幸せになりたい - How to overcome your unfortunate present, you can change it now!

幸せになりたい - How to overcome your unfortunate present, you can change it now!

両親とも田舎の高卒。コネなし、奨学金で大学、大学院を国立を経て、某財閥系商社で24年勤務(含 イタリアとブラジル駐在計9年)、転職して米国勤務1年。この程度なら誰でもなれるって事を証明するブログ。虐めも、変な先生への対処も、子に対する接し方もみんなヒントがある。

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ほぼ1年に亘り、Missouri州のセントルイスで働いてきたが、17日(月)に出発、18日(火)着で、日本帰国。
正直言って、不完全燃焼。

帰国の理由は、複数あるのだが、僕にとっては納得が行く理由でもないので、早晩今のところは辞めて、独立するつもり。
今度は何をするかは、実は準備を進めており、帰国後、合同会社を立ち上げて様子を見て、うまく行きそうだったら、直ぐに独立かな。

今の会社は、中々役に立ったが、24時間(縁もゆかりもない)他人の為に働くのは、余程その人に心酔していない限り無理だな。

今の会長は、素晴らしく優秀な経営者だと思うし、世間どころか世界的にももてはやされている。人間的な魅力もある。
でも、なんていうか、可愛くない。僕の好きなタイプでない、というのが決定的な違和感。

Adios!
1年前に、前職を辞めることを公表した瞬間から、同僚、先輩、後輩たちから昼夜問わず食事の申し込みが来た。その中で、とある記憶に残るもの。
ある日のお昼は、室の後輩にあたる40がらみの中途採用の男性に、是非にと頼まれて一緒に行った。
その頃、部署の人間と食事をしたことは昼夜を問わず、前年から1年近くなかった状況だったので、極めて異例なことだ。
 
彼は、一流国立大の経済卒、公認会計士の資格を持ち、米コーネル大学で人事管理で修士号を取り、大手監査法人、自動車、外資Private Equityなどを経てManagementをやりたくて商社に来たのだが、僕と同様、詰まらない稟議審査などをやらされて辟易していたところに、僕の突然の転職を聞いてビックリしてお昼に誘ってきた、という背景だ。実は彼も異動が決まっているのだが、今度はいわゆる会計経理だ。表面上はニコニコしていたので不感症なのかな、と思っていたのだが、実は大変に不満を持っていた。そりゃあそうだろうな。
 
不満に対しては取り敢えず、公認会計士の資格を持っているので、会社としては便利屋扱いだよね、ということで慰めておいたが、優秀な人も多くいるが、全く人事がなっていない(コーネル修士ww)、と怒っているので、この組織は人を駒みたいにしか考えないし、適材適所でなくても、抑々、個人が一定以上優秀なので適当に何とかするところに依存しているだけ、と言ったら大きく頷いていた。
 
彼は、僕よりは1グレード下なのと、この7月から人事制度の改悪wwで、給与が下がるので(この改悪を行った当人は出世して執行役員になって居る)、年収18百万円を切るぐらいになるのも、Motivationが下がる一因だ。彼曰く、「この会社生え抜きの転職を経験していない人は、こんなに最高で、こんなに待遇が良くて、こんなに優秀な人ばかりで、というのが殆どだが、そんなに皆が優秀だとは思えないし、もっと待遇が良いところはいくらでもある。前職だってもっと良かった。」であったので、その通り、外を知らないから、本当に優秀な人を見ていないだけの話だよ、と言った。
 
一流と言われる日本の大学卒で、特別な技能もなく、大手商社(昔だったら、大手銀行も)に勤務してずっといると、ぬるま湯体質、仲間体質(彼らは自らを体育会系と呼ぶが、体育会系のレギュラーで本チャンに強かった奴は実業団でやって居たりするので、商社なぞでお茶を濁していない)に染まっているので、上の顔色だけ見て、人事が全てと思っている。ある意味、的確な真実だが、決定的に分かっていないのは、人事で優遇されるのは、ほんの少数だけで、いつ自分がその他大勢に入るか分からない、ということだ。
 
よって、自分が今持っている感覚は、自分の周りでしか通用しない、という感覚が極めて希薄だ。そりゃそうだ、何処に行っても通りが良く、家族も恥ずかしい思いをしないから、自然とそういうところにだけ留まる。だから、海外赴任しても、会社の同僚家族とばっかり付き合っていて、現地の人や、他の会社の人とそれ程仲良くなることがない。
 
一方、我が家は、ブラジルでも最も仲良かったのは、他の会社から来ている家族だし、転職の話も彼らに最初にした。吃驚していたが、前から(その枠に)収まらないな、と思っていたから、考えてみれば自然な流れだね、と言われて、良く知っている人から見れば、そうなのだろうな、と改めて思った。その家族は、娘が二人いるのだが、日本風に言うと、長女が息子より1学年上で、次女が1年下。長女は、半年遅らせて、4月入学で我が息子と同じ大学の同じ学部にいるので、9月から同級生となり、次女も同じところを狙っているので、来年の6月卒業後、息子と同じ制度を利用してGap timeなしに、9月入学を希望し、その話を息子がブラジル滞在の間にノウハウ伝授して居た様だ。
 
学ぶべきことは、違う体験をしてきた人からの方が多い。
この本を読んではいないので、内容自体は分からないが、出版の経緯として、遺族の気持ちを逆なでする一番のポイントは、遺族は苦しみ続けているのに、この酒鬼薔薇は、匿名性を保ったまま、事件を第三者のように振り返ることができるという苛立ちだろう。遺族にとっては、いつまで経っても癒えない傷に、また、彼のスタンドプレーのおかげで、記憶という苦い塩を塗りこめられてしまうわけだ。 
この酒鬼薔薇が、現在どれだけ苦労しているのかは知らないし、抑も興味も同情の気持ちも起こらないが、今なお遺族の気持ちに思いを馳せることができない欠落振りは、非常な恐怖を感じる。また、彼が野に放たれていると言う戦慄もある。行動自体がサイコパスで、でも贖罪したことになっているので、匿名なのだ。僕は、それでも出版するなら、現在の名前を明かして、周りに忌避されて、酷く苛められる状況を受け入れる覚悟ができているなら、未だ許されるものがあると思う。それでも、被害者が浮かばれないことには代りはないが。 

