8月6日 沖縄タイムスのしましまトピックスに「義烈空挺隊玉砕之地」についての
記事が掲載されました。
読谷村喜名自治会との調整は現在も続いています。
今回の要望については否決されましたが
引き続き、喜名地区住民にご理解いただけるように
努力していきたいと思います。
慰霊祭では、ご遺族からのお手紙を参列者皆様にご披露させていただきました。
初めまして、義烈空挺隊2番機搭乗 宇津木五郎の娘です。
昭和20年5月父が、沖縄に突入して、半年後、母親が亡くなり、
私たち兄弟は両親を失いました。
その後、叔父夫婦に育てられた私たちは、
20数年前に義烈空挺隊慰霊塔にお参りさせていただいたことがあります。
7年ほど前に、母の遺骨を分骨し、父が散華した沖縄の海に散骨いたしました。
父と母は沖縄の海で再会できたとおもいます。
私も、もう一度死ぬまでに沖縄を訪れ、
この地に眠る父と母に会いに行こうと考えております。
空挺同志会の皆様、お元気でいらして下さい。
第3独立飛行隊一番機操縦士川守田啓志大尉の遺族です。
幼くして両親を失った川守田は、叔母である私の祖母に育てられました。
祖母は、川守田が特攻隊員になったことは知らずにおりました。
ある時、後ろから「おばさん」と言う、いるはずのない川守田の声を聴き、
その瞬間、川守田が亡くなったことを悟ったと言っておりました。
祖母は、亡くなるまで、涙を流しながら、その話を繰り返し、私に語り掛けました。
毎年、亡くなった地である沖縄で慰霊祭をしていただき、大変感謝しております。
皆様のご健勝をお祈りいたします。
義烈空挺隊 井上洋少尉遺族
義烈空挺隊慰霊祭の祭壇に叔父の遺影を飾っていただけるとのこと。
叔父も喜ぶことと思います。
慰霊祭の日時に合わせて、こちらでも仏壇に手を合わせたいと思います。
慰霊祭が無事に行われることをお祈り申し上げます。
ご遺族の方々とお会いしてお話を伺いたいと思いますがなかなか難しいです。
皆様に宜しくお伝えください。
慰霊碑黙祷、国歌斉唱の後、慰霊祭を主催する沖縄支部を代表して
沖縄支部長による祭文奏上が行われました。
沖縄支部長の祭文奏上に耳を傾ける
参列者たち
祭文奏上を行う沖縄支部長
本日ここに、令和八年度義烈空挺隊慰霊祭の挙行にあたり、
全日本空挺同志会沖縄支部を代表し、謹んで追悼の言葉を申し上げます。
昭和二十年四月一日、米軍は猛烈な艦砲射撃のもと、四個師団をもって嘉手納海岸へ殺到し、
「ありったけの地獄を集めた」とも言われる沖縄戦が始まりました。
沖縄を守る第三十二軍は、大本営の戦争指導の迷走により、度重なる作戦変更を余儀なくされ、
防衛体制が未完成のまま、圧倒的兵力を誇る米軍を迎え撃たねばなりませんでした。
さらに、沖縄周辺の制空権・制海権を早期に失った大本営は、
増援も武器・弾薬の補給も叶わず、航空決戦にのみ勝機を見出しておりました。
しかし、その要であった読谷・嘉手納飛行場は早々に敵の手に落ち、
航空決戦構想は根底から崩れ去ったのであります。
強大な火力と物量を擁する米軍は、必死に抗戦する守備隊を次第に圧倒し、
ついに首里司令部の保持すら困難となりました。
沖縄戦終盤、大本営は、もはや後なき戦局を挽回すべく、
起死回生の特攻作戦「義号作戦」を発令いたしました。
この作戦は、義烈空挺隊を読谷・嘉手納両飛行場へ強行着陸させ、
飛行場を制圧し、米軍の迎撃能力を一時的に麻痺させる。
その間に特攻機を突入させるという、まさに特攻作戦を成功へ導くための特攻でありました。
義烈空挺隊の攻撃は、敵に大きな衝撃と混乱を与え、
読谷飛行場は阿鼻叫喚の戦場となりました。
米軍の戦闘記録には、「義烈空挺隊員は極めて高い訓練練度を有し、
混乱する実戦下においても冷静にそれぞれの任務を遂行している」と、
高く評価されております。
少数にして、なお大戦果を挙げ得たその根底には、
奥山大尉の卓越した統率、実戦的訓練と周到な準備、
そして何より、空挺隊員としての矜持と絆、
任務達成に命を懸ける強い覚悟があったものと思われます。
今日、帝国陸軍落下傘部隊は、その姿を歴史の中に消しました。
しかし、いかなる困難にも屈せず、任務を完遂する「空挺魂」は、
今なお第一空挺団へ脈々と受け継がれております。
挺進赴難の精神は、この「義烈」の碑の前に立つ隊員一人一人の胸に、
確かに息づいております。
今、世界は確実に戦争の時代へと入りつつあります。
