前回の記事で書いた、なぜ同情や可哀想と思う事が
蔑んでいる事になるのかを書きたいと思います。

このような記事を書くととても疲れるので
また次回からは未来へ向けた記事の方を多く書いて
いきたいと思います・・^^;
--------------------------------------------

可哀想と思う事の何が悪いの?と言う方は多いと思います。
テーマの言葉がまさにそうなのです。

全て無意識に思うのが問題なのです。悪気がないのは
悪意がある人より難しい。悪意があるのなら、既に
その悪意を自覚しているということですから・・

▼傾向としては
① ゴシップや不幸話が好き
② 主な話題が人の噂話や悪口
③ 可哀想とまず思う(言う)

▼思考としては
① 辛い気持ちにあるときに、更に辛い人の話を
  聞いて、自分は大丈夫だと安心する
② 可哀想と思う事で自分が優位に立つこと
③ いい事をした(言った)と言い聞かせる事での自己満足

この3つに概ね分けられますが、自分を高めるのではなく、
根底には「人と比べる」事が日常的に常態化していて
自分よりも下の立場の人を見て(作って)立ち位置を確認
するという思いなのです。

同情も似ています。一緒に涙するのは構いませんが、
心のどこかにほんの僅かでも上記のような気持ちが
入っていないでしょうか?

望んでその様な話ばかりを見聞きしたがる人も同じです。
その時点で既に差別化が始まっているのです。
人の不幸をもてあそんで欲しくないと怒りを覚えます。

ボランティアしてきた!と嬉しそうに言う人も、した事
自身は素晴らしい事なのですが、それを言うこと自体は
自己満足ではないかと思うのです。


本当に傷みが分かって辛い気持ちを相手の立場になって
考える事ができる人ならば、むしろ見聞きするほど辛く
なって言う事もできなくなってくるのです。

たとえ、それが架空の話や映画であっても、主人公が
苦しんでいたなら見続けることが耐えられなくなります。


思いに重みがあり言葉を言う人と、軽々しく言葉だけを
言う人の違いも、なぜかその軽さがすぐに分かるのです。

生きた重みがないまま人生を終えるのは果たして
その人にとって幸せなのだろうかと思いますが、そうして
生きる方法しか知らないのかもしれませんね。

勿論無意識でされている方がほとんどですので、自分は
違うという方でも、じっくり胸に手を当てて一度振り
返ってみる事をおすすめします^^
先日で震災から5年が経ちました。その日の前後は各
TV局でも特集番組が組まれていて、今の現状を見る
事ができました。

今日のテーマですが、あくまで私の経験から来る話です。
そうではないと思う方もいらっしゃるでしょうが、
気になっているので書いてみたいと思います。
-----------------------------------------------------
人は生まれた限り、いつかは別れが来ます。
それが寿命で、本来の順番であればまだ良いのですが
そうではない事も多いです。理不尽で一生許せない事や
受け入れる事ができない場合もあります。

病気や、不慮の出来事など・・。
残された家族は悲しみを背負って生きていかねばなりません。
ただ、その悲しみにきちんと立会い消化して、時間が経過
する事により、少しづつそれを受け入れる事ができます。

人は、辛さがわずかづつでも小さくなっていくものです。
そうでなければ過去のもの悲しみが積みあがるばかりで
生き続ける気力を保てないでしょう。

私は、死別こそしてないものの2歳半で両親がある日突然
目の前からいなくなり、祖父母に懸命に育てられました。
子供ながらに時折悲しくて泣く事はあった反面、それでは
真剣に向き合ってくれている祖父母に失礼ではと思うように
なり、泣くのをやめようと決意したのを覚えています。

また、大切な人の死に立会い(闘病期間を含め)葬儀に出て
別れを実感し、残された私を含む家族とその後向き合いました。
当初は自然と涙がこぼれてしまう事もありましたが、やはり
いつまでも悲しみに暮れていては故人がもし見ていたら辛い
のでは・・と感じながら前に進んできました。
人の痛みに比べれば、私はちっぽけなものだと思います。

ただ忘れるというのとはまた違うのです。辛い事に直面
した日を境に、その事を通して自分はどう生きるのかを
一つづつ考えていく日が始まるのです。


また、共感は嬉しいですが同情だけはされたくないのです。
そして、私も懸命に生きている人に対して「可哀想」とは
思いたくないのです。ただ、エールを送ることをしたい。