何というか、綴っている文章が論理的だとか感情的だとか、あんまり関係なくて、忘れかけていた無責任な大衆の興味をまた掻きたてるような行為自体が許せない、ということで、文章に心がこもっていたら良い、自分を確り分析できて反省できているなら良い、とか言う話ではないだろう。それからすると、出版社(者も勿論)や、保護司(もう弁護士は関係ないだろうし)は、今回の一連で、非常に無責任という感じがする。本人が(贖罪の為に)出したい、と言っても、だったら、その意思を遺族に同意確認するのが最初だ、ぐらいのアドバイスと行動は取っても良いと思うし、そういう風な行動自体が、まだ、サイコパスなのだ、と本人に分からせて思いとどまらせないと。彼が、サイコパスの概念自体を理解できないとしてもだ。それをなしに、出版すれば、いくら印税をそのまま補償に回します、と言っても、金の問題ではない、と言われるのは目に見えているわけで、その辺の(出版に漕ぎ着けるまでの)周りの想像力の欠如は酷いと思う。僕が、この出版担当者だったら、絶対にその影響を考えれば止めたほうがよい、と主張するし、それを受け入れられずに出版を強行するような会社なら辞めると思う。 

出版の意義をサイコパスの思考を知る貴重な資料となり得ると、無理やりこじつけても、抑も、それが一般化されるサイコパス特有な考え方なのか、彼だけなのかも全く分からないだろうし、どちらかと言えば、後者だと思う。僕は、1990年代の中盤に隔月だかで発行していた世界中のシリアルキラーを集めた雑誌を熱心に読んでおり、殆ど同じパターンはないのだなという感想に至った。つまり、彼らは模倣犯ではなく、自分の衝動に突き動かされて、対象もやり方も自分の方針で連続して行なうのでシリアルなわけであり、それを、その気持ちに踏み込んだり、実際に行なったことのない人が判ろうなどというのは傲慢だと思う。一般化などできないし、読んだとしても、それを元に自分の周りの危ない人を知るなんてできっこない。危ないやつにぶち当たるかどうかは運でしかない。 
続き)

翌日仲の良かった上司に一部始終を話し散々笑われたりしたが、月日は経って、怖さも忘れたクリスマスイブ。すっかり真面目になった僕は、当時フィアンセだった今の家内を中目黒の家に呼んだ。食事をしたのち、ぶらぶら来て、家の直前にあるスーパーの前の自動販売機で飲み物を買わせて居る時に、何となく嫌な予感がしたので、僕だけ小走りで玄関に行ったら、有りました。。クリスマスリースがドアノブに掛かって居る。びっくりして外したところで家内登場。そりゃ誰からか、なぜあるのか問い詰められたが、全く予想が付かず。困り果てた僕は、リースをフリスビーのようにして飛ばしたよ。未だに誰が掛けたのか分からないが、その後結婚して家内の親戚の和裁屋さんに行った時どうにも見覚えのある風景が。。あっ、これLのアパートの手前だ。ビビった僕は昔の電話帳をチェックし、修正液の部分をライトに照らし、かけてみたが、居なかった。さみしいような、ホッとしたような。

電通事件と云うのも有りました。電通の子が家に来たとき、僕は髪の毛切ってくるねーと言い残して出ました。
床屋でサッパリして帰宅したら、電通が不機嫌そうにソファに寝そべっていて、御帰りも言わない。少々ムッとして、寝そべっている足の裏を軽く蹴り、なんだよと言ったら、口のはしだけ上げながら、あのさ、この額の真ん中にホクロのあるブス誰よ?と言われビックリ。そう、その特徴は、Lなのです。え、ブスじゃないんじゃない?と言ったら回し蹴りして来たので、咄嗟に避け、アブねぇな、と言ったが、完全に旗色悪く、あとは怒涛の攻めです。

どうかしたの、じゃないわよ!あんた居なくなってからピンポーンってなるから何か忘れ物か?と思ったらそのブスよ。で、◯◯さんは?って聞くから、今髪の毛切りに行ってるけど、上がって待てば?って言ったら、じゃあイイですだって。でさ、あのブス、混ぜご飯持って来たので置いて行きますだって。あそこの上よ。

見ると1/3ぐらい食べた後が、アッタマ来たから食べたわよ。で、誰よ?え、あのー。あんたさ、好い加減にしなさいよ、と言って首締めてきました。そうしたら、部屋の電話が鳴ったのです。出なさいよ、え、間違い電話じゃないかな?馬鹿言ってんじゃないわよ、あのブスに決まってんでしょうが。
渋々取ると正解!まさにLです。どうしたの?この前電話で話した時に風邪引いたって言ってたから、混ぜご飯持って行ったの。え、だからさ、もう会わないでおこうって言わなかったっけ?うん、でも私は会いたいよ。。え、うーん。。電通が般若の様にこちらを見ています。ごめん、もう会えないから、と言って切って顔をあげた瞬間、混ぜご飯が飛んで来ました。これが世にいう電通事件です。

それから混ぜご飯を見ると、誰かに投げつけられたらどうしよう、なんて心配をします。

他にも、その中目黒時代には、画廊勤務の朋ちゃんが、駐車場の上からコッチを覗いていた事件がありました。 ベランダ側のブラインドシェードを上げようとしたら人影が動き、こっそり覗いたら画廊の女の子が向こう側の駐車場の壁をよじ登ってこっちを見ていた。声を出しそうになるのを堪えてブラインドをまた下げたが、電通に、駐車場にぶら下がっている豚は誰よ?と言われて一言も答えられなかった)も有りました。よく刺されなかったな。ていうか、刺す価値もないということだったのでしょう。

