地図を片手に外に出ると厚い雲がたちこめ、むしむしと暑かった。空気がはりついて肌から離れない感覚。むりやり整髪料で形にしている前髪がふにゃりと梅雨を知らせる。
停留所からバスに乗り込み、目的地より一つ前で降りることにした。僕は物件に向かうとき、基本的に公共機関を使う。ワンルームに住もうとする住人に車持ちは少ない(というか、ほとんど居ない)。店から物件への行き方も説明するときの大きなポイントとなる。
停留所でおりると、目の前にパン屋がみえた。香ばしく小麦の焼ける香りがする。僕は迷わず店に入った。ありふれたコロリンという鈴の音が入店を知らせる。トングを手にとり、コーン入りのマヨネーズのかかったパンを買った。お金を払い終わり店の中をゆっくり見ると(店に入ったとき、僕はまず買い物をする。買い物もしないのに店内に長くいる事ができないのだ)お惣菜パンから食パンまで並んでいて、奥の工房では職人さんが数人みえて、テンポよくパンを丸めていた。店員さんがレジの横を通り「ぶどうパン焼きたてです」と札をたてた。どんどん焼きたてが出てくる回転の良い店のようだ。
僕は買ったパンを受け取り店を出た。このパン屋さんはお客さんにおすすめ出来る。一つ前の停留所でおりたかいがあった。パンが入った袋をぶらぶらとぶら下げて物件へ向かった。
物件の目の前の交差点に着いた。交差点には交番と弁当屋さんとコンビニ。一人暮らしにはとても良い環境だ。ただ少し車がうるさいかもしれない。交差点をわたり物件ちかくに向かうとふわりとコーヒーの香りがした。
発作的に柳沼さんのコクンと動いた白い首を思い出す。
乾いた唇を舐めて周りを見渡すと、物件近くに古びた喫茶店が見つかった。店外に黒板が出ていて「お持ち帰りできます」と書かれていた。
重い扉を押して店内に入ると、深い雨の日のような、密度の濃いコーヒーの香りがした。
「いらっしゃいませ」サイフォンの向こう、若い男(僕と同じ位だろうか)が微笑んだ。
「何か、えっと、おすすめを、持ち帰りたいのですが」僕はわからない時、すぐにおすすめを頼むことにしている。店員はプロなのだから、僕が考えるよりすばらしい選択肢を持っているはず。
「苦みは平気ですか。酸っぱいほうが良いですか」男は白いタオルで手を丁寧にふいた。
僕はもう一度唇を舐め、さっき柳沼さんがいれたコーヒーの味を思い出した。丁寧に、丁寧に。「苦いほうが好きです」
「ミルク等、お使いになりますか」
いつもはミルクも砂糖も使うのだが、今日は「使いません」と答えた。
「ではあまり苦すぎない、ストレートで飲むと美味しいマンデリンをオススメします」店員は緑色のコーヒーの袋を僕に見せた。
「大丈夫です」僕は店員がギリギリと豆を引き始めたので、近くにあった椅子に座ろうかと思ったがテイクアウトの人間が椅子に座るのは気がひけて、カバンを抱えて入り口近くに立った。
「どうぞ、座ってお待ちください」店員に声をかけられ、僕はやっと椅子にお尻の先だけチョコンと腰掛けた。
落ち着かない。
テイクアウトを頼んでから、出てくるまでの時間は、どうしようもなく落ち着かない。ファストフード店なら注文を終えてから最後尾に移動して、ぼんやりと店内を見ていれば良いのだが、こういう店の場合、居場所も、やることもない。こういう時僕は、携帯電話を取り出して無料のゲームをすることにしている。人生、どれだけ楽しく暇をつぶせるかだ、僕は延々と続くパズルゲームを起動させ十字キーを動かした。
意味があるゲーム、面白いゲームより、断然僕はつまらない、延々と同じことを繰り返すゲームが好きだ。新しいことを始めるのはストレスになる。そんな事いいながら、先月も新しいゲームソフトを買った。結局なんでもいいのだ。どっちだっていい。
ガサッと音がしたので、ゲームを終了させて顔をあげた。
店員が紙コップにいれたコーヒーを袋に入れようとしていたので「そのままで大丈夫です」と貰い、外に出た。一秒でも早く店を出たかった。プラスチックの蓋に雫がついていたので、それをペロリとなめてみた。なんだかそれだけで欲求は満たされた気がした。