この言葉を切り取ると、非情な人といわれても仕方ありません
が、悲しみを乗り越えるのは結局本人次第なのです。

可哀想だと思われては、本人の悲しさを呼び戻すだけになる。
私が辛い体験の話もあえてするのは、消化する為なのです。
少しづつ受け入れて、それを乗り越える為。そしてその自分の
過程を含め、その事が誰かの役に立てばそれで良いのです。


また「可哀想」と思う事自体、相手の気持ちを汲もうとすれば
する程、その様な言葉は浮かんできません。
言う側が相手を蔑んでいることになるからです。
カラクリを書くと長くなるので、この事はまた別の記事で書こうと思います。

一方で、自分の経験をあわせて共感していただける方は、
自分の生き方や実体験と重ね合わせ、きちんと消化して
いる方だと嬉しく思うのです。同じようでも全く違うのです。

悲しみや挫折は終わりではなく、新しいスタートなのです。
人は何の為に生まれてきたのかを考えられる唯一の種です。

悲しみや、後ろ向きにすがってばかりでは前に進めません。
良いのですが、それが何年にも渡りそのように閉じこもるのは
前に進むのを避ける為の言い訳にしているようにも思えます。

また、本当に助けて欲しいと思う人には手を差し伸べても
「助けて欲しいといえば誰かが助けてくれる」と楽をしようと
している人には自分の力で進む事を促すようにしています。

そうでなければ、いつも助けてくれる人がいるわけではない。
一人では生きていけない人間が出来上がってしまう。
一人でも強く生きれるから、人の痛みも分かり本当の優しい人
になるのではと思うのです。

今までの経験を全て消化しながら、強く生きて欲しい。
その事が未来の日本を強くする原動力になると思います。

私も病気と向き合い5年が経ち辛い気持ちは和らぎました。
5年前が最悪の状況でしたから。それよりも状況が悪くなる
事がない、と思えば少しづつ視点が変わります。

前を向いて歩く事。その事が大きな力を生みます。
周りの方もどうかその後押しをするほうへパワーを^^
-------------------------------------

最初に書いた特集番組は、まだ復興が進んでいない映像と
辛い気持ちの人達のインタビューばかりを集め、暗い音楽と
沈んだ声のナレーションを付けた内容でした。その後、見て
どう思いますかと問われた一人のゲストが話をしていました。

「復興が進んでいない事ばかりをクローズアップしているが、
 5年目にふさわしい番組の作り方があるでしょう。初年度から
 引きずって、できてないところばかりを取り上げているけれど
 元気で前向きに頑張ってる人もきちんと取り上げてほしい。」

実際、復興事業に携わり今も個人で支援を行い続けているその人
の思いは、震災1年目で尋ねた現地の人たちの声と同じだと
感じていました。

「元気でこれからも頑張るから、また来て笑顔を見せて欲しい。
 復興している姿を見せたいし、それが一番の励みになるから」
 と^^
子供の頃からメカものが好きで、10代の頃に働き
コツコツ貯めたお金でNIKONの一眼レフを購入した。
交換レンズやフィルターも含め今も大切に保管している。

その時も既にオート式の一眼が主流だったが、あえての
マニュアル。友人のカメラマンのすすめで写真が上達
したければ全てを自分で設定して撮るのが早道と言う。

フィルムは何を撮るか決めてからISO感度を選んで購入
する必要がある。またフィルムは現像するまでは仕上
がりは全く分からない。遠い旅先の写真を失敗しても
撮り直しに行くわけにもいかない。

それでもその宝箱を開ける瞬間のようなワクワクした
気持ちが好きで、試行錯誤して撮り続けていた。

時は流れ、デジタルカメラが発売された。

今までとは違い全てオートでISO感度までお任せ。
何より撮った結果をその場で確認できる事はそれまで
想像もできなかった。
その後も沢山撮ってはいるものの、段々と画素数が増え
設定等を全てお任せしてもそれなりに上手く撮れる。

そして少し構図を失敗しても後から加工するからいいか。
という気持ちになり段々と撮る行為そのものがつまらなく
感じ、ある日一眼レフを手に取るのをやめてしまった。

その後はもっぱらスマホ、又はコンデジ。記録を残すだけ。
日常を切り取るメモ代わりの行為。写真の目的は様々でも
自分が本当にしたかったこととは大きくずれている。


以前友人と「写真は芸術か」という話をしていた事がある。
一応世間では芸術と扱われているが「そこにある景色を
切り取っただけだから芸術ではない」と友人は言っていた。