モテたいっかって話だよね。

いまでこそ、バレンタインなんぞ、チョコレート会社の陰謀と言って笑えるが、小学生の時は、正直、2月14日が来るのが嫌で、嫌で仕方がなかった。おそらく、運動が苦手な人の運動会を迎えるのより嫌なくらいだったろう。 


よく書いているが、物心ついたころには、牛乳瓶底メガネをかけた、やや長髪の(そうだよ、オタクだよ、しかもキモい方の)イケていない子供代表だったので、何というか、クラスの女の子のお母さんの人気があって(お母さんたちはある意味したたかな計算をしていたことに成る)、本人からは全くダメというパターンだった。あの頃、キモいという言葉があったら、絶対にキモ○○とかつけられていた(そしてそう簡単には立ち上がれないぐらい傷ついたであろう)のは間違いなので、無くてよかったと心より思う。 

なので、学生時代(特に高校生まで)の良い思い出は見事なほど一つもない。大学院生になって女の子と同棲(なんと今Face Book友達だが)するまでは、ほとんど何もなかったに等しい。 

特に小学生の時は、残酷だった。下駄箱にチョコが入っていないか、その日だけドキドキしたり、机の中に入っていないかドキドキしたり、全く根拠がないのにドキドキだけしていたが、全て無駄だった。当たり前だ、そんな間柄の女の子は一人もいなかったのだから。でもわかっていなかった僕は、その日だけ奇跡的に誰かくれないか、と願っていた。何なら大して好きでないあの子でもいいや、などと思っていたが、その子を含めだれもくれないのを確認するだけだった。 

逆にたくさんもらう男の子(大概、運動部のキャプテン、センタープレーヤー、音楽バンドのプレーヤーなど)に嫉妬の炎をその日だけメラメラ燃やし、落ち込んだ15日を迎え、しきりに忘れようとしたものだった。 
そのうち、お返しと称して、3月14日のホワイトデーが設定され、その日に向けて、何も買えない自分も本当に情けなかった。 

一方、会社に入ってからは、バレンタインは、できるだけ一人の女の子とご飯を食べに行くのを避け、仕事を入れて、薄まるように過ごした。彼女がいるときでも、パレンタインでご飯を食べに行くのはお仕着せだからおいしくない、と言って外したりするようになった。生意気であった。 

さて、そういう行動をとる原因となった一番衝撃的だったバレンタインは、93年のものだ。92年の夏ぐらいから今の家内と付き合っていた僕は、家内と出会う前は、常に3-4人と何と無く付き合っていて、当該時期に一番頻繁に会っている女性が『彼女』なんだろうなーなどと不届きなことを思っていた。その意味からすると、家内と付き合いだす直前に付き合っていたのは、電通のアルバイトであり(その後、S生命のI支社長夫人になったので大出世だ)、終わったつもりの人で、銀座の画廊に勤めていた人(まだ独身かもしれない)、そして今回の事件のL勤務の女性がいた。 

Lは、中々きれいな女性で、他に彼女を慕っている男の人は何人もいたのだが、何だか、そういうやつから、彼女の連絡先を聞いてコンタクトをしたのが最初というちょっと今では考えられないくらい空気を読まない接近であった。彼女は、殆ど僕に興味がなかった様子だが、一生懸命口説いたのと、仙台から出てきて一人で暮らしているのが寂しかったのだろう、何回かのデートの後付き合うことに成った。そこで驚いたのだが、顔はかなりきれいだったのだが、体の相性があまり良くなかったのだ。何というか、すぐに潤ってしまって、僕の方が今一つ気持ちが良くないのだ。かといって乱暴にすると可哀想なので、何と無くフラストレーションがたまり、自分から結構真剣に口説いたのに足が遠ざかり、もっと蓮っ葉な、電通とか、それ以前に付き合っていた画廊の子の元に戻って適当に付き合っているうちに、家内と付き合いだしたので、それまでの女の子は殆ど音信不通としていた(原則)。 

さて、93年の2月14日の朝、中目黒の僕のアパートを朝7時過ぎにブザーを鳴らす人がいる。初めは新聞勧誘か、と思ったが、いや、違うな、正直心当たりは数人いるので、恐る恐るスコープ越しにのぞくと、Lがいるではないか。。 

ウソだろ、と思ったが仕方ない。ドアを開けると、「おはよ。」と笑みを浮かべながら入ってきた。「ひ、久しぶり。。どうしたの?」「え、これ、バレンタイン」と言って、チョコと何かの包みをくれる。「え、いや、あのー、前も話したと思うけれど、もう付き合っていないからもらえないよ」その途端Lはものすごく悲しそうな顔になり、「だったら、私はこれ(包み)どうすればいいの?」「。。。わ、わかった、取り敢えずいただきます。有難う。」 

そういって、もらったチョコと包みを押し入れに押し込み、途中だった着替えを終え、一緒に家を出た。その頃は、目黒警察の前に、バス停があり、一緒にバスを待っていると、遠くを見ていたLが突然「。。人って。。人ってそんなに簡単に他人を好きになったり嫌いになったりできるかな。」と言われた。バスを並んでいた前のサラリーマンとOLがぎょっとして振り向く。「。。。え、あ、あの、ちょっとここでは止めてくれる?」バスに乗ったが気が気でない。 

そして、中目黒の駅に着き、今度は日比谷線の始発を待つ。そういう時に運の悪いもので、当時のS部長が、田園都市線から乗継ぎで、僕とLの殆ど目の前に並んだ。そして、「でも、安心して。今日は別れに来たから。。」 

