平成20年3月に学習指導要領の改訂が公示され、24年4月から施工された。
特出すべきは、30年ぶりに放射線の授業が取り入れられるようになったことである。


 要領の中身をみると、理科の第1分野の7項目に、「科学技術と人間」とある。
この項では、「エネルギー資源の利用や科学技術の発展と人間生活とのかかわりについて認識を深め、自然環境の保全と科学技術の利用の在り方について科学的に考察し判断する態度を養う」としている。


 この項は、「エネルギー」「科学技術の発展」「自然環境の保全と科学技術の利用」に分かれている。
「エネルギー」の中はエネルギー変換と資源が取り上げられ、資源の中で放射線の性質と利用に触れることとしている。
中学3年生の最後の方で行われている授業だ。


 学校の現場で理科を担当する先生に伺うと、授業で習った記憶はない方がほとんどだ。
大学で化学や物理を専攻された先生が、かろうじて習っている程度である。
子供たちの保護者においても、世代的に同じで習っていない。


 そうした中で、従来から放射線とか放射能といった言葉がでてくる授業がある。
それは小学校高学年の国語の教科書にある。
中身は広島の原爆について書かれたもので、先生方は修学旅行前の学習や、平和教育に結び付けている。
内容的には、科学的理解の面では気になることもある。


 文部科学省では、昨年から小学校や中学校を中心に、放射線出前授業を進めるとともに、先生方の勉強のために放射線セミナーを開催してきている。
この事業を通じて、各学校で先生方が、自ら授業が行えるようになれば、との期待が込められている。


 しかし、全国には中学校だけでも1万余もある。
年間数百件のモデル授業で、全国の先生方が、自信を持って指導にあたれるようになるのは、難しいだろう。


 通常だと、学校の先生は指導マニュアルを利用して、子供たちに授業を行っている。
しかし、東日本大震災が発生し、福島第一原子力発電所から放射性物質が拡散し、人々の放射線不安が高まっている中での授業のスタートである。


 現実に高い放射線レベルの地域があり、食品の規制もあり、その中で、何を支えに先生方は指導すればよいか悩んでおられる。
時として保護者からは、「少しでも放射線はあってはならない」、「僅かでも危険で、がんのリスクは避けられない」とも言われる中でだ。


 サイエンスの世界を逸脱してしまった議論が巷の常識にもなりつつある昨今である。
自然界にもある放射線の中で、人類は発生している。
教育の上では、ただ怖がるのではなく、客観的に科学的に扱って頂けるように、もっともっと支援が必要なのではないのか。



サイエンスライター 高岡章喜
この記事は2012/10/30
の電気新聞に掲載されたものです


  各国が気候変化に取組む努力の基本的原則は「共通だが差異ある責任と能力」である(UNFCCC(気候変動枠組条約) 第3条)。


 この原則はUNFCCC COP1(第1回締約国会合)で採択されたベルリンマンデートで具体化し、附属書Ⅰ国(先進国)が温室効果ガスの定量的削減目標を約束する一方、非附属書Ⅰ国(途上国)は削減義務を負わない道筋が作られた。
「差異ある責任のみ」が強調された結果である。


 この「共通だが差異ある責任とそれぞれの能力」は米国が京都議定書から離脱し、一方では、主要排出国である中国やインドが削減の義務を負わずに済む口実を作った。


 現在、UNFCCCの交渉は2つのトラックで進められている。
ひとつはAWG-KP(京都議定書の下におけるアネックスⅠ国のさらなるコミットメントに関する作業部会)、もう一つはAWG-LCA(気候変動枠組み条約の下で長期行動に関する作業部会)である。
COP18が11月末/12月はじめにドーハ(カタール)で開催されるが、2つのトラックはどうなるのか?


 京都議定書第1約束期間は2012年で終了する。
AWG-KPのトラックでは第2約束期間が2013年から2017年/2020年までと合意されたが、詳細なルール等はまだ不明である。カナダは脱退し、日本及びロシアは第2約束期間には参加しない。
京都メカニズムは継続されるが、CDM(クリーン開発メカニズム)は、カーボン市場が低迷する中で危機的状況である。


 AWG-LCAは2012年のCOP18で役目を終える。
コペンハーゲンアコード(COP15,コペンハーゲン)ではUNFCCCの正式な合意でないにせよ、中国及びインドをはじめとする非附属書Ⅰ国(途上国)が温室効果ガスの自主的削減を約束した。
これは交渉の歴史での新たな地平であり、カンクン合意(COP16,2009年)、 ダーバン合意(COP17, 2011年)へ引き継がれた。


