慰霊碑黙祷、国歌斉唱の後、慰霊祭を主催する沖縄支部を代表して
沖縄支部長による祭文奏上が行われました。

沖縄支部長の祭文奏上に耳を傾ける
参列者たち

祭文奏上を行う沖縄支部長

本日ここに、令和八年度義烈空挺隊慰霊祭の挙行にあたり、
全日本空挺同志会沖縄支部を代表し、謹んで追悼の言葉を申し上げます。
昭和二十年四月一日、米軍は猛烈な艦砲射撃のもと、四個師団をもって嘉手納海岸へ殺到し、
「ありったけの地獄を集めた」とも言われる沖縄戦が始まりました。
沖縄を守る第三十二軍は、大本営の戦争指導の迷走により、度重なる作戦変更を余儀なくされ、
防衛体制が未完成のまま、圧倒的兵力を誇る米軍を迎え撃たねばなりませんでした。
さらに、沖縄周辺の制空権・制海権を早期に失った大本営は、
増援も武器・弾薬の補給も叶わず、航空決戦にのみ勝機を見出しておりました。
しかし、その要であった読谷・嘉手納飛行場は早々に敵の手に落ち、
航空決戦構想は根底から崩れ去ったのであります。
強大な火力と物量を擁する米軍は、必死に抗戦する守備隊を次第に圧倒し、
ついに首里司令部の保持すら困難となりました。
沖縄戦終盤、大本営は、もはや後なき戦局を挽回すべく、
起死回生の特攻作戦「義号作戦」を発令いたしました。
この作戦は、義烈空挺隊を読谷・嘉手納両飛行場へ強行着陸させ、
飛行場を制圧し、米軍の迎撃能力を一時的に麻痺させる。
その間に特攻機を突入させるという、まさに特攻作戦を成功へ導くための特攻でありました。
義烈空挺隊の攻撃は、敵に大きな衝撃と混乱を与え、
読谷飛行場は阿鼻叫喚の戦場となりました。
米軍の戦闘記録には、「義烈空挺隊員は極めて高い訓練練度を有し、
混乱する実戦下においても冷静にそれぞれの任務を遂行している」と、
高く評価されております。
少数にして、なお大戦果を挙げ得たその根底には、
奥山大尉の卓越した統率、実戦的訓練と周到な準備、
そして何より、空挺隊員としての矜持と絆、
任務達成に命を懸ける強い覚悟があったものと思われます。
今日、帝国陸軍落下傘部隊は、その姿を歴史の中に消しました。
しかし、いかなる困難にも屈せず、任務を完遂する「空挺魂」は、
今なお第一空挺団へ脈々と受け継がれております。
挺進赴難の精神は、この「義烈」の碑の前に立つ隊員一人一人の胸に、
確かに息づいております。
今、世界は確実に戦争の時代へと入りつつあります。
戦争を経験していない我々は、平和を当然のものとして享受できる時代ではないことを、自覚しなければなりません。
しかしながら沖縄には、自衛のための防衛力ですら、
受け入れることのできない人々がおられることも、誠に残念であります。
沖縄支部は、昭和四十八年、当時の第一混成団空挺予備員有志により、
この読谷の地に「義烈空挺隊玉砕之地」の慰霊碑を建立し、
慰霊と顕彰を目的として発足いたしました。
以来、五十有余年にわたり、義烈空挺隊の慰霊と顕彰を絶えることなく続けてまいりました。
我々沖縄支部は今後も、先人の熱き志と深き思いを受け継ぎ、
「義烈空挺隊玉砕之地」の碑、そしてここ摩文仁の丘の慰霊塔を守り、
義烈空挺隊の末裔として、慰霊と顕彰を守り抜いていくことを、
ここに固くお誓い申し上げます。
義烈空挺隊の御霊よ。祖国を思い、使命を胸に、命を賭して戦われた皆様を、
我々は決して忘れません。
どうか安らかにお眠りください。
最後になりますが、
義烈空挺隊棟方大尉ご遺族、山城中尉ご遺族、大山少尉ご遺族、
空挺同志会会長様、特攻隊戦没者慰霊顕彰会様、
第1空挺団長ならびに空挺団の皆様、
第五十一普通科連隊長をはじめ、多くの皆様のご参列を賜り、
令和八年度慰霊祭を無事挙行できましたことに、心より御礼申し上げ、
追悼の言葉といたします。
令和八年六月六日
全日本空挺同志会 沖縄支部代表
桃原 浩太郎