我が国の諺の個々人の「私」のレベルでの人生訓が時を越えて通用する。
いわく「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」「盥の水と共に赤子を流す」「覆水盆に返らず」。
これはわが国の原子力発電への世論にもあてはまるようだ。
東電福島事故以来「憎まれた坊主」の原子力発電。原子力技術や専門家・当事者、さらには推進してきた企業・国へと「憎い袈裟」は際限なく広がっている。
その挙句わが国が営々として育ててきた「盥の中の赤子」原子力発電を脱原子力依存のスローガンの下に丸ごと流し去ろうとしているやにみえる。
代わりの「赤子」といっても「帯に短し襷に長し」で適当な代役が容易には見つからない。
そうこうしているうちに「覆水盆に返らず」、そのツケは後世代にまわされることになる。
「盥の中の赤子」を国民の安全を脅かす「鬼っ子」と決め付けられるのか。
しかし原子力発電は「公」の問題だ。
それが世論なる名のもとに国民・市民の「私」のレベルの選択に委ねられ、民主主義の衣をまとって歩き出すことにどこかに違和感を感じる。
それが民主主義といえばさもありなん、だが・・。
国民・市民の原子力発電への不信感は原子力技術とそれを扱う当事者の体質・やり方への不満などに起因しているようだが、これらが実質的に有効といえるまで改善されても民主主義的な合意形成が進む保証はないどころか、悲観的に見れば原子力がわが国から消えるまで燻り続けるだろう。
発電所再起動問題の迷走に見るように。
その背景の一つに民主主義社会で「公」の原子力を担う肝心の原子力当事者自身が「公」の立場を忘れた「私」の振る舞いが目立つことにもあるのではないか。
このように見てくると民主主義を基盤とする社会にあって「公」の大きな部分を担うはずの国民・市民も原子力当事者も、双方とも実は過度に「私」の視野に捉われているのではないか。
端的に言って「私」の面の「原子力の安全リスク」と「公」の面の「原子力の社会的リスク」が混同されている。
英国のチャーチル元首相は「民主主義が完全で賢明であると見せつけることは誰にもできない。
実際のところ民主主義は最悪の政治形態ということができる。
これまで試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば・・だが」といっている。
けだし名言だ。
電力会社の人は「原子力は国策民営でやってきた」と異口同音に言い、言外に自分達には責任がないといわんばかり、といわれる。
残念なことである。
1951年の電力再編成と、間をおかずに供給責任を負って原子力を選択した電気事業者には「私」(民間企業)が「公」(公益事業)を担う企業家精神と誇りがあったはず。
創業の精神の再興を切に望みたい。
サイエンスライター 世野和平
この記事は2012/6/26の電気新聞に掲載されたものです