カタールのドーハで開かれていたCOP18が12月18日に閉幕した。
会議では、京都議定書を来年以降も継続することを決議し、2020年に各国が参加して発足する新体制に向けた作業計画を進めることになった。
この延長された京都議定書の下で、2020年までは欧州連合(EU)やノルウェー、スイスなど一部の先進国が温室効果ガスの削減義務を負うことになったという。
しかし、これらの国々の排出量は世界の15%にしか相当しない。
つまり、削減は先送りされたということだ。


 このCOP18に合わせて、世界銀行が「地球を冷ませ:なぜ4℃の温暖化を避けなければいけないのか」(訳は筆者)と題するレポートを出した。
レポートはこのまま手を打たないと早ければ2060年代に産業革命以前に比べ地球の平均気温は4℃上昇すると述べる。
勿論、この話は随分と以前から科学的見地から云われていたことで新味はない。
しかしこのレポートの真意は、嘗ての目標であった気温の上昇を2℃以内に収めようという努力が水泡に帰したということであり、また有力な世界経済のステークホルダーである世界銀行が、科学的事実を明らかに認めたという事である。


 以前にもこのコラムに書いたように地球大気の炭酸ガス濃度は400ppmに達し、現在も順調に増加あるいは増加は加速している。
同時にCOPが18年の長きにわたって重ねてきた炭酸ガス放出削減のための議論は、愛は地球を救うというかけ声がさっぱり地球を救わないように、さっぱりその効果が見えず、むしろ後退していると云わざるを得ない。
このような話に対しては人類の崇高な努力を嘲るものだという意見もあると思われるが、仮に人類と無関係な宇宙人がこの20年間の人間活動を宇宙から眺めていれば、人類が炭酸ガスの放出を止めようとしたことなど一度もなく、この後数十年も同様であろうと推測するのに無理はないであろう。


 ところで、選挙に話題が集中していたせいか、COPの結果、つまり危機は遠くない、という話がマスコミで大きく取り上げられた気配はなかったようだ。
選挙の結果はこのコラムを読者が目にする時には明らかになっていると思われる。
立候補者の中に地球温暖化を危惧していた人があったとは思えないが、どのような選良が選ばれるにせよ、引返しの出来ない地球温暖化の出現までにそれほど時間があるとも思えないので、地球温暖化とエネルギーと資源の三者について、考えを張り巡らせつつ、我が国の行く先を考えてほしいものだ。
その場合、世界というクローズしたシステムを考慮した上で日本の在り方について考えるとよいと思われる。
クローズしている故に日本の在り方は限定されるから考える範囲も狭めることができるからだ。



サイエンスライター 朝田培九
この記事は2012/12/18電気新聞に掲載されたものです

 選挙戦が始まった。
多くの党派が生まれ離合集散が行われ、かろうじて同じような主張の集団が最終的にまとまって選挙戦に挑んでいる。
今回の選挙は、3.11以降の日本の将来を決める上で、とても重要な選択であると思っている。


 なぜなら、エネルギー産業ばかりでなく、日本を代表するような企業の身売りや、部分倒産がニュースで流れる時代である。
そして、毎日のように、雇用不安定、失業者と生活保護者の増加、高齢者への負担増、震災の未復興、などなど国家的存亡の危機の中に置かれているのが日本である。


 誰がどういったシナリオを描いて、この危機から脱出する手立てを考えるか、そして歯をくいしばってついて行く国民がどれだけいるかが、将来の日本を決めると言っても過言ではないであろう。


 選挙戦で聴こえてくるのは、耳触りのよい綺麗事が多い。
本当に実現できるの?と疑問を持たざるを得ない。
例えば、消費税の増加をやめると言っても、どうやって国の赤字を削減するかが見えてこない。
TPPを嫌がっても、国際社会の中でどうやって生き抜いていくかが見えてこない。
原子力をやめると言っても、代替エネルギーをどうするかが見えてこない。


 鎖国をしていた遠い昔の時代は、独自の路線で生きることも可能であったかも知れない。
なぜなら、その時代には必要とするエネルギー資源も食糧も、何とか国産で間にあっていたからである。
今は、エネルギー資源だって自給率は水力の4%に過ぎず、食糧だってカロリーベースで40%に過ぎない。
すなわち国際社会との連携なしでは成り立たない国なのである。
しかもカロリーベースとは、摂取カロリーの事で、生産国で必要な太陽や雨の恵みや環境負荷は、含まれていない。