うわー部長に聞かれるのでは、とパニックになった。そして乗り込んだが、アッという間に席は埋まり、運の悪いことに、座ったS部長の目の前の吊革に僕とレオだ。「おはようございます。」「おー○○クン、おはよう。」このオジサンと知り合いだと判ったら、Lは笑みを浮かべながらS部長に会釈する。不思議そうな顔したS部長は、僕とLの顔を見比べ、ニヤッとして、「綺麗な子だな」「。。。。」「あのね。わたしね。。」横と目の前から攻撃を受けて、正直何をどう話したのか覚えていないが、地獄の時間が過ぎて、日比谷となり、全員降りて、彼女は、違う線へ。千代田線に乗った僕は、会社に着いてから、部長に言われたさ。「詳しいことは分からないが、誠意ある対応をしなさい。」「。。。はい。」 

その日、確か今の家内とバレンタインの食事をして中目黒に一人で帰った僕は、寝る直前に包みの存在を思い出し、押し入れから出して、爆弾だったらどうしようと耳を近づけたりしながら、開けた。 

中には、僕が、Lにあげたグラスの返品と共に、メッセージカードが。「いつかまた、このグラスでイチゴとシャンパンを食べましょう。」そう、Lと僕は、プリティウーマンを観て、その中の印象的なシーンを真似した。その為に、シャンパングラスをシャンパンと共にLにプレゼントしたモノの返品だったのだ。そうか、仕方ないな、と思ったがふと見ると、グラスにはシールが付いている。そこで気づいた。 

これは返品ではない、新品だ(韻を踏んでいる場合ではない)。僕が、どこで買ったのか(日比谷シャンテだが)勿論言わなかったのに、そこを見つけ出して、同じものを買っていたのだ。ぞーっとしながら、はたと気づき、チョコの包みを開けると手作りでやっぱり中にはイチゴが入っていた。。 

これを話すと皆爆笑するのだが、怖かった、心底。。かなり一級のホラーだと思う。以降、僕はバレンタインの朝は結構ビクビクしている、ドキドキではなく。。しかも、これで話は終わらず(たぶん)、謎のクリスマスイブ事件というのに繋がるのだった(つづく) 
ほぼ1年前の8月ごろ、回顧。

1)関係性って大事なのか?なぜ? 

7月22日を出社最後とし、23日からずっと有給消化中で2週間が過ぎたことになる。 
今の気持ちを率直に言えば、「ストレスフリーなのに有意義」だ。そんなことあるのね(笑)。 
僕は、割と、ストレスを感じないと自分の為にならない的な縛りがあるので、何でも楽をしようとする自分を嫌うところがあり、ぐるぐる悩みになるのだが、恐る恐る始めたフリーター生活が、こんなにも楽しいとは思わなかった。サマージャンボが当たったら、思わず米国行きもやめるところだったが(笑)、3000円しか当たらなかったので、引き続き行くことに変わりはない。 

ぼちぼち財務関係の本は読んでいるが、基本的には、昼も夜も友達とご飯を食べたり、飲んだりしているだけ。合間は、ヨガとキックボクシングとひたすら寝ているだけだ。日経は全く読んでいない(笑)。 

一方、食事や飲みの誘いは、これでも、結構断っているのに、有り難いことに、ほとんど毎日何らかあるし、2、3回目のお誘いとかもそこそこある。また、○○(現社の本社の所在地)に行く前にとか、○○でというのも結構あり、しかもちゃんと日程が決まっている。つまり、今度また飲もう、という口先誘いではなくて、飲もうと誘ったら、本当に飲む人が結構居るということで、これは結構驚きだった。というのも、お客との対話や、ちょっとした知り合いとのまた飲みましょうはないもの、と思うのが普通だったから、結構例外はない、と思っていた。その中で、改めて気づいたのが関係性の要点は、深さとか密度が決める、だ。長さは、一旦深いもの濃いものを作れば、さほど重要ではなく、割と自然に続くことが多い。お互いに何らかのWin-Winがあるのだ。頼られているほうだって、頼られている快感みたいなものが十分Motivationになる。 

例えば、所謂、自己啓発(コーチング)の会で遭った人たちは、面白いことに、殆ど誰も誘ってこない。メールをくれたのも、コーチの人と、とあるメーカーの人ぐらいかな。後は、退職のご連絡はしたが、一切返信はない。考えてみれば、そうだよな。彼らは、迷っている人たちなんだから、そこ(迷い)からの脱離宣言した僕をそんなに快くは思わないし、別に「コツを聞く」みたいな下種な感じにもならない、仕事関係もないし、なんてひねくれたことを感じている(笑)。 


2)『本当は』病に罹る必要はない。 
こんなことを書くぐらいだから、正直、僕は、子供のころから人気者ではなかったし、友達の数が多い方でもない。親友とかいう言葉を聞くと、(自信をもって僕が言えるのは誰になるだろう、抑々向こうもそう思ってくれるのかと)ピリッとした感じにもなる。ま、一言でいえば、人間関係に自信がないわけだ。どちらかというと一匹狼的なイメージで、「マニアックな人」という位置づけだったと思う。お客受けや上司受けもそのマニアックなところだし、大勢を集客するイベント力みたいなところからは、対極にいる存在だと思っている。だけれども、作った人間関係が信用できると思えば、結構丁寧にメインテナンスするし、割とマメなところもあるので、まぁまぁ風化しないし、割と信用度があるようだ。その信用度に免じて、誘ったときに断られなければいいなぁ、誘って断られて傷つくの嫌だなぁ、みたいな感じだったが、意外にも断られていない(笑)。 

ま、自分で、この人は大丈夫だろう、という人しか誘っていないのかもしれないが、久し振りに会って話すと、結構、皆にいろいろ悩みを相談されるので、ちょっとした驚きがある。つまり、僕の人脈は広くはないかもしれないが、結構深いというのが、割と実感出来ているピリオドなのだ。 

