第1話 感動がなくなった日

――町の電器屋の社長が、立ち止まっていることに気づくまで

 

朝の商店街。
通勤の人たちが、駅に向かって足早に歩いていく。

高橋が、自分の店のシャッターを半分ほど開けたのは、
朝八時を少し回った頃だった。

 

「おはようございます」

奥の作業場から声がする。


のぞいてみると、古参社員の佐藤が、すでに出社していて、
いつものように工具箱を整理していた。

 

今年で六十五歳。
父の代からこの店を知っている、唯一の社員だ。

 

「おはようございます」

そう返しながら、高橋は、
自分の声の調子を、少し整えていることに気づいた。

 

(あ、今、社長の声になってるな)

 

社長として。
というより、この店の「今」を預かる人間として。


特に、長年一緒にやってきた古参社員の前では、
自然と背筋が伸びる。

 

この店は、昔ながらの町の電器屋だ。
看板も、ショーウィンドウも、正直言って新しくはない。

でも、
掃除は行き届いている。


小売りも続けてきた。
近所の人たちには、顔も名前も覚えてもらっている。

 

父が築いた店を、
自分は、そのままの形で守ってきた。

 

社員にも恵まれている。
地域との関係も、途切れていない。

 

(ちゃんと、やれているよな)

 

高橋は、そう思ってきた。

 

 


■ 父の時代の「感動」

佐藤が、エアコンの部品を手にしながら言った。

「今日は3丁目の山本さんのところ、テレビの入れ替えですね」

「ああ、山本さんか。おばあちゃん、元気かな」

 

その一言で、
高橋の中に、ふっと昔の記憶がよみがえった。

 

父がこの店を始めた頃。
新しい家電が出るたびに、
店はちょっとしたお祭りみたいだった。

 

「今度のビデオデッキはな、巻き戻さなくていいんだぞ」
「ボタン一つで、予約録画だ」

 

父は、まるで自分が発明したかのように、
誇らしげに語っていた。

 

お客さんも、
「へえ!」
「すごいねえ!」
と、目を輝かせて聞いていた。

 

子どもだった自分も、その横で、
ただ話を聞いているだけなのに、
胸がワクワクしていた。

 

家電そのものが、未来だった。

「便利になりますよ」
「生活、変わりますよ」

その言葉に、嘘はなかった。

 

自分の家に最新家電が入るたび、
夢中で触り回っていたことを、今でも覚えている。
世の中が、確実に前に進んでいる。
そんな実感が、ちゃんとあった。

 

社会人になり、
やがて父から店を引き継いだ頃。

高橋は、
「変わる瞬間」を届けるこの仕事に、
どこか誇りを感じていた。

 

……それが――
いつからだろう。

 

 


■ 成熟した市場、動かない心

テレビは薄くなり、画質も良くなった。
録画はテープからディスクへ。
エアコンは静かになり、省エネ性能も格段に上がった。

内部乾燥機能。
自動お掃除機能。


昔なら考えられなかったものが、今は当たり前だ。

性能は、間違いなく進化している。

 

それなのに。

 

説明をしても、お客さんの反応は、だいたい同じだ。

「へえ、そうなんだ」
「今のでも、特に困ってないけどね」

 

(……まあ、そうだよな)

 

高橋自身、心のどこかでそう思っている。
省エネで電気代が下がるのは分かっている。
でも、買い替えにはお金がかかる。

 

だから、


壊れたら替える。
古くなったら替える。

 

そこに、
「新しいものを手にしたときの感動」は、
ほとんど残っていない。

 

 


■ 若手社員の何気ない一言

午前中の作業を終えて店に戻ると、
三十代の社員、森が見積書をまとめていた。

 

「社長、これお願いします」
「ありがとう」

 

書類を受け取りながら、
森が、何気ない口調で言った。

 

「最近、仕事は安定してますよね」

高橋は、一瞬だけ手を止めた。

 