 きっと誰かが解決してくれる、○○が悪いからこうなったのだ、自分はだれにも迷惑をかけていないから、などの言葉が正当化され、当たり前になった日本である。
本当にそれで良いのであろうか。
もっともっと自分の責任で物事を解決するだけの国民でありたい。


 特に電気事業と言う国の存亡の根幹を担っている人たちは、科学的にも経済的にも、自ら思うところ発言し、綺麗事や他人事では済まないことを伝えてほしい。


 九電力生みの親である故松永翁は、こんな時代に何と言ったであろうか?
電力不足の時代に電気料金を値上げしてまで火力発電所の建設を強行し、十分な電力供給によって産業力を高めた人である。


 時が来れば国民の理解が進むだろうと沈黙を保つことは許されない。
その道を熟知している者として、その業界の中で飯を食ってきた人として、人心を正しく将来に向けて導く責務があろう。


サイエンスライター 高岡章喜
この記事は2012/12/11の電気新聞に掲載されたものです

 CDM(クリーン開発メカニズム)は、京都議定書の下での温室効果ガス削減メカニズムの一つである。
この仕組みは、先進国が途上国で温室効果ガス削減プロッジェクトを実施した場合に削減量に応じたCERs(認証排出削減量)クレジットを獲得することができる。
CERsは売買・取引ができ先進国は京都議定書の下での自国の排出削減目標の達成のために用いることができる。
運用開始から今までCDMプロジェクトは年々増加し、登録数は78カ国4,601件に達し、10億のCERsクレジット(CO210億トン相当)が発行されている(FCCC/KP/CMP/2012/3(PartⅠ))。


 しかし、9月にCDMポリシーダイアログに関するハイレベルパネル(2011年設立)は、CDMと炭素市場の将来に向けた報告書を刊行し、グローバルな炭素市場の崩壊に言及し、CDMは危機的状況に直面しており、京都議定書参加国が削減目標を実質的に引き上げることが急務であるとし、12の分野・51項目のリコメンデーションを出した(CLIMATE CHANGE,CARBON MARKETS AND THE CDM:A Call to Action)。


 CDMのクレジットであるCERの市場価格(スポット価格 BlueNext)は2011年に約12ユーロであったが、今や、約2ユーロに下落した。CDMプロジェクトとCERs価格は先進国の需要で決まる。
今まで発行されたCERsは約80%がEUETS(EU排出枠取引スキーム)で取引されている。
 

 だが、ヨーロッパは2009年以後景気後退が長期化し、経済成長が鈍化し、第2フェーズのEUETSは排出枠の余剰を生じており、これは第3フェースへ持ち越される。
今、EUETSでEUA(EU排出枠)のスポット価格は7、8ユーロに低迷したままである。
2013年以後の新たなCDMクレジットの需要はほとんど見込めないのである。


 どうすればよいか?CDMのクレジット需要の創出である。
まず、はっきりすべきは、京都議定書である。
第二約束期間が合意されたが、2017年までか2020年までかはっきりしない。
参加国はどこで、排出削減目標はどうなのか?CDM救済にはさらなる野心的排出目標が必要だ。
しかし、すでに排出削減目標を掲げている国々がそれ以上野心的にするとは考えられないが?
CDMのさらなる制度改革・合理化も必要であろう。


 いずれにせよ、CDMというオフセットメカニズムがスムーズに機能し、本来の目的である経済的効果のある温暖化緩和策として機能するためにはクレジットの需要側の問題を解決することが先決である。
ダーバン合意に基づく新たな市場メカニズムの制度が構築中であるが、まずはこの需要不足の問題解決が先である。


サイエンスライター 新井隆介
この記事は2012/11/27の電気新聞に掲載されたものです

わが国の原子力技術の開発を社会との関わりから大雑把に捉えると、初期には原子力を直線上に置いて国や専門家など関係者が自らその上に目標を定めてあたかも遮眼帯をされた競走馬のごとくまっしぐらに走る、いわば「一次元」的な構造だった。
この段階では社会とのやり取りは乏しかった。


 それが発電所など原子力施設の立地段階へと発展すると、原子力には原子力関係者と地域住民との間の面的な広がり、さらにチェルノブイル事故のように国境を超えた空間的な広がりが出てきた。
原子力が「二次元」的構造になった。この段階でも原子力に真剣に向き合ったのは、基本的にはその次元の中で原子力の利害に直接かかわる人々と原子力関係者に止まり、一般的・全国的には原子力は他人事であり、自分のこととして考えるには到らなかった。
ここで言う「次元」は物理学的な座標軸とは違った意味であることをお許し願いたい。


