今週のワンポイントは「侍の別当」。
房総で再挙を期す頼朝たち。そんなときに和田義盛が、自分を「侍の別当」にしてくれ、と言い出す。このエピソードは、鎌倉幕府の正史として編まれた『吾妻鏡』という史料に出てくるし、義盛はのちに幕府の「侍所別当」というポストに任じられているから、三谷氏の創作ではなく、本当の話である。
ここで、教科書に載っている鎌倉幕府の組織図の中に「侍所(さむらいどころ)」という機関があったな、と思い出した人もいるだろう。では、「侍の別当」とか「侍所別当」とは何なのか?
まず、「別当」というは部局の長のこと。
次に「侍所」だが、実は鎌倉幕府の「侍所」が具体的にどんな業務を担当していたのか、よくわかっていない。史料にあまり出てこないのだ。ただ、「侍所」というのは、もともとは偉い人たちを警護する侍たちの詰め所のことを指していた。
だから、幕府の「侍所」は、字ズラからいえば「幕府警備局」みたいなもの、ということになる。実際には、御家人たちを軍事動員するときの差配なんかも、侍所の仕事だったようだ。幕府軍務局、みたいな感じか。
ただ、ここで和田義盛が持ち出した「侍の別当」は、そんな大げさな話ではない。だって、この時点では頼朝も義盛も、自分たちが鎌倉幕府を創ることになるなんて、思っていないもの。
この先うまく勢力を盛り返したら、いろいろな武士たちが集まってくる。そうすると、彼らが当直につくためのシフトが必要になってくるから、その主任にしてくれ、くらいな話なのであろう。もっとも、武闘派の義盛は書類仕事は苦手だから、シフト表を作って皆に配ったりするつもりなんか、なかっただろうが。
結果的に頼朝たちは盛り返しに成功して、鎌倉に入って政権を創りあげたので、シフト調整主任だった和田義盛の権限も大きくなって、初代侍所別当=幕府軍務局長みたいな図式になっていったわけだ。
このあたりの成り行き的な話が鎌倉幕府の本質に関わってくる、というあたりが歴史の面白いところなのである。
(西股総生)
《ワンポイントイラスト》
一番最初に名乗ったものがいいポジションを確保できるのだ!!和田義盛、一番乗り~!!
(みかめゆきよみ)