「義烈空挺玉砕之地」の慰霊碑は4回、沖縄支部によって建て替えられています。
第1回目の建て替えは、昭和52年に、摩文仁の丘に慰霊碑とは別に、読谷の「義烈空挺隊玉砕之地」を沖縄支部で保存管理することが決まったことから、空挺一・四会により、愛知県から檜材を送ってもらって、建て替えを行っています。
第2回目の建て替えは、木碑の風化が激しくなったので支部の行事の一環として実施しています。
昭和58年9月10日土曜 午後沖縄支部の予備員8名(国武、松本、梅木、鹿又、杉田、町田、国吉、中邨)各氏によって、「義烈空挺隊玉砕之地」の木碑の建て替えを実施しました。
新たな木碑は、初代、2代めの木碑と比べると約3倍以上の大きさとなり、
沖縄支部としては、周りの状況、地元の雰囲気等を考慮しながら、大きな木碑にしたようです。
この木碑の形が、「義烈空挺隊玉砕之地」の碑の基準になっていくことになります。
その当時(昭和58年建て替え時)の沖縄支部事務局長 中邨紘一氏は次のように語っている。
「本島中部読谷飛行場跡において、沖縄支部により「義烈空挺隊玉砕之地」の木碑建て替えを実施した。(中略)現在、この一帯は黙認耕作地帯として開墾され、砂糖きびが栽培されている。この広大な砂糖きび畑の一角に約50坪、義烈碑は未開墾の「聖地」として残してもらっている状態です。この碑は昭和51年摩文仁の丘の「義空碑」除幕式の時点に摩文仁の丘に一本化することで種々検討がなされたが、遺族等の方々の「碑を存続させてほしい」との強い要望jにより沖縄支部が管理保存しているわけです。(中略)新しい木碑は、義烈空挺隊が再び帰らぬ決意で飛び立った熊本の地より、沖縄支部予備員岩間克彦氏の御尊父岩間三好氏から、檜材 長径4m 幅25cm角の真新しい義烈空挺隊玉砕の地を印すにふさわしい立派な木碑の寄贈を受け、建て替えと併せて入魂の儀式を行った。
参加者は全員汗まみれで、古い木碑を取り除き当たりを清め、更に大きな穴を掘り、白木に黒々と墨の香り真新しい「義烈空挺隊玉砕之地」と印した木碑を建立、御供物と地酒泡盛とを衛生に捧げ、中邨事務局長の司会により入魂の儀を挙行した。国家斉唱の後、国武副支部長の入魂の辞に引き続き、鹿又予備員のラッパ吹奏「国の鎮め」により黙祷を捧げ簡略ではあったが、厳粛な入魂の儀式を取り行い無事終了した。」
第3回目の建て替えは、平成8年7月1日に建て替えられました。第2回目の建て替えから約15年が経過し、碑も傷んできたので、建て替えることとなりました。
6月8日に第1混成群の野営訓練が九州霧島で行われた際、沖縄支部の山縣支部長、蔦1尉、坂口曹長の三名が熊本で木材を調達し、沖縄に運んできたものです。