席に戻り、南台の物件への行き方を地図で調べる。市井や内田さんのようにパソコンに詳しい人間は皆、ネット上の地図を使うけれど僕は手でパラパラと見れる地図が一番だとおもう。地図はまず面が広い。パソコン画面のように小さく区切られていないし、どこの道を通ろうか考えてる時間が一番楽しい。大通りから小道へどのタイミングで入ろうか。方南町周辺は商店街が多い。ぶらりと歩いてみるのも楽しい。お客さんにその辺りを売りにするのも面白い。こういう時はパソコンが役にたつ。僕は方南町周辺の商店街を調べ、プリントアウトのボタンを押した。商店街を回りつつ物件を見に行こうと考えながらプリンターへ向かうと、プリンター横の給湯室に柳沼さんの姿がみえた。一畳ほどしかない給湯室に柳沼さんは電気もつけずにいた。
「電気、ここだよ」
僕は右側の壁に手を伸ばしてパチンと電気をつけた。
「あ、つけてないんです」ふわっと顔をあげた。
同時にほんわりとコーヒーの香りが流れた。柳沼さんは右手に小さな急須(たぶんお客さん用にお茶をいれるものだ)を持ち、コーヒーをいれていた。
「急須で、コーヒー?」思わず身を乗り出して見る。
「ポットからだと、おいしく入れられないので」と、ドリッパーのふちからゆっくりと急須でお湯を流した。
「見にくいでしょう。電気つけないと」僕はプリンター側に移動して紙束を取った。
「暗いと」ドリッパーを外してコーヒーカップを一口、口に運んだ。暗い部屋の中で白く光る長い首がコクンと動く。「香りがたちますよ」
視覚が奪われて、嗅覚がたつという事だろうか。顔をちらりと見たが、真っ直ぐに僕を見ていて一瞬目が合ったので慌てて目をそらし「へえ」と言った。
「美味しくできました」柳沼さんはコーヒーカップを僕に手渡した。言葉を失う。飲めということだろうか。さっき柳沼さんが一口飲んだものを? 戸惑ったが、これまた柳沼さんが“飲まないことが理解できない。飲んで当然”という目で僕を見ているので、カップを口に運び、柳沼さんが口をつけていなさそうな場所を探しカップを舐めた。すると苦いのに甘い、コーヒーの味がした。
「良い豆だね」とカップを返す。よく分からないが、確かに美味しい、と思った。
「お粉はここにあったものです」柳沼さんは口の両端をゆるやかにあげて給湯室の電気を切り、出て行った。
「電気、ここだよ」
僕は右側の壁に手を伸ばしてパチンと電気をつけた。
「あ、つけてないんです」ふわっと顔をあげた。
同時にほんわりとコーヒーの香りが流れた。柳沼さんは右手に小さな急須(たぶんお客さん用にお茶をいれるものだ)を持ち、コーヒーをいれていた。
「急須で、コーヒー?」思わず身を乗り出して見る。
「ポットからだと、おいしく入れられないので」と、ドリッパーのふちからゆっくりと急須でお湯を流した。
「見にくいでしょう。電気つけないと」僕はプリンター側に移動して紙束を取った。
「暗いと」ドリッパーを外してコーヒーカップを一口、口に運んだ。暗い部屋の中で白く光る長い首がコクンと動く。「香りがたちますよ」
視覚が奪われて、嗅覚がたつという事だろうか。顔をちらりと見たが、真っ直ぐに僕を見ていて一瞬目が合ったので慌てて目をそらし「へえ」と言った。
「美味しくできました」柳沼さんはコーヒーカップを僕に手渡した。言葉を失う。飲めということだろうか。さっき柳沼さんが一口飲んだものを? 戸惑ったが、これまた柳沼さんが“飲まないことが理解できない。飲んで当然”という目で僕を見ているので、カップを口に運び、柳沼さんが口をつけていなさそうな場所を探しカップを舐めた。すると苦いのに甘い、コーヒーの味がした。
「良い豆だね」とカップを返す。よく分からないが、確かに美味しい、と思った。
「お粉はここにあったものです」柳沼さんは口の両端をゆるやかにあげて給湯室の電気を切り、出て行った。
突然呼び捨てにされ、体の中心から大量の血が流れ出すのを感じる。
でもその言い方は、名前を呼んでいる風ではなく、あきひろという言葉を口にしているような単品感だった。でも僕的にはそれは名前だ。心臓はまだコクンと暴れている。「はい。あきひろ、です」柳沼さんは瞳を動かさず視線だけ上げて
「春夏秋冬の、秋?」と聞いた。
なんでそんな事が気になるのだろうと思いながら「秋に生まれる予定で秋の字を使ったけど、早産で夏生まれです」と、母親から三十回ほど聞かされた話を職場ではじめて口にした。横の席で市井が「早産」と笑う。「せっかちやのう」と内田さんも笑ったが、柳沼さんは
