僕は鞄をあけてハンカチを探して渡そうとした。すると柳沼さんは「濡れちゃうから」とにっこり微笑んで断った。ハンカチは濡れた物をふくためにある気もするが、ここまで濡れている柳沼さんにこのハンカチ一枚では何も出来ない気もして、腕ごとブランと下げた。何もできない。
「あっちですかね、会場」柳沼さんは、コンビニの屋根の下にも入らず歓迎会を行う居酒屋がある方向を指差した。濡れた手から雫が落ちる。
「たぶん、ええ」僕はぼんやりとその場に立ち尽くした。何から手をつければ良いのかわからない。そんな気持ちに襲われた。柳沼さんは目の前で、僕を待っているようで、ぼんやりと立っている。当然のように雨に濡れて。
「ちょっと待ってて」僕は店内に入り、大きめのバスタオルとビニール傘を買った。傘も、タオルも今から使います。なんだか慌てて少し大きな声になっていた。
僕がタオルと傘を買う間、柳沼さんはずっと雨の中に立っていた。
「ちょっと」柳沼さんを手招きでコンビニの屋根の下に呼び、頭にタオルをかけた。「ふいた方がいいよ」
「ありがとうございます」柳沼さんは青い隙間(バスタオルは青いものしか無かった)から、ふにゃりと目を細めて微笑んだ。そして細い指をシャクシャクと動かし髪の毛を拭いた。僕はすることが無かったので、まだ半分だけ屋根から外に出ている柳沼さんの肩を、傘で隠した。
傘に雨粒があたり、バララと音をたてる中、考えた。
柳沼さんは濡れたまま会場に行くつもりなのだろうか。濡れたままの柳沼さんを連れていっても、連れていかなくても、途中で出会ってしまった僕の責任のような気がして、必死に考えた。
「タオル。濡れちゃってすいませんでした」
柳沼さんは濡れた白いタオルを丁寧に何度も折り、小さくして僕に手渡した。拭いたとはいえ柳沼さんはビショ濡れで、僕は「いや、うん」と、まだ何かしなくてはならないのに言葉が見当たらずタオルをとりあえず受け取った。
「行きましょうか」柳沼さんは、もうあとは会場に行くだけだという晴れやかな笑顔で僕を見たが、下着がすけて見えるほど濡れている状態のまま飲み屋に連れて行くのはどうなのか。この子、少し普通じゃないのかもしれない。そう思ったと同時にじゃあ十分は普通なのかと問い、つかれてしまった。僕は一つため息を吐き出して言った。
「やっぱり着替えたほうがいいですよ」僕は傘を開いて、柳沼さんの上にさした。
「持ってません」
柳沼さんはとても不安そうに言った。そりゃあそうだ。それは分かってるが、このまま行くのも。近くの店で服を買うというのはどうだろうと思いつきクルリを首を回したが、周りにはおでん屋とラーメン屋しか無かった。
「行きましょうか」柳沼さんは僕の傘からスルリと抜け出し、青になった交差点を渡りはじめた。僕はそれを追う形で歩き出した。傘にバララと雨粒が落ちる。柳沼さんはスタスタと交差点を歩き、角を曲がった。その迷いがない歩きに僕は逆に悩んだ。僕がおかしいのだろうか。下着が濡れたまま飲み会に行くのは普通なのだろうか。すくなくとも僕はいかない。気持ちが悪いし、それが言い訳になる。下着まで濡れてしまったんだ、いけなくてごめん。普通これから飲むのだ。途中で傘くらい買うだろう。
「どうして途中で傘を買わなかったの?」僕はやっと普通の質問をした。
「もう濡れていたから」柳沼さんの黒い革靴が水を含んでジュポと音をたてる。「もう濡れたからいいやと思って」
「そうか」僕はそれ以上聞くことが出来ず黙り込んだ。一度濡れたからもっと濡れても変わらない。そういう意味だろう。それは違うと思うが、確かにそんな気もしてきた。もう分からない。よく分からないが違う気がする。雨音が傘をバララと弾き、その下では柳沼さんの革靴がギュポ、ギュッポと断続的に音を立てた。この音が続く先は飲み会の会場だ。僕はびしょぬれの柳沼さんと一緒に居酒屋に、本当に行くのだろうか。頭のなかにその絵を浮かべてみたが、どう考えてもおかしい。
「やっぱり行くなら服変えたほうがいいよ」
ギュポッという音が止まった。