「まあな。ありがたいことだ」
「ですよね。忙しすぎず、暇すぎずで」

 

悪気はない。
むしろ、現場としては理想的な状態だ。

 

「困ることもないですし」

森は、軽く笑った。

 

(困ってない、か)

 

経営者として聞けば、
悪い言葉ではない。

 

でも、
なぜか胸の奥に、
小さなトゲのようなものが残った。

 

(……何なんだろうな)

 

その時は、
深く考えようとはしなかった。


ただ、その言葉だけが、
妙に頭に残った。

 

 


■ 何も起きていないのに、疲れている

昼過ぎ。
全員が外に出て、店は一時的に無人になった。

 

高橋は椅子に座り、
事務所の奥に飾られた古い写真に目を向けた。

 

若い頃の父。
作業着姿で、笑っている。
佐藤の若い頃の姿も、並んで写っている。

 

(この人、いつも楽しそうだったな)

 

当時の家電は、トラブルも多かった。
呼び出されることも、きっと今よりずっと多かったはずだ。
資金繰りだって、楽ではなかっただろう。

 

それでも父は、
「次は何を売ろうか」
「次は何が来るか」
そんな話をしていた。

 

 

自分はどうだ。

 

数字は安定している。
赤字もない。
借金も、父の頃よりずっと少ない。

 

それなのに――

(なんでだろうな)
(何も起きてないのに、やけに疲れてる)

 

大きな決断をした覚えもない。


誰かとぶつかった記憶もない。

 

ただ、
「今日も無事に終わった」
そんな日が、淡々と続いているだけだった。

 

 


■ 65歳の古参社員の言葉

夕方、佐藤が戻ってきた。

 

「山本さんのおばあちゃん、相変わらず元気でしたよ」
「それは、よかった」

「また、私の悪ガキ時代の話をされましてね……」
「あはは、いつまでも覚えてますよね」

「でも、テレビは新しくして正解だって言ってました」

 

その言葉を聞いて、
高橋は、少しだけ胸をなで下ろした。

 

(仕事は、ちゃんとできている)

 

だが、佐藤は続けた。

「社長。昔はね、テレビ替えるって言うと、
 お客さん、もっとワクワクしてたんですよ」

 

高橋は、黙って聞いた。

 

「画質も、大きさも、どんどん変わっていって」
「家が小さくなったみたいだ、なんて言われました」

「でも今は、タイミングが来たから替える、って感じですね」

 

責める口調ではない。
ただ、事実を語っているだけだ。

 

「時代、ですかね」

 

そう言うと、佐藤は少し考えてから、

 

「そうですね。でも……」

 

と言って、言葉を止めた。

 

 

「でも?」
「いや、なんでもないです」

 

その「でも」が、
高橋の中に、静かに残った。

 

 


■ 社長が立っている場所

夜。
シャッターを下ろし、店の灯りを消す。

 

静かな店内に、一人。

 

(俺は……何を守っているんだろう)

 

父が築いたのは、
店という「箱」だけではなかったはずだ。

 

新しいものを届ける喜び。
変化を楽しむ姿勢。

それも含めて、
この店だったんじゃないか。

 

それなのに今の自分は、
「壊さないこと」
「減らさないこと」
そればかりを考えている。

 

(守っているつもりで、何も進めていないんじゃないか)

 

答えは出ない。
でも、このままではいけない気がする。

 

赤字じゃない。
失敗もしていない。
経営者として、ちゃんとやっている。

 

それでも――
心だけが、少しずつ鈍っている。

 

それは、
経営が病気になる一歩手前。


「未病」の状態なのかもしれない。

 

高橋は店の鍵を閉めながら、
初めてそんな言葉を思い浮かべた。

 

まだ、何をすればいいかは分からない。
それでも、

「何かを変えなければならない」

 

その感覚だけは、
確かに芽生えていた。

 

 

 

――第2話へ続く