確かに単に日常を切り取ればそれはただの「記録」になる。
1枚の写真を思い通りに、感じた思いを表現する為に全力で
取組めば、それは芸術に近い方向へ向く。

絵画も写実的に書き写せば確かに上手ではあるが、それだけ
では写真の記録と変わらない。自分でその被写体を見て、
何を感じ、何を思うのかをデフォルメや色合いで表現する。

デジタルの良さは絵と同じようにその思いを表現する事が
できる。ただ、フィルムカメラではその表現をする為の工程
が大変だったからこそ、逆に真剣に取組めたのだと思う。


最近、ぼんやりとケースに眠らせたままのカメラを出し
傷んでいないかのチェックをしながら、また写真をやって
みようかなという気持ちが湧いてきた。

試しに初めて買った一眼を近くの中古カメラ屋へ持込み
フィルムカメラの現状を聞いた。マニュアル機はオートに
比べ構造がシンプルだから、例えば50年以上経ったものも
修理技術のある人がいる限り直す事ができるそう。

オート機は中古では極端に安いが、その理由はメーカーの
部品保有がなくなれば修理をする事ができない為だ。

陳列棚を見ると、私の物と同じ機種が並んでいたが、中古の
値段は買った当時とほぼ変わらなかったのに驚いた。
(今は生産安定から新機種の値段も下がっているが、それと
 比べても、今のものと買った当時のカメラはほぼ同じ値段だ)

それほど昔の機種は完成度が高く、もしかすると既に完成
に到達をしていたのではないかと感じた。

お店の方と話をしながら、段々とデジタル一眼とフィルム
式のカメラを目的別に使ってみようと思い始め、ここ最近
持ち歩きながら昔の勘を取り戻すように撮っている。

これからはもっとデジカメの小型化が進んだり、画素数
も限りなく増え、記録媒体の容量も最大化していく。

そして、介護ロボットのように筋肉を動かす脳の信号と
補助ロボットの動きが連動するように、どんな風に撮り
たいかを思うだけで、思い通りの写真が撮れるようになる
のもそう遠い日ではないのかもしれない。


ただし、芸術は便利さを求めないものだと思う。個人の
思いと能力が最大限に発揮される事で唯一無二のものが
出来上がるのだから、便利さはさほど重要ではない。


便利なものの何を選択し、ヒトから手間を手放すのか、ヒトに残すのかは
個人が自責の念、自分の意思で考えていくべきだと思います。
そうでなければ、主導権を握らせてしまい操られますよ^ ^
日経コンピュータ今回創設した表彰制度が
「ミライITアワード 2016」
エンタープライズITで創造的な変革をもたらした
製品・サービスの提供企業50社を表彰したものです。
--------------------------

今年IoTが一般家庭にも本格的に導入され、各メディア
でもキーワードを耳にする事が増えてきました。

とりわけ話題なのが以前も紹介したことのある
「消えてなくなる職業」。これを聞いて今既にやる気を
失った人もいるかもしれませんね。

もしかしたら最終的にはヒトの仕事はゼロになるかも
しれません。それだけ大きな転換期になっています。

ただ、私達世代はその出発点を見届けるだけで全てに
影響が出るわけでもない。従って他人事で終わる話も
多くあります。蓋を開けてみないと分からないけれど
10年以内になくなるといわれているものは確実です。

ただ、今まだほんの子供たちにとっては将来の現実的
な話であることに間違いはないと思います。

私自身も学校へ授業をしに行っていますが、学校がICT
導入をしても先生が追いつけないのが現状で、その間
にもどんどん世の中は進化をしていっています。
早急に学校教育を整備していく必要があるのです。

今回「ミライITアワード 2016」の教育部門ではAIを
活用した教育用のタブレットが受賞しました。
--------------------------
生徒一人ひとりに問題の解答や解答に至るプロセス
スピードや集中度などを分析し、AI(人工知能)に
よって理解できていない個所や得意不得意を導き出し
理解を深める最適な問題を個別に出題する点にある。
使い続けるほど生徒の特性を学習し教育効果が高まる。 
--------------------------

今は教える側に加え、生徒の個々のレベルを全て持ち
上げる仕組みにはなっていません。
クラスに担任の先生は一人。学習塾でも同様で、個別
指導とうたっても指導者の力量にまだ左右されている。

最悪のパターンは授業についていけず諦めてしまうこと。
それは先生側の妥協だったり、生徒側の諦めだったり・・
遅れてしまえば追いつけない、手を差し伸べられない。
やはりヒトのすることには限界がある。