もっと言えば、大衆集客能力を持っている人を羨ましいと思い、子供のころから、人気者というポジションに憧れながら、全くなれなかったコンプレックスみたいなものも強くある。だからこそ、例えば、野球(選手)でいえばだれが好き、という単純な問いに、巨人とか、王、長嶋とか、(逆に自信をもって)阪神とかも答えられないし、考えた挙句にヤクルトとか(笑)、野村とか、落合とか、桑田とか、そういう答えを言い、その過程を経た答えを信奉しなければ、何か自分の存在意義が薄れるような感じもしていた。 

考えてみれば、50歳にもなってそんな感じに囚われているのだから、相当幼稚なものであり、もっと大人になれよ、とか、人に惑わされずに生きたい、とかいろいろ考えるところもあった。そういうところからいえば、今回の転職は、そういう他人から『本当は』どう思われているか、『本当は』他人から好かれているか、という視点から、相当離れることができるようになった気がする。 

本当は、なんてどうでもいいんだよね。自分がどう思っているか、と、自分が信用している人は、ちゃんとそう接しましょう、ということなんだな。それで裏切られたとしても、見抜けなかった自分の責任だし、抑々、そんな人が、僕の人生に占める割合なんてほとんどないんだ、という感じ。友人選択は、性善説でいいのだな。 


3)家族との関係性 
6日水曜も、家内がとある料理番組の撮影に関係していたので、朝も早よから、荷物持ちでキッチンスタジオに行った。我が家は車がないので、地下鉄で重い荷物を持って行ったし、例のごとく家内が告げた出口が違っていたり(笑)、バタバタしながら着いた時には結構汗だくだった。しかも短パンにポロシャツ。多分、スタッフの人は完全に「かばん持ち」だと思っただろうな、実際に運搬人だった。家内も、汗だくの僕を、「主人です」と紹介するのは、憚るものがあるだろうと察して、アシスタントをしてくれる家内の友人と、スタジオの人に簡単に「それでは一日宜しくお願いします」とだけ言って、さっさと帰った。 

で、今晩(7日)、息子も併せて家族で食事をしている時に、家内が「今日のお昼、xxさんとxxちゃん(ミラノ時代の同僚の奥さん)と食べたじゃない?前日の撮影の話聞かれて、ご主人はどうしていたの?という質問に、(荷物運搬で)汗だくの旦那に、それじゃ(ご苦労)有難う、みたいに終わらせたと、話したら二人とも爆笑していた。でも、考えてみれば悪かったね、御免ね。」と言われたので、「うん、まぁ、そこに居ても、僕は(撮影のことがわかるわけでもないし)何も役に立てないし、元々荷物運搬係として行っているから、私が旦那です、とか名乗るつもりもないしね。」と言った。 息子が、「そりゃあそうだ。出番が違うもんね。目立たないのが正解。自分の出番なんだったら、汗かかないように色々考えて、人から何といわれようとスーツ着て家から車で乗り付けるだろうし。」と言ったので、分かってるなーと(笑)。 
そうなんだよな。僕は、自分の出番だと思えば、それに対しては、徹底的に準備もするし、最善を尽くすが、後は電池切れだからな、器用ではない。万人にいい印象を与えようという気が端からない。 

6日の晩は、家内はずっと撮影(12時間ぐらいの拘束、因みにギャラは5万円だったらしいので結構喜んでいた)で遅いのが分かっていたので、息子と焼き肉を食べに行った。 
息子は息子でずっと外出しているので、何時に帰ってくるかわからないが、突然、夜ご飯を食べに行こう、出来れば、近場でガッツリとということだったので、赤坂まで行くのはちょっと遠いな、ということで、代々木上原まで行った。 

で、往復の電車の中、食べている間も、ずっと、退職してからの2週間の話と、裁判員の話で、感じたこと、友人、先輩にかけられた言葉、そこから推測される心情などを含めて、息子の将来に必要と思えることをいろいろ話した。肉を食べながらも、二人で1時間半ぐらいずっと絶え間なく話していたことになる。 

最後に(息子がトイレに行っている間に)お会計をして、初めての店だったが割とおいしかったので、「美味しかった、有難うございます」とお店の人と話しだした。息子と二人で食べていたことを知ったら、店長がちょっと驚いていて、「ああ、やっぱり息子さんなんですか?仲良いですね。そう見えるけれど、普通、その年代で父親と二人でってウザがって行かないから」ということだったので、掻い摘んで、経緯を話したら、更に吃驚していて、「(頼んだ料理を届けるタイミングで)聞こえる話が、英語の内容や、海外の話、女の子の話も多かったwwし、(あの人たちは)なに人でどんな関係なんだろうと思っていましたが、そうですか、いいですねぇ」ということだったので、トイレから戻ってきた息子にその店長を紹介し、僕はもうすぐいなくなるけれど、彼は来ると思うので、サービスしてやって下さい、と話しておいた。息子も、「もう一回期近で行って、顔売っておけば、何とかなるかな」ということだったので、そうだね、そうしよう、と話した。 

息子は、僕が店の人と仲良くなって、いろいろサービスしてもらうのを子供のころから見ているので、そうやって関係性を作っていくのが、僕のやり方だというのをごく自然に知っているし、それで具体的に何を得ているのか、というのもある程度分かっている。よって、その場での自分の役割は何か、というのも、察知し、割と自然にふるまえる。遠慮するところと、大胆に懐に飛び込むタイミングとかには、かなり敏感に反応する。なので、僕が、荷物係としてふるまう時と主役としてふるまう時のOFF/ONのタイミングや行動パターンも大体読めているのであろう。 

取り敢えず、4)以降はまた改めて。 
愛だけじゃ生活できない! 20代女子が結婚相手に求める年収は?
「愛があればお金なんて!」などと言えるのは、フィクションの中と、よっぽどライフプランを投げている人だ..........≪続きを読む≫

