「富岡製糸場と絹産業遺産群」がこの7月世界遺産への推薦が決まった。
幕末から明治にかけてわが国は西欧近代技術輸入によって文明開化を進めた。
この頃から既に現在につながる「技術立国・ものづくり国家」精神が垣間見える。
品質向上と技術国産化に執念を燃やす先人の根性に触れてみたい。


 当時、欧米の旺盛な需要に応じて生糸生産技術を導入し国内で改良して大量生産と品質安定を実現、国の近代化を支えた大きな富を稼ぎ出した。
明治5年群馬県に官営模範工場「富岡製糸場」が操業開始。
生糸輸出ブームに悪乗りした粗製乱造の横行が国の信用を低下させる危機感からという。
仏人の指導下といえ繭倉庫に世界に例を見ない日本独自の「木骨レンガ造」が採用された。
こうした仕事につく女性が珍しいこの時代に政府は、新しい製糸技術を学ばせて指導者に育てるエリート女性技術人材育成への先進的で遠大な目的があった。
多くの良家の子女が国を担う志を持ってこれに参加し、努力に応じて上昇できる能力給のもとに生き生きと働いたという。
さらに注目点は、5年後もう一つの官営工場「新町紡績所」を高崎に設立、廃棄されるべき屑糸や屑繭を絹糸に製品化する廃物資源化のシステムをいち早く導入していることだ。
またここは西欧で紡績技術を学んだ日本人技術者と西欧建築技術を学んだ日本人の大工・建築家とが基本構想から施工まで日本人中心に完成させた初めての絹糸紡績工場で、当時の最新工法「トラス構造」を早くも使いこなしている。


 以上のような輸入技術とは対照的に、江戸の昔から伝統の手動で糸を引く「座繰り」製糸法による地域密着型の「組合製糸」も多数存在した。
養蚕農家が原料と労力を出し合って組合を作り座繰りの生糸を持ち寄って組合の工場で巻きなおして品質向上に努め、これが海外で高い評価を得ていた。
これは政府に頼らず相互扶助的な活動で成長していった。
これらを支えたのは多くの養蚕農家であり、高品質の繭の飼育法など土地毎の気候風土に合わせたさまざまな方法が工夫され、しかもその成果を考案者が独占せず自ら各地に出かけて普及に努めたという。


 わが国の技術導入の初期に一方に官指導、他方に民間による技術の国産自主化と品質向上への努力があったこと、その底に技術とものづくりに対する先人の高い能力と真摯な姿勢、そして「自分たちが新しい日本を担ってゆく」誇りがこれを後押ししたことを、わが国の近代技術導入・発展の歴史の中で決して忘れてはならないことであろう。
「民主官従」の流れの中でわが国の民の旺盛な活力と公への使命感を萎えさせてはならない。
そこに原子力の改革・再生に向けての先人の声を聞く。
(「トランベール」2010年3月号を参考)。


サイエンスライター 世野和平
この記事は2012/7/31の電気新聞に掲載されたものです

 私事ではあるが、現在筆者はある大学で非常勤講師として、初年度の学生に地球環境とエネルギーについて講義しているところだ。


 大学に入ったばかりの初々しい学生が相手なのであるが、毎年、気になるところがある。
それはさんざんに聞かされてきたであろう良く聞く、良く読む、ひいては良く考えるとは何であるか余り考えてはいないようだという、些か判じ物めいた懸念である。
察するに良く聞くとは静かにしていると同義のようであるし、良く読むとは字面を追うことであると考えているようだ。


 これまで毎年同じ質問をしているので、結果として数多くの学生に質問したことになるのであるが、良く聞くとは何か、良く読むとは何かについて明確に答えてくれた、あるいは自分の考えを披露してくれた学生には出会わなかった。


 仮にそれを習ってこなかったとすれば、良く聞くとは静かにしていることと同義であると彼らが考えても無理はない。
彼らを観察すると、彼らに施された「良く何々する」という教育の成果は、問題に手持ちのパターンを当てはめて、答えを得るというパターンマッチングの熟達として実現されていると考えざるを得ない。


 パターンマッチングによる問題解決方法は、問題が類型化されていればうまく働くのが明らかであるが、従来になかった問題、まさに温暖化しつつある地球や枯渇しつつある資源、そこから惹起し彼らが将来に直面すると予測される多くの問題については機能しないように思われる。
人類が出会ったこともないような新しいパターンには、手持ちのパターンはマッチングしないからである。