「じゃあ、ここに入りましょう」
柳沼さんが指をさした先にはネオンきらびやかなラブホテルだった。
歩くと飲み屋に向かってる会社の人に会うかもしれない。僕は雨の中、大通りまで小走りで出てタクシーを拾うことにした。通り雨かと思ったが雨は激しく道をたたき、流れとなって本降りの顔を見せはじめていた。
帰ろう。
お酒を飲む気分ではなくなっていた。新人は歓迎している。でも何もお酒を飲んで歓迎する必要はない。僕はコンビニの入り口で空のタクシーが来るのを待った。一台、二台と見送るが全てに客が乗っていた。タクシーの隙間に何度かバスが見え、やはり傘を買ってバス亭まで歩くべきか、と思いながら、思ってるうちに空のタクシーが来るのではないかと外をぼんやり見ていた。
随分と本降りになってきていた。白く雨煙があがる交差点の向こう。傘もささずに立っている女の人が見えた。そのすぐ後ろにはお弁当屋がある。傘を持っていない人は皆そこに避難しているのに、その人は直立姿勢で交差点に立っていた。そして青になった信号を、ゆっくりと腕をふって歩き出した。あまりにも堂 々とした歩き方に、僕は目を離せなかった。その人は雨に濡れた前髪を耳にかけながら僕のところに歩いてきた。
「会場はこっちですか?」
柳沼さんだった。
「会場も、なにも」一瞬完全に言葉を失い、喉の奥から言葉を出す。「びしょ濡れじゃないですか」
柳沼さんは濡れて下に着ているキャミソールが透けている白いシャツを両方の指でつまみ「途中でふられて」とパチンと指を離した。
帰ろう。
お酒を飲む気分ではなくなっていた。新人は歓迎している。でも何もお酒を飲んで歓迎する必要はない。僕はコンビニの入り口で空のタクシーが来るのを待った。一台、二台と見送るが全てに客が乗っていた。タクシーの隙間に何度かバスが見え、やはり傘を買ってバス亭まで歩くべきか、と思いながら、思ってるうちに空のタクシーが来るのではないかと外をぼんやり見ていた。
随分と本降りになってきていた。白く雨煙があがる交差点の向こう。傘もささずに立っている女の人が見えた。そのすぐ後ろにはお弁当屋がある。傘を持っていない人は皆そこに避難しているのに、その人は直立姿勢で交差点に立っていた。そして青になった信号を、ゆっくりと腕をふって歩き出した。あまりにも堂 々とした歩き方に、僕は目を離せなかった。その人は雨に濡れた前髪を耳にかけながら僕のところに歩いてきた。
「会場はこっちですか?」
柳沼さんだった。
「会場も、なにも」一瞬完全に言葉を失い、喉の奥から言葉を出す。「びしょ濡れじゃないですか」
柳沼さんは濡れて下に着ているキャミソールが透けている白いシャツを両方の指でつまみ「途中でふられて」とパチンと指を離した。
物件の前についた。ハイム高田。なんとも普通の名前だが、家主が知恵をしぼりすぎて意味不明になっている物件よりは良い。最近あった物件で印象的だったのは、中野の奥地にあるアパート名が「サグラダファミリア」。家主のこだわりに文句はないが、印象の前に失笑してしまう。国の名前も多い。「マンション・カサブランカ」や、「アパート・インド」てのもあったし、アパートの名前なのに「サイトウタカシ」という物件まであった。市井は我慢ができない体質だから
「サイトウタカシという物件に、サイトウタカシさんはご紹介しにくいですね」と笑顔(嫌味)で言ったら
「ぜひ紹介してくれ」と握手されたという。
僕の予想だと、家主はサイトウタカシじゃなくて、サイトウタカシを探してる人なんだ。
生き別れた弟とかね、サイトウタカシ。きっと良い人だと思う、サイトウタカシ。梅干とか自分で漬けてそうだな、サイトウタカシ。
どうでも良いことを考えながら玄関ドアを開いて、ポストのある場所を確認する。
ポストが物件の中にあるのは、良い。いたずらをされる確立が減るからだ。それにこの玄関ドア、両開きだから引越しには便利。
マンション内に通路があるのは、女性に人気がある。外の道=玄関では、どの部屋に入ったか見られても文句は言えない。畳で築年数も古いが、この物件、意外と女性向かもしれない。
