子供の頃からメカものが好きで、10代の頃に働き
コツコツ貯めたお金でNIKONの一眼レフを購入した。
交換レンズやフィルターも含め今も大切に保管している。

その時も既にオート式の一眼が主流だったが、あえての
マニュアル。友人のカメラマンのすすめで写真が上達
したければ全てを自分で設定して撮るのが早道と言う。

フィルムは何を撮るか決めてからISO感度を選んで購入
する必要がある。またフィルムは現像するまでは仕上
がりは全く分からない。遠い旅先の写真を失敗しても
撮り直しに行くわけにもいかない。

それでもその宝箱を開ける瞬間のようなワクワクした
気持ちが好きで、試行錯誤して撮り続けていた。

時は流れ、デジタルカメラが発売された。

今までとは違い全てオートでISO感度までお任せ。
何より撮った結果をその場で確認できる事はそれまで
想像もできなかった。
その後も沢山撮ってはいるものの、段々と画素数が増え
設定等を全てお任せしてもそれなりに上手く撮れる。

そして少し構図を失敗しても後から加工するからいいか。
という気持ちになり段々と撮る行為そのものがつまらなく
感じ、ある日一眼レフを手に取るのをやめてしまった。

その後はもっぱらスマホ、又はコンデジ。記録を残すだけ。
日常を切り取るメモ代わりの行為。写真の目的は様々でも
自分が本当にしたかったこととは大きくずれている。


以前友人と「写真は芸術か」という話をしていた事がある。
一応世間では芸術と扱われているが「そこにある景色を
切り取っただけだから芸術ではない」と友人は言っていた。

確かに単に日常を切り取ればそれはただの「記録」になる。
1枚の写真を思い通りに、感じた思いを表現する為に全力で
取組めば、それは芸術に近い方向へ向く。

絵画も写実的に書き写せば確かに上手ではあるが、それだけ
では写真の記録と変わらない。自分でその被写体を見て、
何を感じ、何を思うのかをデフォルメや色合いで表現する。

デジタルの良さは絵と同じようにその思いを表現する事が
できる。ただ、フィルムカメラではその表現をする為の工程
が大変だったからこそ、逆に真剣に取組めたのだと思う。


最近、ぼんやりとケースに眠らせたままのカメラを出し
傷んでいないかのチェックをしながら、また写真をやって
みようかなという気持ちが湧いてきた。

試しに初めて買った一眼を近くの中古カメラ屋へ持込み
フィルムカメラの現状を聞いた。マニュアル機はオートに
比べ構造がシンプルだから、例えば50年以上経ったものも
修理技術のある人がいる限り直す事ができるそう。

オート機は中古では極端に安いが、その理由はメーカーの
部品保有がなくなれば修理をする事ができない為だ。

陳列棚を見ると、私の物と同じ機種が並んでいたが、中古の
値段は買った当時とほぼ変わらなかったのに驚いた。
(今は生産安定から新機種の値段も下がっているが、それと
 比べても、今のものと買った当時のカメラはほぼ同じ値段だ)

それほど昔の機種は完成度が高く、もしかすると既に完成
に到達をしていたのではないかと感じた。

お店の方と話をしながら、段々とデジタル一眼とフィルム
式のカメラを目的別に使ってみようと思い始め、ここ最近
持ち歩きながら昔の勘を取り戻すように撮っている。

これからはもっとデジカメの小型化が進んだり、画素数
も限りなく増え、記録媒体の容量も最大化していく。

そして、介護ロボットのように筋肉を動かす脳の信号と
補助ロボットの動きが連動するように、どんな風に撮り
たいかを思うだけで、思い通りの写真が撮れるようになる
のもそう遠い日ではないのかもしれない。


ただし、芸術は便利さを求めないものだと思う。個人の
思いと能力が最大限に発揮される事で唯一無二のものが
出来上がるのだから、便利さはさほど重要ではない。


便利なものの何を選択し、ヒトから手間を手放すのか、ヒトに残すのかは
個人が自責の念、自分の意思で考えていくべきだと思います。
そうでなければ、主導権を握らせてしまい操られますよ^ ^