僕の身近にも結構な数の離婚と、それに纏わる子供たちの運命の変化がある。日本は恐らく殆どが、「旦那がギャンブルか女で身を持ち崩し」「離婚して、養育費は男が払い、お母さんが育てる」というパターンだ、と思う。慰謝料はどんなに旦那が悪くても200-300万円ぐらいが限度なので、養育費でどのぐらい払えるか、によって母子の生活内容が変わる。元の会社の同僚Kの例では、男が事業をやっている親からの遺産相続を前取りして、1800万円、慰謝料が200万円で、計2千万払ったのが最高(最低?)ケースだった。因みに裁判で女性側が訴えた養育費+慰謝料は1億円だったww どこまで行っても計画性のない男なのでキャッシュはなく、銀行に借り入れを頼んだが断られて、結局親に泣きついたというお粗末さだった。 

何をやったのかというと、(元)奥さんに隠れて結婚歴のある女と海外赴任先でもずっと付き合っていたが、女も時々自殺未遂騒ぎを起こしたりとんでもないやつで、結局、振られて、ことも有ろうに、奥さんに、そのことを泣きながら告白したということだ。それまで何とか怪しくても信じようと思っていたがブチ切れて、母子が先行帰国したと。  

この一家とは実は家族ぐるみで付き合っていたので、奥さん同士はまだ時々連絡を取ったりご飯を食べたりしている。僕も、Kと偶然会ったときは話をするが、結局、毎月養育費を15万円くらい(今は20万くらいかな)キャッシュで払っているが、離婚(正確には先行帰国)以来一度も会わせてもらっていない、とのこと。誕生日やクリスマスにも贈り物をしたが、何も返事もないので、一度、「自分はダメおやじだが、とにかく金は送っているのだから、受け取っているとか、元気でやっているとかぐらいは返事をしてほしい」と添えたが、全くなしのつぶてだったらしい。因みに、一人息子で、我が息子が2年生まで在籍した日本の中学を卒業したはずだ、もう今年は受験ぐらいだろうが、どうなっているのか知らない。奥さんは、完全に壊れていたので、恐らく、Kのことを蛇蝎のごとく息子に吹き込んでいるのだろう、Kが連絡とっても何も反応がないそうだ。 

当初は、男同士の情けみたいなものも感じていたが、Kは兎に角いい加減で、女の存在がばれたときも、「ロレンツォの女だ」と言い張っていたそうだ。向こうの奥さんも結構とぼけている人で、そのことをうちの家内に言って、家内がしばらく悩んでいた、という逸話が有ったり。今から4年ぐらい前のある時、家内と二人っきりで食事をしたときに「あのころの修羅場の背景でお互いに知っていること」を話し合ったら、随分食い違っていて、恐らく、僕の知っているのが間違い(KがMakeUpしたもの)と思われるもので、呆れ果てた。数々酷い話はあるが、要するに、海外赴任先でも近くにその女を住まわせ、家族への生活費を渡さずに、その女の部屋代から何から貢いで、子供の洋服なんかはうちのおさがりを挙げていたということだったり、ばれていないつもりでも、日本人学校のバスの見送りに来ている駐在妻たちに住まいから一駅離れたところから通勤する場を何度も目撃されたりしていた、など。しまいには、自分の家に帰らないで、女の家に入り浸っていることを、タクシー会社が不憫に思って奥さんに示唆して、半信半疑で、その住所に行ってみたら、管理人に「Kの奥さんに用事か?」と問われて絶句したりとか、まぁ、真実としては相当ドラマなことであった。 

海外の友人の代表例でいうと、旦那がスウェーデン人で、初めて会ったときは、奥さんが(スウェーデン語を話す)イタリア人のシモーナという女性で、シモーナの連れ子1人と、夫婦の間の子供2人の5人家族だった。その頃、僕と旦那は英語で、奥さん同氏はイタリア語で。僕とシモーナはイタリア語で、家内と旦那もイタリア語で、でも向こうの夫婦同士はスウェーデン語で話し、子供たちはイタリア語で話していた。が、その後、企業家の旦那は部下の女性(イタリア人)に手を付けて離婚、その結婚式には、僕ら家族はストックホルムで出席したぐらいだったがww結局また離婚した(子供はいなかったはず)。 
その後時々しか連絡を取っていなかったが、FBで繋がった時には、香港在で香港人と結婚して一人子供がいた。シモーナはその後やや精神を病んで、整形して、一回りも下の男の子と付き合ったりしていたが、整形顔は完全にマイケルみたいになっていたし、豊胸もしていた。 
スウェーデン人の男とは、僕も家内もFB友達だが、何かとても気持ちは複雑である。 

もう一組は、イタリア人同士のカップルで、夫妻とも数学者だったのだが、奥さんはイタリア人にしては洋服にも気を使わないし、ちょっと口の周りの産毛が濃かったりして、数学者だと平気なのかな、と思っていたが、暫くして旦那が別の女性(これは結構クールビューティな感じだ)と付き合いだし、離婚。子供は男女で、15歳くらいと13歳くらいだろう。旦那の方が引き取っているのかな、新しい彼女ともFBに写っていたりする。 

まず、離婚すると、どちらかの親とだけしか住めないし、また、往々にして住むところが変わったり(経済的な理由で)限定的になったりする。分かれた旦那が、ダルビッシュだったりすれば、余り生活レベルに影響はないだろうが(それでも婚姻が続いていたら、子供たちは米国で暮らしているわけだから大違いだけれど)、普通は母子家庭だと大変だ。 

また、記事にもあるが、大概は、どちらか(大概は離れているほうの親が)が悪者になって、その人の所為だという愚痴を聞かされ続けたり、不要な善対悪の闘いに巻き込まれることになる。凄くストレスフルだろう。離婚の理由は何れでも、子供たちの親であることは変わらない、ということを、離婚の時に確認して、離れても定期的に会うことを条件としてお互いに守らないと、結局、いろいろ相談したいときに片方の親しかいないということになってしまう。僕はそれが一番可哀想なことだと思う。でも、離婚するときに、子供の為に、どのぐらいの頻度でキチンと会う、ということを決められるような夫婦関係だったら、多分離婚にまで至らないで済むのだよね。 

