「家」について | 行く河の流れ

行く河の流れ

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

 『奥の細道』の序。
 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらへて老いをむかふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす」

 「音楽家」「建築家」「作曲家」「画家」「革命家」「政治家」「小説家」「芸術家」等々、いろいろな「家」がある。僕はこの「家」というモノはなぜ「家」と付くのだろうと不思議に思っていた。その家系が代々その職業についているわけでもない。
 
 友人とよく行くバーで話をしていた。彼は言う。

「僕は音楽に仕える。帰るべき所は音楽だ。ずっと指揮をしてきたが『指揮者』というには違和感があった。それは野球で言えばポジションのことなんだ。名札に過ぎない。場所をどこに移しても自分の帰るべき場所は音楽だって気づいたんだ」

 「音楽を栖(すみか)とす」か。だから「音楽家」なんだ!音楽を使って収入を得るとか、音楽を使って云々・・・ではなく音楽を家とし、それに仕える。道具としてではなく自分より上位に置くべきモノ。
 冒頭の松尾芭蕉『奥の細道』の序文がその時、僕の頭に浮かんでいた。そして繰り返し反芻した。芭蕉は俳句を芸術にまで高めた大家だが、もしかしたら、それは二次的産物で本当は「旅家」だったのかもしれない。二杯目に頼んだ赤ワインがそんな空想を抱かせた。