ガスのお知らせがぶら下がる玄関ドアの鍵をあけて室内に入る。もうリフォームされていて、室内は清掃後の香りがしていた。前の住人が長く住んだこともあり、シンクは新品にしたようだ。障子もはりかえてあり、美しい。畳もはりかえてあるようだ。カーテンがない窓を開けると、目の前にマンションがそびえたち、まったく光が入らない。それどころか、方南通りの車の音が激しく聞こえる。これは減点だな。ベランダがあるのに、ここに洗濯物は干せそうにない。半年客が入らなかったら、浴室乾燥機をつけてもらうと良いかもしれない。
僕は部屋の真ん中に正座し、横に買ってきたパンとコーヒーを置いた。
「いただきます」心の中でつぶやき、両手の先をあわせる。
自分が紹介することになった物件の中で、食事をするのが好きだ。家具もカーテンもない部屋。ただ広くて、自由で、孤独だ。
近所で買ったものを食べながら、この部屋をどうお客さんに紹介しようか考える時間が好きなのだ。
売りは物件そのものより、周辺の環境にありそうだ。立地条件や周辺店舗、スーパーや商店街をのぞいてみよう。このパンも結構おいしいし、コーヒーも悪くない。いけそうだ、と小さく何度か頷き正座の足をくずし、パテンと畳に横になった。
瞳をとじたら、一気に畳の香りが鼻に踊った。
畳の香りは日向を思い出す。僕はフローリングの床よりも畳のほうが好きだ。でも畳は敷金トラブルも多いんだよな、と頬にふれるタテジマの感触を楽しんでいたら、外からパラ、パララと何かを弾く音が聞こえた。
瞳をあけると、むき出しになっている窓ガラスに雨粒がついていた。
「え。まじで?」横になったまま、声にはせず息と共に吐き出す。
雨がふってきたのが信じられないのではなく、ベランダに雨が振り込むことが信じられなかったのだ。いまどき屋根がないベランダなんて考えられない。本当に浴室乾燥機を入れてもらったほうが良いかもしれないと瞳を閉じたら、今度はお尻からビリリと振動を感じた。
寝転んだまま右手をお尻にまわし、携帯電話を引っ張り出す。画面には「会社」と出ている。
「もしもし」起き上がりながら耳にあてた。
「二宮さー、今、南台の物件?」市井だった。
「だったら?」瞬時に嫌な予感がして(今物件?など、あまり聞かれない。僕は基本的に単独で動いている)言葉ごと突き放した。
「新人の歓迎会がさ」
「ああ」面倒で行きたくない(基本的に仕事でいく飲みは好きじゃない。家でゲームでもしながら物件のことを考えてるほうが好きだし、酒は一人で飲んだほうが美味しいし、楽しいと思う。たまにドンチャン飲むのも楽しいが、やはり疲れる)ので、断る理由を頭の前のほうで考える。
「二宮がいる南台近くの居酒屋で5時からやるんだよ。この前行ったらすげぇ良くてさ、まず店員な、美人が多いのよ。あ、今日居るかどうかわからないけどね」聞きながら時計を確認したら、もう4時をすぎていた。
「帰りに寄れよ、その方が楽だろ? 住所今からメールするから。地図持ってるだろ。じゃあな」
ピと距離を持って電話は切れた。断るもなにも、これで参加しなかったら僕は「新人を歓迎する気がない、面白くない人」だ。僕は面白くなくても良いが、歓迎はしている。
しかし面倒だ。そしてこのベランダの雨。ああそうか、雨がふってきたんだ、更に面倒だ。僕は携帯電話を太ももの間に挟み、再び瞳を閉じた。
「新人」口は動いているが声にならない息で言う。柳沼さんがいるのか。じゃあ行ってもいいか、と考えた自分に呆れた。僕は“人であって人じゃない”。女の子に興味を持つなんて、バカみたいな時間の無駄だ。
「サイトウタカシという物件に、サイトウタカシさんはご紹介しにくいですね」と笑顔(嫌味)で言ったら
「ぜひ紹介してくれ」と握手されたという。
僕の予想だと、家主はサイトウタカシじゃなくて、サイトウタカシを探してる人なんだ。
生き別れた弟とかね、サイトウタカシ。きっと良い人だと思う、サイトウタカシ。梅干とか自分で漬けてそうだな、サイトウタカシ。