 さて彼らに対しては講義だけではなくグループワークを課して、初年度というブーツアップにふさわしい時期に新たな技量を体得してもらうことを目指している。
このグループワークでは、個々人では見つからないような新しいアイデアの発見や、これをグループの力で育てるというプロセスを学生に紹介しているのであるが、ここでもグループワーク自体つまりリーダーとメンバーの関係やリーダーの決断、メンバーとしてのアクティビティなど、どうもどの学生にとっても初めての体験らしいということが分る。


 エネルギーと資源が潤沢に供給される社会において、公に対する個の優先は十分に可能であるし、定常的な世界において、パターンマッチングによる問題解決は非常に有効であろう。
しかし、その両方が危うい未来が見え始めた現在、我が国の教育システムを運動させている人々にとって、教育システムがこのままでよいのかは大いに疑問ではないのだろうか。


サイエンスライター 朝田培九
この記事は2012/7/24電気新聞に掲載されたものです

 省エネ推進の中で聴こえてくるのが、白熱電球からLEDへの切り替えだ。
6月13日経済産業省と環境省は、省エネのために国内での白熱電球の製造を自粛し、販売を抑えるように要請した。
そして「消費電力の削減の余地の大きい家庭向け照明が、なるべく早くLED電球に切り替わるよう協力をお願いする」と、環境副大臣からの言葉があった。


 マスコミもこぞって放送するために、LEDこそが唯一の省エネ電球であるがごとく認識させられている。
このため、蛍光灯も早くLEDに代える必要があると思い、お店やショウケースの中の照明がLEDになっていないと、グリーンコンシューマーを自称する方々から、白い目で見られるようにもなった。
電球メーカーは、東芝をはじめ、白熱電球の生産をすでに終了した会社もあり、電球製造の主流は蛍光灯とLEDになっている。
まだ生産を続けている会社でも、生産を打ち切る予定をすでに立てている。


 そこでLEDに替えることでどれだけ省エネになるか、正しく認識するために計算してみることとする。
比較の対象は、白熱電球と電球型蛍光灯とLED電球である。
利用の仕方としては、家庭用室内照明とする。
使うデーターは電球メーカーのカタログとさせて頂く。


 60W級の白熱電球の明るさを基準にした場合、白熱電球の場合の消費電力は54~57Wが一般的である。
蛍光灯の場合は11Wが相当品となる。
一方LEDの場合、光の特性が他の電球と異なるため、空間照明のためには工夫が必要で、概ね9~11Wとなっている。
特殊な器具との組み合わせで7.5Wも同等されている。
すなわち、電球型蛍光灯と大きな差はなく、消費電力は5分の1程度である。


 市販の価格を見てみると、電球型蛍光灯は300円程度、一方LEDは2000円強である。
白熱球を一つLEDに取り換えるなら、電球型蛍光灯に6~7本取り換えられる。
こちらの方がよっぽど省エネになる。
しかも寿命は蛍光灯でも10000時間程度あるので、通常利用で5年ぐらいは替える必要が無い。


 さて、LEDの特性をうまく利用した物に、交通信号や街路灯がある。
交通信号はそもそも照明ではなく視認性が重要なもので、しかも取替えの手間が大変である。
従来型の70W電球から11WのLEDに替えることによって、ほぼ10年程度取替え不要となり視認性も格段に増している。
また街路灯は下面だけの照明なので、空間照明と比べたらLEDの特性上、小出力ランプで済むことになる。


 この夏も電気は潤沢には無く、全国的に常に計画停電の不安の中にある。
そうした中で多くの国民が省エネ・節電に努力をしている。ミスリードなく、暮らしに役立つ正しい情報の提供に心がけてほしい。


サイエンスライター 高岡章喜
この記事は2012/7/17の電気新聞に掲載されたものです

 大飯原発3号機が再稼働した。周辺道路の閉鎖や市民グループの抗議が報道された。
安全性について疑義が絶えないが、原発の安全性とは?まず、思い浮かべるのは原発の設計及び運転にかかわる安全性である。
設計の段階で、ある事故想定がなされそれに対する安全性が考慮されていること、そして、さらに安全な運転条件から逸脱した場合にその影響が緩和されるような工学的考慮がなされていることである。
加えて、第三の安全確保が必要である。
福島第一原発事故のように運転が制御できなくなるような場合の措置である。
人や環境が放射能にばく露される影響を低減・回避するための一連の災害対策である。
重要なわりには日が当たっていないと思える。
これは危機管理の問題である。


 ピーター サンドマン氏(危機コミュニケーションの専門家、米国)は福島第一原発事故直後のインタビューでこう答えている(World Future Society)。
人は危機に直面すると必ず3つの質問をする。
何が起こったのか?
次に何が起こるんだ?
起こりそうにないようだけれど、最悪思っていることが起こるかもしれない?


