既に神秘化されておりそのイメージ通りのタイトルを持つこのカセットを長年の片想いの後に入手できた時の感慨の深さを今でも覚えている。母性像、生殖器加工 異物神話、性的虐待04(淫楽殺人愛好者)、性的虐待05(死体愛好者)がA面、CHILDREN'S INSANITY、DEATH' EIN FRIENDS(FOR A NECROPHILIA)、POLTERGEIST(EMBRYO IN FIRE)がB面。このタイトルだけでもう何というか陰湿な人間の心をとらえるには充分であった。湿り気のあるダンジョンシンセ、ざらついたノイズが急に開けメランコリックなギターの旋律へと変わる展開、何とも形容し難い変容ヴォイス、鬱々とした陰気・陰惨な攻撃性、延々と続く悪夢の様なリズム、垂れ流されるノイズは暗黒アンビエントに変わり(元ネタは地獄の黙示録のサウンドトラック。こういう所があるからイマイチ評価されないのだろうが…)、狂気の果ての痴呆・白痴状態から生じた自己催眠をそのまま自宅で録音した邪気の音塊を潜り抜け、不明瞭な暴力の渦巻く灰色のラストへ至る。個人的には名盤である。個人的には正に80年代である。私の中では「音」コンピで一曲だけの邂逅をした下関のMental Decay(音1.https://ameblo.jp/teitoy/entry-12472788145.html)、Ryuzi Ryuzi(音4.https://ameblo.jp/teitoy/entry-12472788259.html)と同じ地平に立つ彼だがその後も暫らくはCPのテープを購入する機会に恵まれ続けた。それらについてはおいおい書き継いでいこうと思う。

Les Joyaux De La Princesse & Regard Extrême ‎— Die Weiße Rose

(書き直し)

 

電子雑音というか帝都音社内で「神」の称号を得ていた王女の宝石ことLes Joyaux De La Princesseと同じくフランスのネオクラシカルRegard Extremeの合作。LJDLPが今作で題材としたのは反ナチ抵抗運動の代名詞とも言える「白バラ」。全てが一元化されが人々が白痴化し考えることを止めた時代に人々の理性、知性に訴えるべく行われた非暴力の抵抗運動。当然、彼らは捉えられ多くのメンバーが処刑された。しかしその精神、行動は約50年後にこの作品を生み出した。天に昇っていくかのような悲壮で優美なメロディー、圧し掛かってくるようなパイプオルガンの音とミリタリードラム、ヒトラー演説とそれに続く暗転、重苦しく流れ続ける低音。この作品中にあるものは純粋な「捧げもの」であり、作者の中に「白バラを描くことによって何らかのフィードバックを得よう」という邪な考えは一切ない。ただひたすらに歴史的事実に沿いながら作品を作り上げ、それを、何よりも、白バラの気高い理想と行動に捧げようという試みである。
彼等の本拠地であったミュンヒェンでかつての住居、活動の舞台となったミュンヒェン大学、裁判の行われた部屋、そして墓地を訪れたことがある。それぞれの場所には彼らの活動の痕跡が70年後も未だ残されていた。またそれは単に「モノ」が残っているだけではなく裁判の行われた部屋に未だ白バラの生花が飾られているように、そして墓地を歩いていた私に「白バラのお墓を探しているの?」と老婆が声をかけてくれたようにその「精神」、その精神を受け継いだ「人」も未だにそこにあった。人が滅びたとしても精神が生き続ければまたその精神が新しい行動、新しい人を生み出すのだろう。

Various ‎– Power Electronics Against Communism II

 

何とも凄まじいタイトルのVA。発行元だか配給元だかの名もヤバイ。TGは兎も角、初期WHITEHOUSEやRAMLEHによるあっち系の世界観とノイズの絡みは厨二病の延長で日本人のサブカル文化人が何やらを気取って一時期鸚鵡のグッズを集めていた様なもの(同一視するのは流石に言いすぎだがベクトルは同じと思っている)でMBのそれは陰湿なフェティシズムの様な物と思っている。
それから約35年から40年経てば当然世相も変わりノイズやパワーエレクトロニクス、インダストリアルの利用のされ方も変わって当然ではある。しかし、前も書いたが、2010年頃以降のパワーエレクトロニクスやインダストリアル界に於けるHATEの本気度には「う~ん」と唸らざるを得ない。どう見ても彼らは本気でやってるとしか思えないのだ。
その昔にTAINTは「政治的では無いとか言うならそんな事するんじゃねえよ」と容赦なくあるアーティストをディスったりしていたのだが今や逆に「インダストリアルとハーシュノイズは別物であるべき」何て言う文句も出る時代になった。要は「俺たちのやっている事はただ音楽だけではない」と言いたい連中が一定数いるのだろう。
ここに参加している連中は何れも言い訳の出来ない事をしているという自覚はあるのだと思う。また自分達の作品がある程度のサポートを受けることが出来るだけのリアリティを持っているのも分かっているだろう。またパワーエレクトロニクスとインダストリアルの音楽的な激越さが自分達のメッセージを乗せるのに格好なプラットフォームである事も。それが何とも現在の欧米の社会の一部を正しく反映している様で非常に興味深い(欧米がますます混沌としてくる中、日本だけ我が道を行っている所もまた面白い)。
一方では、やや話はそれるけれども、HERUKRATやKOUFARといった宗教的と言われてもそれを作者が否定しないであろうパワーエレクトロニクスという一昔前には考えられないような連中も出てきた。これからどのような連中がどんな主張を携えこの音楽ジャンルに参入してくるのか?少なくとも思想的に軟化出来るような音楽スタイルではない為にますますとんでもない連中が参入してくるかもしれない。
最後にアルバム内容だが(私が)殆ど知らない連中が多いにも拘らずクオリティが高い。幾つかは誰かが変名でやってるんじゃないかと思う程。それ程、こなれていないバンドも結構あるがそれはそれで80年代テイストを感じさせて良い。アンダーグラウンドという形容がピッタリのアルバム。同志達に行き渡ればそれで良い位のスタンスで発行しているのだろうか参加者のほかの音源を入手するのがまた難しいというかDISCOGS経由では販売不可なものも多い(このアルバムもまた然り)。
PS。ちょっと前にジャパノイズ何たらという本が出たがパワ‐エレクトロニクス&インダストリアルと欧米の社会:政治の変遷を学問的に叙述してくれるような人は出て来ないのだろうか。正直、ジャパノイズなぞとっくに死語だと思うのだが・・・(当然、日本のバンド群をディスっているわけではない)。