最近の美魔女とか、女子会とかのニュアンスから感じるのは、女性の性が強く長くなり、それを認めないとうまく回らないということだな。僕も、お母さんになっても、異様に若さとか美しさを追求するのは引いてしまうところがあるけれど、そういう人が増えているという事実は分かって置かないと対応を誤る。女性が若く美しくいたいのは、殆どの場合異性の為でなく、同性の間でのマウンティングだと思う。それに時間もコストもかけられる、仕事も、プライベートも充実しているを示すための儀式みたいなものだということを理解することと、家族のプライベートを晒す危険性とのバランスをよく見て、時々奥さんの立ち位置を確認することは大事だと思う。僕も、自分の奥さんにきれいだとか愛しているとかは絶対に口に出せない典型的日本人だが、家内のやることは基本的に応援しているし、家族以外の人が揶揄しても、家族(たる僕と息子)がいいと言っているのだからいいのだ、他人の批判は無視、というのを徹底するようにしている。 


2014年6月12日の日記

遂に昨晩、転職候補先第一志望の最終面接が終わった。 

先週CEO及びCOOにも会っているので、終わりだと思っていたら、もう一回と言われて、第五次!面接がTV会議で有り、米国子会社のCEO(アジア系米国人)と話した。 それも、僕のPositionが相対的にだいぶ高いところに行ったので、先方のCEOと一緒にやっていけるか、相性診断も兼ねた顔合わせだったわけだ。 
結果はまだ分からないが、話は結構盛り上がったので、米国、またはイタリアの駐在となる模様。米国駐在ならば、ミズーリ州のセントルイスという街で暮らすことになる。今日の結果が別方向に働くと、イタリアのミラノ。 
ま、どちらであっても、僕としては、大変チャレンジングで意欲的な転職と成る。楽しみだ。 

それにしても、長い道のりであった。2年前の今頃は絶望的で、先ずは、息子に帰国(最初は、可能性と言った、殆ど決まっていたのに)を告げた途端に、割と聞き分けの良い彼が大荒れとなり、僕と口を利かなくなった。告白したのは、6月頭の火曜日の夜だ。家内と相談し、3週間ぐらいに亘る息子のテスト期間が終わったタイミングで話した。それまで、1か月間は、一人で苦しんでいたわけだ。多分、僕の人生の中で、最も苦しい時期のうちの一つだっただろう。そして、忘れもしない、「ボクシング」の後のタクシーの中で、「実は、、」と切り出したら、「。。そんなの有り得ない。絶対卒業させるって言ったじゃないか!」と激怒した。だが、多分、その頃の僕の態度を見て、ある程度は分かっていたのかもしれない。彼の怒りは当然で、僕も、何としても卒業させようと思っていたので、どんなにお金がかかっても息子だけをブラジルに2年間残すつもりで、その覚悟を話したが、全く聞く耳を持たず、兎に角、僕をひたすら詰っていた(というよりは、無視していた)。それも当然で、両親が帰国するのに、子供だけが残るのは、物凄く大変なことだし、現実感に乏しいことを息子は分かっていたわけだ。しかも、高校で日本へ帰るタイミングが有ったのに、僕が半ば無理やり残したわけだ。そして、帰国を受け入れることは、イコール、その時のGF(日本人)と離別し、友達と別れ、日本へ帰国することを意味していた。一方、家内は、ブラジルが(食べ物がおいしくない、お洒落のし甲斐がない、治安が悪い等の理由で)嫌いだったので、半ば喜んでいたが、それでも4年ぐらいの覚悟できたのに、2年半なんて中途半端だ、とコメントしており、それもその通りだった。つまり、僕は、誰に対しても言い訳もできないし、そういう決断をした会社を呪い、自分自身を責めることぐらいしかできなかった。 

勿論、息子に帰国を告げるまでの間に、(東京近辺の)目ぼしい高校15校程度には連絡を取り、大きく分けて、日本の高校ならば、高2の9月に編入するパターンと、インターの11年生に入るパターンを模索していた。息子と家内にその状況をまとめたExcelを(誠意のつもりで)見せたが、今思えば、息子としては、「帰国することが分かって準備していた証拠」としか捉えられなかっただろう。不信感を増しただけだったかもしれない。家内は、「また、マニアックなことやって」と思っていただろう(笑)。 

息子の反応は、兎に角、日本で学校なんて行かない、辞める、みたいなものが最初だった。だが、その辺は、切り替えの早さで、「与えられた環境で何とかサバイブする」方向に舵を切ったみたいで、途中からは、今更日本の高校に編入しても仕方ない、2年フルで行くインターしかないだろう、でも、東京のインターに付いていけるのか心配なので、英語のレベルの低いクラスが有る方へ行きたい、となった。 
ところが運命の糸は悪戯で、インターでも難しい方の面接が先に決まった。簡単に言えば、合格する可能性は凄くスリムだった(事実上は不可能に近かった)が、取り敢えず、試験に合わせて、家内と息子は帰国し、僕も出張を組んで、SATのミニテストの他、息子だけ、また親子揃っての面接を2度受けた。そして、予想を覆して決まった。だが、正直言えば、受ける段階では、何とかなるだろうと思っていた。 