 同氏は、第一の質問は状況とともに変わるもので、第2および第3の質問がより重要であるが、日本の政府はこれに十分答えられなかったことが失敗だと加え、こう言っている。
牛乳、稲わら、飲料水、土壌、野菜などへの放射能汚染影響の予測も十分ではなかった。
結局、政府は不確実性があるにせよ事態の状況を明言することにしくじり、人々は事態は思っているより悪いと考えるようになったと。
事前に緊急事態予測・対応策が周辺の人々と共有されていれば少なくとも最悪の状況は避けられるだろう。


 緊急事態の措置に対してわが国ではどうなっているのか?
ちゃんとした防災対策があるではないか!
原子力災害対策特別措置法で、原子力災害(放射性物質又は放射線が異常な水準で原子力事業所外へ放出された事態により国民の生命、身体又は財産に生ずる被害)の発生および拡大を防止し、復旧を図るため、国、原子力事業者、地方自治体の責務が明示されている。
例えば、大飯発電所のある福井県では、福井県原子力防災計画(福井県地域防災計画・原子力防災編)がある。
他の地方自治体でも同様である。


 こうした防止対策は福島第一原発事故でも生かされたのだろうか?
不思議に思うのはこうした第三の安全措置がほとんど見えてこないことである。
原発の機器設計・運転上安全確保は言うまでもないが、第三の安全確保はまさに当事者にかかわる安全確保であり、安全性再考の最重要要件ではないか?


サイエンスライター 新井隆介
この記事は2012/7/10の電気新聞に掲載されたものです

 我が国の諺の個々人の「私」のレベルでの人生訓が時を越えて通用する。
いわく「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」「盥の水と共に赤子を流す」「覆水盆に返らず」。
これはわが国の原子力発電への世論にもあてはまるようだ。


 東電福島事故以来「憎まれた坊主」の原子力発電。原子力技術や専門家・当事者、さらには推進してきた企業・国へと「憎い袈裟」は際限なく広がっている。
その挙句わが国が営々として育ててきた「盥の中の赤子」原子力発電を脱原子力依存のスローガンの下に丸ごと流し去ろうとしているやにみえる。
代わりの「赤子」といっても「帯に短し襷に長し」で適当な代役が容易には見つからない。


 そうこうしているうちに「覆水盆に返らず」、そのツケは後世代にまわされることになる。
「盥の中の赤子」を国民の安全を脅かす「鬼っ子」と決め付けられるのか。


 しかし原子力発電は「公」の問題だ。
それが世論なる名のもとに国民・市民の「私」のレベルの選択に委ねられ、民主主義の衣をまとって歩き出すことにどこかに違和感を感じる。
それが民主主義といえばさもありなん、だが・・。


 国民・市民の原子力発電への不信感は原子力技術とそれを扱う当事者の体質・やり方への不満などに起因しているようだが、これらが実質的に有効といえるまで改善されても民主主義的な合意形成が進む保証はないどころか、悲観的に見れば原子力がわが国から消えるまで燻り続けるだろう。
発電所再起動問題の迷走に見るように。


 その背景の一つに民主主義社会で「公」の原子力を担う肝心の原子力当事者自身が「公」の立場を忘れた「私」の振る舞いが目立つことにもあるのではないか。


 このように見てくると民主主義を基盤とする社会にあって「公」の大きな部分を担うはずの国民・市民も原子力当事者も、双方とも実は過度に「私」の視野に捉われているのではないか。
端的に言って「私」の面の「原子力の安全リスク」と「公」の面の「原子力の社会的リスク」が混同されている。


 英国のチャーチル元首相は「民主主義が完全で賢明であると見せつけることは誰にもできない。
実際のところ民主主義は最悪の政治形態ということができる。
これまで試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば・・だが」といっている。
けだし名言だ。


 電力会社の人は「原子力は国策民営でやってきた」と異口同音に言い、言外に自分達には責任がないといわんばかり、といわれる。
残念なことである。
1951年の電力再編成と、間をおかずに供給責任を負って原子力を選択した電気事業者には「私」(民間企業)が「公」(公益事業)を担う企業家精神と誇りがあったはず。
創業の精神の再興を切に望みたい。



サイエンスライター 世野和平
この記事は2012/6/26の電気新聞に掲載されたものです