第3話
善意が生む軋み
――否定されたのは、改革ではなく「自分」だった
■ 現場での小さな手応え
翌朝。
西田部長との一席を終えた佐伯は、いつもより少し早く自宅を出た。
胸の奥に、はっきりとした支えがある。
それは安心感というより、「逃げなくていい」という感覚に近かった。
――次に何をすべきか。
その問いに、ようやく自分の言葉で答えられる気がしていた。
まずは、顔を見よう。
忘れていた“自社の社員”を、ちゃんと見に行こう。
そう決めての客先訪問だった。
オフィスビルのエレベーター。
鏡に映った自分の顔を見て、佐伯は思った以上に表情が硬いことに気づく。
(俺は、何をしに行くんだ)
答えは分かっているはずだった。
現場の声を聞く。
社員と直接向き合う。
ここ数週間、佐伯自身が「変わり始めた自分」を象徴する行動だ。
西田に言われた言葉が、まだ胸の奥に残っている。
――社長は、もう「聞かない人」ではありません。
(そうだ)
(俺は、ちゃんと変わり始めている)
だからこそ、今日の訪問には意味がある。
そう信じたかった。
だが同時に、どこかで別の声が囁いていた。
(……それを、誰が証明してくれる?)
■ 静かなフロアと、視線の重さ
受付で名刺を出すと、担当者は一瞬だけ言葉に詰まった。
「社長ご本人ですか?」
「ええ。今日はご挨拶だけで」
その「だけ」という言葉が、思ったよりも軽く響いた。
通されたフロアには、整然とした緊張が張りつめていた。
キーボードを叩く音。
モニターを見つめる背中。
その中に、自社のロゴ入り社員証が点々とある。
(……ここが、彼らの今の現場か)
数字では何度も見てきた。
稼働率も、工数も、報告書も。
だが、「人が働いている空間」として
この場所を見たのは、いつ以来だろう。
胸の奥が、わずかにざらついた。
この客先には、多くのエンジニアに交じって自社のエンジニアも常駐している。
これまで佐伯は、客先訪問は歓迎されないのではないかと考え、ほとんど足を運ばなかった。
だが、今の佐伯は一皮むけていた。
どのエンジニアも真剣な表情でPCに向かっている。
その姿を見て、佐伯は少し自分を恥じた。
自社の社員がそこにいるのに、全員の顔と名前が一致しない。
そして、彼らと最後に話したのがいつだったかも思い出せなかった。
そのとき、一人の男が顔を上げた。
「あ……社長?」
岡田だった。
■ 再会の温度差
岡田は創業から数年後に入社し、今では現場で最も信頼されている中堅エンジニアだ。
佐伯より十歳以上年下だが、現場では「兄貴分」として通っている存在だった。
岡田は席を立ち、佐伯のもとに歩み寄ってきた。
「久しぶりだな、岡田」
「社長……どうされたんですか、こんなところまで」
周囲を気にしながら、会議スペースへ案内する。
その動作が、やけに手慣れて見えた。
(現場に馴染んでいる)
(俺よりも、ずっと)
「急にすまなかった」
「いえ……正直、驚きましたけど」
岡田は笑った。
だがその笑顔には、再会の喜びだけではないものが混じっていた。
測るような視線。
探るような間。
(何をしに来たんですか)
(どこまで分かっているんですか)
そんな問いを投げかけられている気がした。
■ 「現場は回っています」
「現場はどうだ?」
佐伯は、あえてこの言葉を選んだ。
何度も使ってきた問いだからこそ、今の自分なら違う答えが返ってくると期待して。
岡田は、少しだけ考えた。
「仕事自体は……回っています」
「問題ない、という意味か」
「……ええ。表向きは」
その一言に、佐伯の胸がわずかに鳴った。
(表向き、か)
「社長、正直に言っていいですか」
「もちろんだ」
そう答えながら、佐伯は自分が身構えていることに気づいた。
■ 遠さを突きつけられる
「最近、社長がいろいろ動いているのは、現場も感じています」
アンケート。
雑談会。
メッセージ。
どれも、佐伯が「変わった証」だと思っていたものだ。
「悪い意味じゃありません。むしろ……ありがたい」
一瞬、安堵がよぎる。
だが、岡田は続けた。
「ただ、少し“遠い”んです」
「……遠い?」
「はい」
岡田はフロアを見渡した。
「気にかけてくださるのは分かります。でも、今ここで起きていることまでは、届いていないんです」
佐伯の中で、何かが静かに崩れた。
(届いていない?)
(俺は、ちゃんと近づいているはずだ)
反論したくなった。
だが、言葉は出なかった。
■ 否定されたのは「改革」ではない
「もう一つ、いいですか」
岡田の声は穏やかだった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「今ここにいる社員、社長は顔と名前、どれくらい一致しますか」
佐伯は反射的に名前を挙げた。
だが、岡田は静かに続ける。
「では、どこに座っているか、どんな顔か、すぐ分かりますか」
言葉が止まった。
沈黙が、答えそのものだった。
佐伯は悟った。
否定されたのは、行動ではない。
改革でもない。
――否定されたのは、
分かっているつもりでいた自分、そのものだった。
■ 善意の裏側
その夜。
佐伯はオフィスで一人、デスクに向かっていた。
(俺は、間違っていない)
(ちゃんと動いている)
そう言い聞かせる思考が、何度も浮かんでは沈む。
現場を見ているつもり。
社員を知っているつもり。
その「つもり」の上に、自信を積み上げてきた。
西田の顔が浮かぶ。
――社長は、もう独りで進む段階ではありません。
善意は、一人で抱えるには重すぎる。
佐伯はようやく理解した。
自分に必要なのは、現場の声だけではない。
自分を否定してくれる存在だった。
■ 社内に走るざわめき
数日後、その懸念は現実になった。
「社長、先日お客さんの現場に行かれたそうですね」
部長会で、ある部長が切り出した。
指揮系統。
役割。
不安。
佐伯は説明したが、空気は和らがなかった。
動けば動くほど、別の場所で摩擦が生じている。
■ 岡田からの直言
後日、岡田は佐伯に直接連絡を取った。
「社長、現場は混乱しています」
社長に直接言えばいい、という空気。
部長との関係が揺らぐ現実。
「組織があるのですから、間に立つ人を、活かしてください」
その言葉は、佐伯の胸に深く刺さった。
■ 立ち止まる勇気
夜のオフィス。
佐伯は一人、考えていた。
動けば動くほど、事態は複雑になる。
――独りで進むフェーズではない。
初めて、その事実をはっきり受け入れた。
■ 結び
翌朝。
佐伯は西田を会議室に呼んだ。
「西田さん……一緒に進んでくれませんか」
西田は、ゆっくりとうなずいた。
善意は、時に人を孤立させる。
だが、対話は次の道をひらく。
佐伯はまだ答えを持っていない。
だが、独りではなかった。
――第4話へ続く。
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