現代の教育方法では同じ言葉を発したとしても、理解の
尺度は全て受ける側の力量になってしまう。(講義式)
どんな大事なことを伝えても、受け側が聞き流せば同じ。

大事なのは「自分で疑問を持ち考える力」です。
大人になれば楽をしたい人間は楽なほうに流される。そして
そんな親が育てる子供が同じ運命を辿るのは逃れられない。

学校の教育段階では、教育の義務があるから生徒が全てを
理解するまでは、本来時間がある限り教える事ができる。
この場を放棄するわけにはいかないと思うのです。

今学校へ行くとやはり先生も危機意識をとても高く持って
おられ、何とかしなくてはいけないという情熱を受けます。
その一環が私達の授業の実現でもある為、導入されている
学校はそれだけ思いも強いと思う。


手を抜くのは簡単だし、他人のすることや自分ができない
ことを他責にして文句を言うのはもっと簡単だ。
社会では自由なのだからという都合のよい解釈で。

ただ他人との比較ばかりに気をとられ、自分自身を高める
ことを日々怠れば、腐った人間は簡単に出来上がる。

そのことを長い間、誰も咎めることもなく放置した結果、
主導権がヒトからAIに移ってしまうのも必然だと思う。

これからその世界で生きていかねばならない子供たちへは
折角生まれてきたのだから生きる活力も希望もなくすような
生き方をして欲しくない。

そんな意味でも教育に力を入れるのは大切だと思う。
これから大人になる子供と、自分さえ良ければよいと考える
大人たちへの。
ここ数年、購入はネットを使うケースが増えた。
理由は実販より安い事、重いものも玄関まで持って
きてくれる。しらみつぶしに探しても見つからない
本やCDもすぐに探せるなど・・

ただ、近未来に逆行しているような話だけれど、私は
本来は直接商品を手にとって確かめたいと思っている。
ネット販売では実物を確認するできない事がネックとなり
特に食品類は期待通りではなかった場合も多い。

今いる場所柄、様々な地域の人がPRをする場があったり
百貨店の物産展で地域の食品を買い求める機会がある。
大抵はそれで終わり、案外送料も高いので次に来る時に
買おうかと思う位で終わってしまう。


その中でこの冬、和歌山の農産品を取り扱う社長ご夫婦と出会った。
還暦位の方で二人ともとても穏やかな人だった。

わざわざ出向き店舗スペースも借りるとなるとコストも
かかるということから、会議机に商品を置く簡素な出店
で、地元と同じような手ごろな値段で柑橘類や梅干など
の販売をしておられた。

近年、柑橘類も品種改良が進み沢山の種類もあるうえに
一年中色々な柑橘が食べれるようになってきているが、
全国的にはまだあまり知られていない。今回は「麗紅」という
三品種を掛け合わせたもの。手で皮がむけ、酸味は弱め。
味が濃縮された身で濃くて美味でした^ ^


話を聞くと、普段は地元のスーパーや関西の百貨店に
卸しているが、それでは買う人の顔が見れないから、こうして
たまにPRをしに遠方へ出向くのだそうだ。

一度直接会って買ってもらった人へは名刺を渡し、次からは
電話を直接社長が取って注文を受ける方法をとっている。
「皮が向きやすい品種がいい」「種がないのが」などから
「今旬でおすすめのを任せる」という要望にも地元農家さん
のネットワークで応えられる自信があるのだそう。

何故電話?と尋ねるとやはり「心が通った商売がしたい」
という理由でした。

常連さんは高齢者の方が多くネットが苦手な方が多いのと
以前は楽天などにも出していたが、代金を踏み倒したり
理不尽なクレームをつけるなど心無い購入者も多く悲しい
思いをしたそうで、ネットでの販売はやめたのだそう。

一度でも顔を合わせれば心が通う。そこから大切に育てた
農家さんの思いも一緒に、本当に分かってもらえる人に送り
互いに喜び合いたい「三方よし」の精神そのものと感じる。


未来に向けて、益々ネット販売の割合が増えると思うけれど
ご夫婦のようにリアルとツールをうまく組み合わせる事で
離れていても血の通った商売ができるのではないかと思う。

美味しい恵みを季節ごとに頼んでみよう。電話をして、
お任せしてみよう。まるで昔の祖母の荷物の便りが来るような
温かさを想像しただけで感じてしまう^ ^