「夏と秋の境目って、突然きますよね」と小さく口元をあげた。
境目? 季節に? 僕はどう反応して良いかわからず、チラリと内田さんと市井を見たが、二人とも柳沼さんのアンサーより僕の早生まれというワードに反応して笑っていた。僕は柳沼さんに「はは」と、あごを軽く前に出して会釈した。「ほな始めるで」内田さんは柳沼さんの肩に、ぬめりと手を置いて座らせた。
「一週間」
市井は箸を一本たてた。
「一週間で内田さんがイヤになって辞める。完全に気に入られてる」
僕は自信満々で箸をふらつかせる市井を無視して「頑張ってほしいねえ」と口先だけで言った。正直どうでも良いのだ。柳沼さんが内田さんにセクハラされようと、仕事を明日辞めようと、三年居ようと、僕にはアフリカの砂漠で井戸が掘られてる話と同等レベル。柳沼さんも市井も内田さんも、僕の中で【その他】だ。必要以上に興味を持っても疲れるだけ。
「前に辞めた森下ちゃんは可哀想だったよな。車で拉致は犯罪だろう」
先月辞めた女の子は、内田さんに帰り間際に車に無理矢理乗せられ(本人曰く)見たくもない夜景を一時間見せられ「怖くて無理」と辞めていった。正しい判断だと思う。
「確かにあれは可哀想だったな」
あまり興味ないが、興味ないよと言って「冷たいヤツだな」と詮索されるのも面倒だ。必要最低限の反応は自分自身を救う。
「でも社長もさ、どうして内田さんを首にしないのかなあ。どう考えてクビにすべきだろ?」
市井は食事の間、内田さんがちょっかいを出した女の話をずっと続けていた。僕はその話に相槌をうち、たまには最もだと首をふって笑った。一人で話をして進んでいく人間は好きだ。反応さえ間違えなければ、僕は何もしなくて良い。何より僕が話すより、僕以外の人間が話したほうが面白いのだ。僕は僕の話に一番興味がない。
でもその言い方は、名前を呼んでいる風ではなく、あきひろという言葉を口にしているような単品感だった。でも僕的にはそれは名前だ。心臓はまだコクンと暴れている。「はい。あきひろ、です」柳沼さんは瞳を動かさず視線だけ上げて
「春夏秋冬の、秋?」と聞いた。
なんでそんな事が気になるのだろうと思いながら「秋に生まれる予定で秋の字を使ったけど、早産で夏生まれです」と、母親から三十回ほど聞かされた話を職場ではじめて口にした。横の席で市井が「早産」と笑う。「せっかちやのう」と内田さんも笑ったが、柳沼さんは
「夏と秋の境目って、突然きますよね」と小さく口元をあげた。
境目? 季節に? 僕はどう反応して良いかわからず、チラリと内田さんと市井を見たが、二人とも柳沼さんのアンサーより僕の早生まれというワードに反応して笑っていた。僕は柳沼さんに「はは」と、あごを軽く前に出して会釈した。「ほな始めるで」内田さんは柳沼さんの肩に、ぬめりと手を置いて座らせた。
「一週間」
市井は箸を一本たてた。
「一週間で内田さんがイヤになって辞める。完全に気に入られてる」
僕は自信満々で箸をふらつかせる市井を無視して「頑張ってほしいねえ」と口先だけで言った。正直どうでも良いのだ。柳沼さんが内田さんにセクハラされようと、仕事を明日辞めようと、三年居ようと、僕にはアフリカの砂漠で井戸が掘られてる話と同等レベル。柳沼さんも市井も内田さんも、僕の中で【その他】だ。必要以上に興味を持っても疲れるだけ。
「前に辞めた森下ちゃんは可哀想だったよな。車で拉致は犯罪だろう」
先月辞めた女の子は、内田さんに帰り間際に車に無理矢理乗せられ(本人曰く)見たくもない夜景を一時間見せられ「怖くて無理」と辞めていった。正しい判断だと思う。
「確かにあれは可哀想だったな」
あまり興味ないが、興味ないよと言って「冷たいヤツだな」と詮索されるのも面倒だ。必要最低限の反応は自分自身を救う。
「でも社長もさ、どうして内田さんを首にしないのかなあ。どう考えてクビにすべきだろ?」
市井は食事の間、内田さんがちょっかいを出した女の話をずっと続けていた。僕はその話に相槌をうち、たまには最もだと首をふって笑った。一人で話をして進んでいく人間は好きだ。反応さえ間違えなければ、僕は何もしなくて良い。何より僕が話すより、僕以外の人間が話したほうが面白いのだ。僕は僕の話に一番興味がない。