戦争を経験していない我々は、平和を当然のものとして享受できる時代ではないことを、自覚しなければなりません。
しかしながら沖縄には、自衛のための防衛力ですら、
受け入れることのできない人々がおられることも、誠に残念であります。
沖縄支部は、昭和四十八年、当時の第一混成団空挺予備員有志により、
この読谷の地に「義烈空挺隊玉砕之地」の慰霊碑を建立し、
慰霊と顕彰を目的として発足いたしました。
以来、五十有余年にわたり、義烈空挺隊の慰霊と顕彰を絶えることなく続けてまいりました。
我々沖縄支部は今後も、先人の熱き志と深き思いを受け継ぎ、
「義烈空挺隊玉砕之地」の碑、そしてここ摩文仁の丘の慰霊塔を守り、
義烈空挺隊の末裔として、慰霊と顕彰を守り抜いていくことを、
ここに固くお誓い申し上げます。
義烈空挺隊の御霊よ。祖国を思い、使命を胸に、命を賭して戦われた皆様を、
我々は決して忘れません。
どうか安らかにお眠りください。
最後になりますが、
義烈空挺隊棟方大尉ご遺族、山城中尉ご遺族、大山少尉ご遺族、
空挺同志会会長様、特攻隊戦没者慰霊顕彰会様、
第1空挺団長ならびに空挺団の皆様、
第五十一普通科連隊長をはじめ、多くの皆様のご参列を賜り、
令和八年度慰霊祭を無事挙行できましたことに、心より御礼申し上げ、
追悼の言葉といたします。
令和八年六月六日
全日本空挺同志会 沖縄支部代表
桃原 浩太郎
読谷村での「義烈空挺隊玉砕之地」への献花式を終了した後
参列者は、糸満の摩文仁の丘にある「義烈空挺隊慰霊塔」に移動
義烈空挺隊慰霊祭に参加されました。
祭壇には、ご遺影とそれぞれのゆかりの品を飾りました。
第3独立飛行隊4番機機長 町田一郎中佐のご遺影と
その前に町田一郎中佐のご実家からいただいた角帯を飾りました。
義烈空挺隊9番機搭乗 井上洋少尉のご遺影と
姪の井上祐子さんが、少尉について書かれた
「誠心」井上洋遺文集を飾りました。
またご遺族の参列されている
義烈空挺隊7番機搭乗 棟方大尉
義烈空挺隊9番機搭乗 山城中尉
慰霊祭にお手紙をくださった
第3独立飛行隊 1番機操縦士 川守田大尉
義烈空挺隊2番機搭乗 宇津木少佐
のご遺影を飾りました。
式典は天気に恵まれました。
式典に先立ち、黙祷を捧げました。
令和8年6月6日 全日本空挺同志会沖縄支部主催の義烈空挺隊慰霊祭が挙行されました。
沖縄は梅雨に入っていましたが、前日までは晴れ間が続き、当日は雨天であると予想されましたが
天祐に恵まれ、慰霊祭の間は、晴天でした。
読谷村の掩体壕前にある「義烈空挺隊玉砕之地」の慰霊碑に参集し
慰霊碑に、黙祷を捧げます。
「義烈空挺隊玉砕之地」の慰霊碑に対して
黙祷を捧げる参列者
ご遺族を慰霊碑の前で黙祷していただきました。
黙祷終了後、それぞれ菊の一輪を慰霊碑に捧げました。
「義烈空挺隊玉砕之地」の慰霊碑に菊を捧げる
慰霊祭主催者の沖縄支部長
献花する義烈空挺隊大山少尉ご遺族
献花を終え、慰霊碑に祈りを捧げる
ご遺族
参列者に、読谷飛行場と「義烈空挺隊玉砕之地」の慰霊碑について
事務局から説明をしました。
参列者の後ろには、工事用のフェンスが建てられ
慰霊碑の間近に迫っています。
読谷村の計画ではこの地域は、屋内運動場(アリーナ)となり、
慰霊碑周辺はその駐車場となる予定で
掩体壕は戦争遺構として、広い駐車場にポツンと残る予定だそうです。
沖縄支部は、読谷村教育委員会と調整を重ねています。
戦後80年目の終戦の日。空挺同志会沖縄支部の桃原支部長が
「義烈空挺隊玉砕之地」の慰霊碑に参拝して、ここに眠る
義烈空挺隊の御霊を慰霊しました。
慰霊碑のある地域は、屋内運動場の建設の建設が始まり
今まで、雑草がが生え、荒れていた地域が、
草刈り清掃の後、重機により、平らに均され
以前は、道路からは慰霊碑や掩体壕が見えなかったが、
良く見える状況にあります。
陸上運動場の門の前に 掩体壕出入口の看板がある
陸上運動場の入り口前の道路
正面に見えるこんもりとした処が掩体壕の裏側
陸上運動場の入り口
入り口を入ると右手に掩体壕と慰霊碑がある
屋内運動場の工事の為、フェンスが設けられている
これから工事が進むであろうと思われます。
終戦の日の「義烈空挺隊玉砕之地」の慰霊碑
工事のフェンスが迫ってきています。
義烈空挺隊の御霊に祈りを捧げる沖縄支部長
青い空に、映える「義烈空挺隊玉砕之地」の慰霊碑
戦争は終わりました。安らかにお眠り下さい。