その頃、息子の(英語を含めた)学力レベルはまぁまぁだったことに加え、インターの校長が、フランス人で、「外国人が英語を学ぶことの苦労」を実体験を通して分かっていたことも有って、面接してわかった「伸び代期待」を込めて何とかなるのではないか、と思っていたからだ。だが、怖れていた通り、入学してからは、英語に苦しみ、授業が全く分からない、得意だったはずの数学も進み方が全く違う、ということで、「何で俺はここにいなくちゃいけないのか?俺の人生を滅茶苦茶にしたのは父親だ。」ということで、全ての焦りが、僕への怒りになってぶつかってきた。しかも東京のインター受験でも、英語のModerateなクラスが有る方は、時期の関係も有り、受けなかったので、「また(難しい道を)強制された」と言う感情も有っただろう。しかも、その段階で僕はまだブラジルにいたわけだから、隔靴掻痒だった。ほぼ毎晩、僕は家内と電話で話したし、家内から来るメールも悲痛なものばかりだったし、息子にメールを打っても無視された。電話で話しても、日本側で息子は絶叫したり、怒鳴ったりしていた。正直言うと、辛すぎて、その頃のことは、少し記憶に薄い。つまり、自分で、強制的に上書きして、消去していた。 

そして、2年後。。。「怒りの塊だった」息子は、今、W杯をブラジルへ観に行っている(笑)。僕が彼に帰国を告げた場である「ボクシング」に火曜の夜、2年ぶりに出席してきた。終わった頃、僕が、ボクシングどうだった?と聞いたメールに、「もう、へべれけだった」(って酒でも飲んだのかよww ヘトヘトとかヘロヘロで良いのに、日本語のチョイスが不自由だww)と短く打ってきたが、まぁ、楽しかったのだろう。ちょっと涙ぐんだぜ。今回、彼は、サンパウロで、チリーオランダ戦を観たり、日本戦も観る。その他、Amusement Parkなどにも行くし、数十万円使うだろう。 
家内は、「大学生に成ったら、アルバイトして返しなさい」と言っているが、まぁ、そんなのどうでも良い。家族が、元気に、楽しくやってくれていれば、僕も仕事の気力が湧くというものだし、どんどんお金を使って経験を積めばよい。それが彼の血肉に成り、後輩とか、自分の子どもとかそういうのに還元すればよいのだ。世の中はそうやって廻っていくのが本当だ。

一年前、三年前、人生には何があるかわからない、ということだ。
全ての悩んでいる人の為にちょっとマジレスしてみます。 

僕も50歳の時、通称「老人研修」というのを受けた。前職の超一流商社(笑)では、ライフプラン研修とか、セカンドライフ研修とかいう名前で誤魔化していた奴だ。49歳くらいから案内が来るのだが、実は、一年ぐらい理由を付けて抵抗していて、50になるまで受けなかったのだが、それは、それまでに転職を決めて、余裕を持って受けたかったからだ。クオーターに一回案内が来て、物凄くムカついていた。 

ところが、世の中はそううまく行かず、どうしたらよいのか今ひとつわからない状態のまま受けたが、それまでに相当苦しんでいたので、その時に分かったのは、「なーんだ。やっぱり、僕死なないじゃん。」だった。 

働き出したのが遅かったので、どうなるかな、と思っていたが、退職金だの、割増だのいろいろ換算すると一時金がかなりあったのと、資産運用がうまく行ってたのでかなりキャッシュがあったこと、薬剤師の資格があるから、最悪、薬局の親父として働きゃあいいや、というのが、ずっと若いころから考えていたセイフティネットで、そういう意味では、結構上司にも楯突いたし、言いたいこと言って過ごしてきたサラリーマンっぽくない生活だったのかもしれない。 

決定的だったのが、ブラジル駐在の時に、NYの馬鹿にしていた上司(本人、娘二人とも東大法卒なのが密かに自慢の風俗好き)に、「だからあなたは部下からの信奉がないのだ」とメールに書いたのと、東京の本部長に「あなたと私しかこのビジネスを実現しようと思っていないのに僕を帰すのか」と直談判したら、「評価ルートに聞け。君と自分がやりたいと言えば言うほど浮いてしまうことも有る」という、およそ執行役員として3500万円くらいもらっている人間の吐く言葉と思えない情けない言葉を聞いて裏切られたことだった。 

ブラジル帰国と共に、事実上の降格となり、閑職に回されて、くっだらない稟議だの、大して力入れ居ていない関係会社取締役だの、監査役だのどうでもいいことをやることになった時は、「あぁ、何かの罰なんだろう。」と鈍い僕でも分かった。廻りからは、そんなに長く続かないから、2年とか3年我慢すれば、また復帰するよ、と散々言われた。 

で、スゲーくだらない男が上司になったり、ブラジルにいるときに結構面倒見たやつが、上司でもないのに偉そうにし出したり、NYでいろいろ面倒見た京大法卒が自慢の女にムカついた態度取られたりし出した時に、「絶対に辞めてやる!」と決意して、物凄く転職活動に力を入れた。 

落ち込んだりもしたけれど、ずっと、自分の人生は自分の為に生きると言い聞かせ、元々持ってた武器を磨いて、医薬業界の本を30冊くらい読んで、事業プログラムのプレゼンを何十枚も作って、できた資料を仕事中もネットや会社の戦略研の資料を使って暇さえあればUpdateした。 

新しく勉強したリニューアブルエネルギーのプレゼンを作りブラッシュアップした。 

ブラジルとかアルゼンチンの経済状況や、産業動向をチェックして、プレゼンを作り、会計の勉強をやり直し、CIA(公認内部監査人)の試験も受けて合格した。 

GFにも相談したり、息子にも意見聞いたりして、自分の立ち位置を客観的に確認した。信用できる友人にも相談したり、意見を聞いた。 

そして、最後に面接を受け、ヘッドハンターのアドバイズの通りにレジュメを書き直し、1年で20回ぐらいバージョンを替えた。 

そのぐらいやれば、いい転職先も見つかります。努力は続けるために有り、自分を信じられるのは自分だけ。 

諦めたらそこで試合終了です! 

(おまけ) 
くだらない上司の為に体調悪くしたり、家族を蔑ろにするぐらいだったら仕事変えるべし。友達でも、親戚でも、親でも、何でも頼って恥ずかしくない。くだらない奴の攻撃を受け続ける方が恥ずかしい。