 しかし3.11大震災と原子力事故によって、それまで「原子力に利害関係を持つ人々の領域の中のみ、あるいは国内に向けた視点のみ」に止まっていたわが国の原子力は一気に「社会化、国際化」された。
それは、わが国の原子力が人間の文化・文明の中で評価され、歴史の中でわが国の将来像にきわめて密接にかかわるもの、と認識され始めたことといえよう。
いわば原子力が「時間軸を含む多角的・多面的要素という軸」を加えた「三次元」的な構造の中に位置づけられたといえる。


 このように考えると経済の国際化がますます進みつつある一方で偏狭なナショナリズム等が支配する「国や地域」も厳然として存在する中で、狭い国土に1億2千万の人口を抱える天然資源小国日本、外交力・自衛力に問題無しとしないわが国のおかれた地政学的・国際政治的な立場に改めて気づかされたのが、3.11ではなかったか。


 しかし残念なことに社会の大方は、政治・マスメディアを含めてあたかも「原子力無ければすべてよし」とばかりに脱原発一直線だ。
初期の頃の原子力関係者のわき目も振らぬリスク含みの「一次元」思考に先祖がえりしたようだ。


 市民民主主義社会に移行しつつある現在、「住むに値する」日本を造り上げる使命は議会制民主主義の下での市民・国民の手に委ねられている。
3.11を契機に社会全体が技術に依存する社会的リスクへの合理的で公正な平衡感覚を育てることは、次世代に向けての現世代の不可欠の役目であろう。


 言うまでもなく先進文明国は低廉・安定な電力とそのためのエネルギー資源に支えられる。
明治文明開化以来電気事業者は安定需給の責務を負って原子力にたどり着いたが、3.11の衝撃は電力・原子力に急激な変革を迫っている。
拙速はわが国社会の劣化につながる危うさを内在することになる。
 



サイエンスライター 世野和平
この記事は2012/11/20の電気新聞に掲載されたものです

 以前にも拙稿で述べたが、現在筆者はある大学で非常勤講師として、初年度の学生に地球環境とエネルギー問題について講義しているところだ。
講義はいわゆる板書を中心とした座学と学生諸君がグループに別れての学習のセットから構成されている。
座学では、彼らが中年を迎える頃には、これらの問題が眼前の脅威となる可能性の高いことを示し、グループワークでは彼ら自身の問題として、これらについて考えてもらおうというのが全体の眼目となっているのだが、毎年、気になるところがある。


 グループワークの肝心なところ、つまり、リーダーとメンバーの関係やリーダーの決断、メンバーとしてのアクティビティなど、どうも、どの学生諸君にとっても初めての体験であるらしい点だ。
つまりグループの組織化であるとか統率であるとか、方向性を決めるための議論と意思決定であるとか、結果としてのチームとしてのパフォーマンスであるとか、についての概念に彼らが馴染んでいるとは全然思えないことだ。


 当然のことながら彼らには何の非もない。
ただこの類いの経験や学習をしてこなかっただけである。
どうも世の中を見ると、我が国ではこれらを排除したシステムが再生産されて定常状態に達している、つまり庶民から国の指導層までこの状態にあるのではないかと疑わざるを得ない。
国の大宗であるエネルギーについて、将来の電源比率のアンケート結果をそのまま採用してしまうような政治指導層が存在するというのも、これを裏付ける事実ではないのか。
問題は、エネルギーと資源が潤沢に供給される世界であればこのシステムには何の問題もなかったのだが、その環境が変わりつつあるという点にある。


 こういう状態を作ったのはもちろん教育システムに遠因があると推定されるのであるが、今ひとつすっきりと理解できない。
そこで、すこし考えを巡らせてみると、イングランドの教育と社会階層を物差にして我が国を見てみるとよいかも知れないと思いついた。
イングランドにはアッパークラスが現在も存在し、指導層と重なる部分が大きいことがよく知られているが、このアッパークラスの教育が、公と私という関係を鋭く問うことを基盤に、グループの統率であるとか議論であるとか、意思決定であるとかということを教えるものであるようだ。


 これと比較すると、なるほど、我が国における全ての教育と呼ばれるものが、イングランドでいう非アッパークラスに対するそれであることが分って、現在の我が国の状況もなるべくして成ったことに得心がいき、未来もまたこの非アッパークラス的な協調と、なりゆきで選ばれた誰かへの丸投げで決まるのであろうと予測せざるを得ない。


サイエンスライター 朝田培九
この記事は2012/11/13電気新聞に掲載されたものです