 さらに、COP17では「…applicable to all parties すべての国・機関に適用できる」ユニバーサルな法的拘束力をもった合意を策定することが採択され、AWG-DPFA(強化行動のためのダーバンプラットフォームに関する作業部会)が設置された。


 AWG-DPFAのテキストには国々を附属書Ⅰ国と非附属書Ⅰ国に分ける表現は見られない(Decision1/CP.17)。


 ドーハで開催されるCOP18では「共通だが差異ある責任と能力」という亡霊を振り払い、すべての国に適用できる新たな枠組みに向かうことができるのであろうか?



サイエンスライター 新井隆介
この記事は2012/10/23の電気新聞に掲載されたものです


 岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」があの大津波を受けてなお1年半生き延びてついに枯れ死し、モニュメントとして第2の生を全うすることになった。


 古来人間は森林に象徴される自然の中に生きつつ技術を創り出し文明を発展させた。
しかしそれは自らの生の基盤である自然を傷めつけざるを得なかった。
森林(自然)と都市(文明)のせめぎあいは、かつての森の国英国で見れば、中世ロビンフッドが活躍したシャーウッドの広大なオークの森が文明の発展と共に伐採され、王の猟場や家畜の放牧地、羊毛産業のための牧場、さらに国の海外発展のための船材供給源、製鉄用燃料、鉄道の枕木に使われて急速に縮小していった例に見られる(「森のイングランド」川崎寿彦氏)。
 

 自然と文明の葛藤はギリシャ神話のゼウス(自然)と彼から「火」を盗んだプロメテウス(文明)の葛藤に象徴され、自然を司る暴君ゼウスによってプロメテウスは鎖につながれた。
しかし近世の文明の世ではプロメテウスは賞賛されてきたという。
これは自然を人知によって飼いならしてきた西欧の精神と技術の発展のすばらしさを意味しているのだろう。


 だがプロメテウスからもらった「火」(文明、技術)によって地球上に跋扈してきた人間は、プロメテウスに感謝しつつも文明・技術のその後の野放図な発展に戸惑い、その挙句文明の担い手である人間自身が文明に疎外される危機に向き合うことになったのではないか。
そして今、原子炉事故に直面してその「火」の使い方に深刻な反省と新たな方向を模索せざるを得なくなった、ということであろう。


 自然の象徴としての英国の森の変遷を見ると、どうも英国では近世以降、森を「人間のための資源の供給源」という視点しかないように見える。
英国に比べてわが国は台風・地震・津波・洪水・火山や雷など自然の猛威は格段に大きい。
しかし日本人は豊かな森を資源として利用しつつ「里山」のように森と賢く共存する形でこれを維持・再生してきた。
その一方、絶え間なく襲ってくる気まぐれな自然の猛威に対しては防潮林・防砂林・防風林・防雪林などを工夫して、森に生活を守ってもらってきた。
ここに西欧と異なる日本人の森や樹木に対するシンパシー(共感)があるように思われる。
 

 あの大津波に対して人間が長年月精魂込めて育てた広大な防潮林が人間に代わって立ち向かってくれた、その象徴があの雄雄しくも無残な姿の「奇跡の一本松」だ。
それはまた一方で、自然に対する人知の浅さを思い知らされることになった。どうすればよいか。
その解のひとつが「自然と対峙する技術」から「自然への畏敬と互譲の技術」に転換することではないか。
原子力技術も例外ではない。



サイエンスライター 世野和平
この記事は2012/10/16の電気新聞に掲載されたものです

 私事ではあるが、現在筆者はある大学で非常勤講師として、初年度の学生に地球環境とエネルギーについて講義しているところだ。
大学に入ったばかりの初々しい学生が相手なのであるが、毎年、気になるところがある。
それは火を使ったり、ナイフを扱ったりした経験の乏しい学生が相当数いることである。
つまり子供の頃に危険なことをしてはいけないという教育が行き届いた世代であるということである。


 さてTEDコンファレンスという米国発の講演会があってネット上でその動画が提供されている。
TEDはTechnology Entertainment Designの略であるが、基本的には広める価値のあるアイデアを社会に紹介していこうという米国の私的なグループの活動である。
私的な活動ではあるものの、クリントン元大統領やゴア元副大統領もここで講演したことがあるので、ただならぬ活動であると言える。
TEDには教育関連の講演も数多く行われているが、つい最近「子供にさせるべき5つの危険なこと」という講演の動画を見つけて、講演者のゲーバー・タリーが、筆者と同じことを考えているのを見つけて我が意を強くした。
もちろん彼は考えだけではなく、子供向けのサマースクールを通じて彼が子供に必要と考える体験をさせているという実践の人である。