どうでも良いことを考えながら玄関ドアを開いて、ポストのある場所を確認する。
ポストが物件の中にあるのは、良い。いたずらをされる確立が減るからだ。それにこの玄関ドア、両開きだから引越しには便利。
マンション内に通路があるのは、女性に人気がある。外の道=玄関では、どの部屋に入ったか見られても文句は言えない。畳で築年数も古いが、この物件、意外と女性向かもしれない。
ガスのお知らせがぶら下がる玄関ドアの鍵をあけて室内に入る。もうリフォームされていて、室内は清掃後の香りがしていた。前の住人が長く住んだこともあり、シンクは新品にしたようだ。障子もはりかえてあり、美しい。畳もはりかえてあるようだ。カーテンがない窓を開けると、目の前にマンションがそびえたち、まったく光が入らない。それどころか、方南通りの車の音が激しく聞こえる。これは減点だな。ベランダがあるのに、ここに洗濯物は干せそうにない。半年客が入らなかったら、浴室乾燥機をつけてもらうと良いかもしれない。
僕は部屋の真ん中に正座し、横に買ってきたパンとコーヒーを置いた。
「いただきます」心の中でつぶやき、両手の先をあわせる。
自分が紹介することになった物件の中で、食事をするのが好きだ。家具もカーテンもない部屋。ただ広くて、自由で、孤独だ。
近所で買ったものを食べながら、この部屋をどうお客さんに紹介しようか考える時間が好きなのだ。
売りは物件そのものより、周辺の環境にありそうだ。立地条件や周辺店舗、スーパーや商店街をのぞいてみよう。このパンも結構おいしいし、コーヒーも悪くない。いけそうだ、と小さく何度か頷き正座の足をくずし、パテンと畳に横になった。
瞳をとじたら、一気に畳の香りが鼻に踊った。
畳の香りは日向を思い出す。僕はフローリングの床よりも畳のほうが好きだ。でも畳は敷金トラブルも多いんだよな、と頬にふれるタテジマの感触を楽しんでいたら、外からパラ、パララと何かを弾く音が聞こえた。
瞳をあけると、むき出しになっている窓ガラスに雨粒がついていた。
「え。まじで?」横になったまま、声にはせず息と共に吐き出す。
雨がふってきたのが信じられないのではなく、ベランダに雨が振り込むことが信じられなかったのだ。いまどき屋根がないベランダなんて考えられない。本当に浴室乾燥機を入れてもらったほうが良いかもしれないと瞳を閉じたら、今度はお尻からビリリと振動を感じた。
寝転んだまま右手をお尻にまわし、携帯電話を引っ張り出す。画面には「会社」と出ている。
「もしもし」起き上がりながら耳にあてた。
「二宮さー、今、南台の物件?」市井だった。
「だったら?」瞬時に嫌な予感がして(今物件?など、あまり聞かれない。僕は基本的に単独で動いている)言葉ごと突き放した。
「新人の歓迎会がさ」
「ああ」面倒で行きたくない(基本的に仕事でいく飲みは好きじゃない。家でゲームでもしながら物件のことを考えてるほうが好きだし、酒は一人で飲んだほうが美味しいし、楽しいと思う。たまにドンチャン飲むのも楽しいが、やはり疲れる)ので、断る理由を頭の前のほうで考える。
「二宮がいる南台近くの居酒屋で5時からやるんだよ。この前行ったらすげぇ良くてさ、まず店員な、美人が多いのよ。あ、今日居るかどうかわからないけどね」聞きながら時計を確認したら、もう4時をすぎていた。
「帰りに寄れよ、その方が楽だろ? 住所今からメールするから。地図持ってるだろ。じゃあな」
ピと距離を持って電話は切れた。断るもなにも、これで参加しなかったら僕は「新人を歓迎する気がない、面白くない人」だ。僕は面白くなくても良いが、歓迎はしている。
しかし面倒だ。そしてこのベランダの雨。ああそうか、雨がふってきたんだ、更に面倒だ。僕は携帯電話を太ももの間に挟み、再び瞳を閉じた。
「新人」口は動いているが声にならない息で言う。柳沼さんがいるのか。じゃあ行ってもいいか、と考えた自分に呆れた。僕は“人であって人じゃない”。女の子に興味を持つなんて、バカみたいな時間の無駄だ。
