平成18年8月1日 読谷補助飛行場の一部(約半分)が返還されることになります。
返還予定地の黙認耕作者に向けた、読谷村の看板
平成20年1月 読谷補助飛行場は、全面返還されます
看板の後ろでは、読谷中学校校舎建設が始まっています
読谷中学校予定地にあった黙認耕作者に対する撤去通告の看板
校舎建設のため、安全のため柵が設けられています。
「義烈空挺隊玉砕之地」の碑が建つ地域は、米軍敷地内、かつ、黙認耕作地にあり、
読谷村に返還後は、読谷中学校のグランドになる予定でありました。
読谷村役場屋上から、道路を挟んで慰霊碑を望む
読谷中学校の校舎はすでに建設は完了しています。
読谷中学校校舎が新築されている。
中学校運動グランドになる予定の地は、黙認耕作者のサトウキビが広がっている。
慰霊碑が第3回目の建て替えから約15年経ち、傷みが激しくなっている。
また、黙認耕作者と読谷村の間で、耕作権をめぐる争いがあり、裁判が起こされる状況にありました。
沖縄支部は、裁判に巻き込まれることがないように、注視していました。実際、裁判を沖縄支部会員(現事務局長)が傍聴している。
この裁判の結審に数年かかりました。
沖縄支部としては、読谷村に「義烈空挺隊玉砕之地」の碑をどのように存続させるか、
検討し、読谷村と協議を重ねておりました。
同志会本部も、大いに関心を寄せ、当時の同志会会長 木家氏が、何度も読谷村を訪れ、直接交渉を行っていました。
その際、木家会長は、恒久的な石碑への建て替えを考え、石碑の模式図を読谷村に持参し、担当者と折衝を重ねました。
「義烈空挺隊玉砕之地」の慰霊碑の説明を受ける木家会長(左)
裁判は結審し、予定通り、黙認耕作地に読谷中学校のグランドが作られることとなりましたが、
依然として、同地域には、「義烈空挺隊玉砕之地」の碑が存在し、読谷村としては、この慰霊碑の撤去について
問題化したくないと考えていたと思われます。
恐らく、同地域に留まることを主張した場合、裁判等になる可能性もあると考えられるからです。
沖縄支部としては、昭和48年に先輩方が、大変な困難を克服し、建て、遺族等の切なる願いで存続し、
45年間、この碑とともに歩んできた者としては、
読谷村に「義烈空挺隊玉砕之地」の碑を存続させること第一と考えていましたので
読谷村内に代替地の提供をうけることができ、移転するということについて、受け入れることが出来ました。
そして、読谷村の土地借用について、読谷村在住の協力者が借用することになりました。
読谷村は、革新系が強い地域性があり、同地域で、慰霊祭等で自衛隊の制服を着た隊員が、散見されるのが
問題視され、その際、借用者が、自衛官が賛助会員にいる空挺同志会沖縄支部では、問題になるのではと言う懸念により、
助言を受け、協力者を借用者にしました。また、この方には、木碑の草刈り等をお願いしています。
現在(令和2年)は、土地借用については、空挺同志会沖縄支部長が借用者となっています。
平成22年8月、「義烈空挺隊玉砕之地」の碑は、読谷村の指定した地域である 掩体壕前に、読谷村が、移転しました。
読谷村が指定した、移転場所。旧軍掩体壕の前
手前の白い看板は、読谷村教育委員会の設置している掩体壕の説明資料
掩体壕前に移転した「義烈空挺隊玉砕之地」の碑
読谷村から先進農業集団地区使用として、23㎡を借用している。
平成8年第3回の建て替え以来、15年を経ているので、建て替えの必要ありました。
平成23年6月 沖縄支部は、第4回目の「義烈空挺隊玉砕之地」の碑の建て替えを行い、入魂式を実施しました。
真新しい「義烈空挺隊玉砕之地」の碑
「義烈空挺隊玉砕之地」の揮毫は、
元第1空団管理中隊整備班長であった 書道家 窪 洋之右 氏によるものです。
沖縄支部会員による献花式を実施しました。
その際、全日本空挺同志会50周年を記念して
協力していただいた方に、同志会会長から感謝状と空の神兵像のレプリカを贈呈しました。
旧「義烈空挺隊玉砕之地」の碑は、昭和48年、先輩方が、義烈空挺隊突入地点探し出し、建立して以来、
その地点に立ち続けた(第3代目ではあるが)木碑であり、
今や、中学校のグランドになってはいるが、同地点は立っていた最後の碑として、
何とか残したいと考え、義烈空挺隊出撃の慰霊祭を実施している 空挺同志会熊本支部の顧問 一(かず)氏に
相談したところ、一氏のご尽力により、健軍駐屯地資料館に保管展示されることになりました。
健軍駐屯地広報班 資料館に展示されている 旧「義烈空挺隊玉砕之地」の碑