 彼は講演の中でユーモア混じりにかつ聴衆の反発を受けないように注意深く、子供には大人が危険であるとして、子供たちをそれから遠ざけるような経験を、逆に経験をさせるべきであると提案している。
彼はその例として、「火を使って遊ぶこと」、「ナイフを持つこと」、「槍を投げること」等を挙げている。
彼はこれらの体験によって危険への対処の仕方を知ることができると言っているが、これらを体験することによってリスクを負いながらも、子供たちは自然の基本的な力をコントロールする技を学び、また自分自身の力を拡大する方法を学び、そして三次元的な認識と問題解決能力を学ぶことができるとも言っており、筆者は後者こそ彼が言いたいことではないのかと考える。


 彼の教育が意図する通りの成果を上げているとすれば、子供時代に火で遊んだこともなく、ナイフを扱ったこともなく、ボール以外のものを投げたことのない人間は、自然の力と人間の力の関係や、人間の力を拡大する技術とそのコントロールについて、本質的な理解が薄くなる。
すなわち人間の力を拡大する技術を本能的に忌避する傾向を持つようになるのではなかろうか。
我が国においてそのような人々が必ずしも少数でないとすれば、科学技術に係る何かの問題の起こる度に、それは人間には制御不可能だとしてこれを否定する声が高まることがあっても不思議ではない。


サイエンスライター 朝田培九
この記事は2012/10/9電気新聞に掲載されたものです

 年間5000人もの方が亡くなる交通事故は、昭和の時代から比べると三分の一程度に減少したものの、悲惨さは増している。
なぜなら、その多くが運転者自身ではなく、他人がぶつかって起きる事故であるからだ。


 ニュースによると、渋滞で停車している車にノーブレーキでの追突。
車線のはみ出しや逆走による衝突。
飲酒や薬物などの判断できない状態での暴走。
携帯電話やタバコに気を取られた操作の遅れ。
無免許など無資格者の運転。
いずれも今の技術で何とかならないものかと思う。


 そんな折、あるメーカーの先進的な安全対策が施されている市販車の説明を受けた。
それによると、レーダーで前方を監視していて車や人と衝突しそうな時には自動停止する。
ウインカーを出さずに車線をはみ出すと警告ランプと警報が鳴る。
左右の後方から車が近付くと注意ランプや警報が鳴る。
クルーズコントロールが進化して一定の速度ではなく設定速度以下で前方の車に追随する、などである。
しかも各メーカーがこれらの機能を競って装備し始めている。


 さらに自動車メーカーは、現在の技術を駆使した様々なアイデアを提案している。
例えば、ICカード化された免許証を車が認証しないと運転できない。
ハンドルを持った人の呼気からアルコールを検知する。
オンボードカメラから運転者の目を監視して居眠りを知らせる。
すぐにでも実現できそうな技術が磨かれてきている。


 運転者にとって、上記機能があったら事故を回避できたのだが、という経験は少ないかもしれない。
前述の市販車の安全装置は数十万円の価格上昇につながり、いざ購入と言う段階でちゅうしょしてしまう。


 今、都市部以外では、郊外のショッピングモール、幹線道路沿いのスーパーに客を奪われ、近隣の商店は閉鎖されてしまった。
また、遠方への移動についても公共交通機関はどんどん寂れ、通学時間帯以外は皆無に等しくなった。
すなわち歳とっても運転免許を維持しなければ、暮らしが成り立たない。


 かつて車を持ちたいと思った団塊の世代が、高齢者の仲間入りを始めた。
これから第二の人生をという時に、交通事故によって他人の人生を狂わせることだけは避けたい。
そのためにも、大型トレーラーから軽トラに至るまで、全ての車の対人・対車の安全装備を義務付けてはいかがだろうか。


 東日本大震災によって、人命の尊さを改めて認識することとなった。
自分の命の大事さを訴える以上に、他人の命を脅かす原因の削減に関心を持ちたい。
そのためにはリスクに対する判断力を養いたいことと、科学技術の追求によって、リスクを低減できることも学んでいきたい。


サイエンスライター 高岡章喜
この記事は2012/9/25
の電気新聞に掲載されたものです