第2話 立ち止まっていることに、気づいてしまった日
――変えなければと思うほど、動けなくなる
この前の夜から、何か特別な出来事が起きたわけではなかった。
翌朝も、高橋はいつも通り家を出て、
同じ道を通り、
同じ時間に店のシャッターを開けた。
「おはようございます」
佐藤の声も、昨日と変わらない。
森も、少し遅れて顔を出す。
すべて、いつも通り。
……なのに。
高橋の中では、ひとつだけ、明らかに違うことがあった。
(俺、止まってしまってるんじゃないか)
そんなふうに、
はっきり言葉にして思ったのは、初めてだった。
■ ペースが落ちているのは、体か、心か
午前中は、近所の住宅での小さな修理だった。
手は自然に動く。
説明も、慣れたものだ。
それでも、
どこか、以前と違う。
(昔なら、もう一言、何か話してたよな)
そんな自分に、ふと気づく。
必要な説明はしている。
失礼もしていない。
でも、それ以上をしようという気が起きなかった。
「ありがとうございました」
そう言って家を出た瞬間、
思わず、ため息が漏れた。
(疲れてるのか……?)
でも、体がきついわけじゃない。
寝不足でもない。
じゃあ、
何に疲れているんだろう。
■ 社長という役割が、少し遠くなる
昼前、店に戻ると、森が電話対応をしていた。
「はい、はい。ええ、大丈夫です」
高橋は、その様子を横目に、事務所の奥へ入った。
以前なら、
「誰から?」
「何の用件?」
と聞いていたはずだ。
でも、この日は聞かなかった。
(任せていいよな)
そう思ったからだ。
それは、信頼でもある。
でも同時に、
自分が一歩、引いている感覚でもあった。
前に出ていない。
かといって、完全に引いている自覚もない。
握っているのか、手放しているのか。
その中途半端さが、
知らず知らずのうちに、高橋を疲れさせていた。
■ 変えたいのに、変える理由が見つからない
午後、事務作業をしながら、
同じ考えが何度も頭をよぎった。
(何か、変えなきゃいけない気がする)
でも、
「何を?」
と自分に問いかけると、答えが出ない。
売上は落ちていない。
クレームもない。
社員も辞めそうにない。
銀行からは「安定していますね」と言われる。
変える理由が、見当たらない。
それなのに、
変えなければいけない気がする。
(理由がないのに変えるのは……怖いな)
その感覚が、
高橋の思考を、そして行動を止めていた。
■ 65歳の背中が、少し遠く見えた日
夕方、佐藤が作業から戻ってきた。
「今日はどうでした?」
そう聞くと、佐藤は少し考えてから言った。
「特に問題はありませんでした」
その言葉に、
高橋はなぜか、ほっとしてしまった。
(問題がないことに、安心してるな……)
自分のその反応に、
少し嫌気がさす。
作業着を脱ぎながら、佐藤が何気なく言った。
「社長、最近ちょっと疲れてません?」
一瞬、言葉に詰まった。
「そう見えますか?」
「ええ。前は、もう少し現場の話、してましたから」
責める口調じゃない。
心配する声だった。
「年ですかね」
冗談のつもりだった。
でも、佐藤は笑わなかった。
「年ですか……。うーん、違うと思いますよ」
その一言が、
胸に、静かに残った。
■ 古参社員の言葉が、胸に刺さった夜
店を閉める準備をしていると、
佐藤が作業場の奥で手を止めた。
「社長」
その呼び方が、いつもと少し違った。
「今日はもう上がっていいですよ」
「いえ……少しだけ、いいですか」
佐藤は言葉を探すように、しばらく黙っていた。
「大きな問題があるとは思っていません」
「仕事もあるし、売上も安定してる。俺たちも安心して働けてます」
高橋も、それは分かっていた。
「でも……」
佐藤は一度、息を吸った。
「正直に言いますね」
高橋は、うなずいた。
「昔は、この店で働いてるって言うと、誇らしかったんです」
「新しい家電を、お客さんより先に触って、説明するのが楽しかった」
「社長のお父さんと、『次はこれが来るぞ』って話すのが、本当にワクワクしてました」
胸が、きゅっと締めつけられた。
「今は……」
「仕事としては、ちゃんとしてます。でも……面白くなくなってしまったんです」
静かな言葉だった。
でも、重かった。
「社長が悪いって言いたいわけじゃありません」
「でも……」
佐藤は、高橋の目を見た。
「社長自身が、この仕事を楽しめてないように見えるんです」
何も言えなかった。
「会社は安定してます」
「でも、社長ご自身は……満足されていますか?」
その一言で、
高橋の中の何かが、音もなく崩れた。
■ 小さな違和感が、消えなくなる
その夜。
自宅でテレビをつけると、ニュースが流れていた。
AI、DX、デジタル化――
当たり前のように飛び交う言葉。
(変える、か……)
父の時代は、確かに生活を変えていた。
わからないから、遠ざけている。
その姿勢そのものが、
今の自分を表している気がした。
数日後、ショーウィンドウを見つめながら、高橋は思った。
(俺が未来を感じられないものを、
お客さんに届けられるわけがない)
答えは、まだない。
でも、
「このままではダメだ」という感覚だけは、
はっきりとしたものになっていた。
(小さくてもいい。何か、動かなきゃいけない)
――第3話へ続く
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