Painting Petals On Planet Ghost - Haru no omoi
モダ~ンミュージックが運営していたPSFレコードから発売されたMy Cat Is An Alienの二人をバックにイタリア人女性が与謝野晶子、清少納言の文を日本語で歌うという作品。「イタリア人女性が与謝野晶子、清少納言の文を日本語で歌う」というコンセプト…、普段なら全く食指が動かない世界なので購入に際しては店長からの推薦があったのだろう。モダ~ンの店長の美意識の一つに「歌が上手すぎて技巧に走るのはダメ」というのがあったと私は勝手に思っているのだがこの作品で聴かれる女性ヴォーカルは正にそんな感じ。勿論、下手ではないがこれ見よがしな技巧や念の籠め方というものは無く、ふとした時に漏れた呟きや吐息の様なものがたまたま旋律を生み音楽となった様な音世界。かと言って素朴、静謐、抒情何ぞという売らんかな精神溢れるキャッチコピーがぴったり当てはまる世界でもない。また「女性」という言葉は時にアンダーグラウンド世界ですら売れ線となりうるがそれすら超越した徹底的なまでに「個人的」な空間には時として寒気すら覚える。正に商業音楽を徹底的に忌避し「うた」に拘ったPSFならではの作品。因みにジャケ写は店長からお伺いしたところによると本人が撮影した苔の写真であるとのこと。

ILLUSION OF SAFETY - FIFTEEN/FINITE MATERIAL CONTEXT

Jim O’Rourkeが在籍したと紹介されることが多いIOSだが正確にはDaniel Burkeを中心人物としてその他のメンバーは流動的なプロジェクトと言うべきだろう。恐らく今はリリースを止めているTescoのサブレーベルであるFunctionalからの第一弾(因みにこのレーベルの主眼は過去作をFunctionalな形で再発するというものー過去の電子雑音インタビューより)。IOSはTescoからの名作VA-Projekt Neue Ordnungにも参加しており、そこで聴くことの出来るベタと言えばベタな気味の悪いサウンドとセンスの良いバンド名が昔から好きなのだがそのスタイルの(意図的な)一貫性の無さ故、私の様な頑迷な聴き手には何とも困り物なこの人達。だがこの作品は正に先の曲に似たスタイルの全く宗教性のないダークアンビエントとか荒涼としたアメリカの郊外に流れるBGMの様と言いたくなる薄暗て冷酷な音世界がこのCDの前半部分(カセットFifteenの再発部分)を占めていて何とも嬉しくなる。この紹介文を書く前に彼等のHPを訪れたところ荒涼とした工業地帯の不気味さを音で表現したかったという趣旨のことが書いてあり正にそれに成功した作品と言えよう。後半のFinite Material Contextの再発部分は何の大人の理由かは不明だが一部のみの収録。IOSに関わった人物達のソロ音源集。成程、これだけの人が関われば同じバンド名であっても曲調は大きく異なる作品が出てくるだろうことが良く分かる。緊張感のあるものが好きな人間からすると矢張り前半部分が良いなあと思ってしまうのは仕方がないか。

ps

因みに以前紹介した以下のVAの20分近い大曲 CRACKS APPEARもこの路線の名曲。他の2バンドの曲も素晴らしいのでぜひ一聴いただきたい

 

 

 

 

 

 

 

 

Unclean  ‎– Surreptitious Resonance

FILTH AND VIOLENCEからのリリース作もあるUNCLEAN。Hal HutchinsonというかZSS主催のレーベル、CONTROL RESISTANCEとFINAL SOLUTIONのカバーを含む2018年のライブレコーディング。とここまで書けばこの人の出自というか思想というかは丸分かり。

汚濁音が流れる中に時には明瞭な怒声、時には自分を見失ったような木霊が聴こえてくる。媚態を振りまく売春婦の声に軽蔑のエコーが掛けられた後に始まるCRのカバー曲はそのバカ女の声とは対照的にその輪郭が異様にくっきりと浮かび上がりライブ終盤に向けての雰囲気作りに寄与している。そしてラストはHHをヴォーカルに迎えてのFINAL SOLUTIONのRavensbrück。本家のドキチガイヴォーカルと比べるのはアンフェアとすら言えようからそれは止めるとしてもこちらも中々の貫禄ぶり、欲を言えばもうちょっとはっきりと聞えるようにがなって欲しかった。

曲が終了した後に聞える熊の如き大男が発したであろう歓声。それを聞くとああ完全に、ある種の人間にとって、ここは立ち入り禁止なんだと悟らされる。

 

INCAPACITANTS-Extreme Gospel Nights
インキャパシタンツのライブと言えば思い出すのが恐らく95年前後のアンチノックでのライブ。インキャパシタンツのライブ=大盛り上がりという図式が何時からのものであるのか私は知らないがその夜の観客はクールであった。その為かトリである彼等の演奏前のフロアは閑散としていた(そもそも客も数十人程度)というか誰もいなかった様に記憶している。彼等を初めて見る私もぼんやりと壁際のベンチに座って彼らの演奏が始まるのを待っていた。そんな中で彼らの演奏が始まり、私は今までノイズのライブで全く見たことが無かった光景を目の当たりにする。演奏が進むにつれ、まるで彼らの熱気に釣られるように観客たちがステージ前にぞろぞろと集まってきたのである。私もその一人であったのだが、まあこれは衝撃的であった。今まで見たノイズのライブは大抵が椅子が置いてあり、どれだけ音やステージングが刺激的であっても立ち上がったりステージ近くに集まったりということは皆無であった(また何時か書くがCCCCのギタリスト氏は渋谷ライブインにて勇敢にも椅子に座っている観客達にダイブしたのである)。またノイズのライブとは座って聞くものだと私も何となく思っていた。

しかしながらこの93年リリースのライブカセットを聴くと既に95年よりも前に如何にもライブハウス的な熱狂が彼らのライブ空間を満たしていたのを知ることが出来る。カセットA面に荒々しい観客の叫び声がハッキリとここに記されているのだ。悠長に座ってなどいられない。豊饒なる音の奔流に身体が立ち上がることを欲し、拳を自然と突き上げてしまう状況が今と変わらずあったのだと彼らの歓声が教えてくれる。
PS。ただ一度でも良い、彼らのライブで目を閉じてみることをお勧めする。あれ程のアクションをしながらも完全に音がコントロールされ、構築されていることが良く分かるはずだ。見て楽しく、聴いて関心する二重に楽しめるライブが味わえる。

Andrew Smith   OR/DOR - FLUX MEME

ノイズ系音楽の門外漢が聞いたら失笑すらしそうだが所謂、「ノイズ」と呼ばれる音(楽)群の中でも更に「ジャンル」なるものが存在する。この「ジャンル」は少なくとも私がノイズを本格的に聞き始めた1990年前後には明確に存在しなかったのだが何時の間にやらPower Electronicsだの、最近は「Death」が省略されることが多いが、Death Industrialだのという区分けが発生し、それぞれの「ジャンル」毎に緩やかなグループが生じている。思えば何時頃からか電子雑音でもレビュー欄にジャンル毎に定められた記号を割り振る様になっていった。それを深化と取るか末期と取るかはあなた次第と言う様な文章と共にそれらは導入された記憶があるが、確かに何でも分かり易くして欲しいという(未来の)リスナーからの要望(そもそも単純な回答を求める時点でその人は「ノイズ」に向いていないと私は思うのだが)や恐らくはFreak Animal周辺から始まった「ノイズの為のノイズ」と「コンテンツのあるノイズ」の区分け(これは私もだいぶん影響を受けた)という風な事柄があの頃の、大袈裟に言えば、時代精神を形成していったのだと思う。そんな一ジャンルの中で宣言と共に確立されたのが「Harsh Noise Wall」である。のだが私はその始祖たる人の音源を怠惰故にまだ聴いていない。ただその字面で思い出したのがこのカセットである。まあ、要するに昔のフールズメイトいうところの「垂れ流しのオナニー」である。勿論、そうとしか取れないのは彼らがノイズ門外漢であるからであってノイズ愛好者が聴けば「ギター」という楽器から想像できる人間味が全く感じられない、A面、B面の区別すら不要な轟音の洪水に安らかに身を任せられるであろう(朧げな記憶ながら半覚醒状態で聴いていた記憶もある)。家人が「滝の音?」と聞いてきたのはこの作品だったかMerzbowだったか。確かに瀑布の音に聞こえなくもなく、日本の暑い夏を乗り越える佳品として、若しくは意識高い系、非肉食系方面へのちょっとお洒落なアイテムとしても機能し得るかもしれない。