みなさんは誇張法という言葉を聞いたことがありますか。『日本国語大辞典』(精選版)では「修辞法の一つ。事物を過度に大きく、または、小さく形容する表現法」と定義されています。

これはもともと英語のhyperboleから来ていて、研究社の『新英和大辞典』(第6版)にはHe scolds me a thousand times a day.(彼は私を1日に千回叱る)という例が挙げられています。

ふつう、人が別の人を1日あたり叱る回数は、多くても数十回なので、一般的なイメージでは1日あたりの叱る回数の尺度は、数十回のところを最大値(上限)としてそこで終わっています。

おおよそそういった尺度上あり得ない「千回」という数値を挙げることによって、上の英文の発話者は、彼がいかに多く自分のことを叱るのかを誇張して言っています。

つまり、誇張というのは、本来存在するはずの尺度の上限をはるかに越えた数値や例を挙げることによって、主張を強調する方法なのです。

『エロマンガ先生』の中で出て来る、このような誇張法の有名な例は、千寿ムラマサが和泉マサムネに、自分の小説を自己採点するよう求めている以下の場面に出て来ます。

「質問を変えよう。君は、自分の書いた小説に、一〇〇点満点で、何点つける?


とても難しい質問だった。同時にきわめて簡単な質問でもあった。
「一〇〇点だ」
即答した。実際のところ、たとえば打ち切られてしまった作品など―迷いがないわけじゃなかったが、いつだって俺は、胸を張って満点と答える。
面白いと言ってくれた人がいるからだ。
「あなたは? 」
ムラマサは、エルフにも聞いた。
「一〇〇点よ。トーゼンでしょ」
「私も同じだ。自著の自己採点は常に一〇〇点に決まっている―作者なんだからな。だが、私が、初めて読んだファンレターには、こう書かれていたよ
「『一〇〇点満点中、一〇〇〇〇〇〇点くらい面白かったです!』」


「『人様からもらった手紙は読め』と家族に言われて、渋々目を通しただけだったんだが……びっくりした。私の書いた一〇〇点満点の小説に、一〇〇〇〇〇〇点をつけるやつがいるんだ。そして思い出した。『そういえば、私がいままで読んだ中で、一番面白かった小説は、一〇〇〇〇〇〇点くらい面白かったなあ―』」
(伏見つかさ『エロマンガ先生2―妹と世界で一番面白い小説―』電撃文庫,2014年,pp. 293-294)
[アニメ版では第7話 妹と世界で一番面白い小説のBパート]

この場合、「一〇〇点満点」とはっきり言っているので、尺度は〇点から一〇〇点の間しかありません(下限が〇点、上限が一〇〇点ということです)。

ところが、それにファンレターの中で一〇〇〇〇〇〇点付ける読者がいてびっくりしたと千寿ムラマサは主張しています。

この場合、尺度は一〇〇点までしかないので、一〇〇〇〇〇〇点というのは尺度上に存在しない値、つまり真にはなりえない、絶対に偽である値なのです。

そのため、「偽と信じていることを言わないこと」という「質の公理」に必然的に違反することになります。

でも、尺度上にそのような値が存在しないことは明白なので、これは嘘だとバレバレの形で言うことによって、実際には「すごい高評価である」ことを伝えています。

このような言い方は、誇張であると同時に、現実には存在し得ないことを言っているため、現実とのずれを生じさせ、笑い・ギャグへとつなげるはたらきもしています。

同様の例として、ラノベ版の以下のような台詞を考えてみましょう。

山田エルフは、和泉正宗に下で待っていてくれと言われますが、しびれを切らして和泉正宗と紗霧ちゃんのいる部屋に突入します。

その際の台詞が、アニメ版では単に「遅っそ―い! いつまで待たせんの!」となっているのですが、ラノベ版では「このわたしを何年待たせるつもりなのよ!」という誇張法になっています。

「遅っそ―い!」
闖入者の叫びが、それを完全に打ち消した。
「!~!」
紗霧は、声の主を確かめることさえなく飛び上がり、布団の中へともぐりこんでいく。
俺は、妹の感触が残る掌を一瞥し、それから闖入者―エルフへと向き直った。
「……毎回毎回、絶妙なタイミングで登場するよな、おまえは」
あのままなで続けていたら、なんとなく取り返しのつかないことになっていたんじゃないかという気がするので、エルフの闖入はよかったのかもしれん。
エルフは、さっきの落ち込みっぷりが嘘のような快活さで、腕を組んだ。
「こらあ、マサムネ! このわたしを何年待たせるつもりなのよ! エロマンガ先生への報告は終わったの!?」


(伏見つかさ『エロマンガ先生2―妹と世界で一番面白い小説―』電撃文庫,2014年,pp. 254-255)
[アニメ版では第7話 妹と世界で一番面白い小説のAパート]

この場合、人を階下の部屋で待たせる時間の尺度というのは、常識的に考えて〇分から数時間までの間しかありません。つまり上限はせいぜい数時間なのです。

ところが待たされ続けてしびれを切らした山田エルフは、そのような尺度の上限をはるかに越えた「何年」という期間を述べて、待たされ続けたことを誇張しています。

この場合もやはり、現実には存在し得ない、現実とずれたことを言っているため、笑い・ギャグ的な印象を受けることになります。

 

このように誇張するということは、結局、物事を一ひねりした言い方によって伝えていることになりますが、ひねることによってふつうとのずれを作り出し、笑い・ギャグへとつなげていると考えられます。

最後に、同じ尺度でも、質の公理の違反ではなく、様態の公理の違反となっている例を考えます。

これに関しては、尺度がもう少し抽象的になっている例を見てみましょう。紗霧ちゃんの「部屋を出たら負けだと思っているわ」という有名な台詞です。

「くぅっ……床をどんどんしてもご飯が来なかったときの絶望……兄さんにわかる?」


当時のことを思い出してしまったのか、紗霧は涙目になっている。
「メシくらい部屋出て食えよ」
部屋を出たら負けだと思っているわ


「名言っぽく言っても、ちっともカッコよくないからな」
働いたら負けというあの台詞よりも、さらにダメ度がアップしている
(伏見つかさ『エロマンガ先生―妹と開かずの間―』電撃文庫,2013年,pp. 75-76)
[アニメ版では第1話 妹と開かずの間のBパート]

ラノベ版では「働いたら負けというあの台詞よりも、さらにダメ度がアップしている」と地の文による興味深い注釈がついています。

ここで、ヒキニート度(=ダメ度)の尺度というものを想定してみましょう。

すると、最大限にヒキニートな場合、「部屋を出る」ということすらしないのに対して、もう少しヒキニート度が弱い場合、部屋からは出ますが、家を出て「働く」ことはしません。

つまり、ヒキニート度(=ダメ度の尺度上では、「部屋を出たら」>「働いたら」という関係が成り立ちます。

そのため、「部屋を出たら負け」だと言っている紗霧ちゃんは、「働いたら負け」と有名な台詞を言っている人よりも、さらにヒキニート度(=ダメ度)が高いと結論づけることができます。

「部屋を出たら負けだと思っているわ」という台詞自体は、ふつうに言えば「部屋を出たくない」となるところを「不必要に冗長な言い方」にしているため、「様態の公理」の違反になります。

これは、「働いたら負け」という台詞が、「働きたくない」の「不必要に冗長な言い方」であるのと同じことです。

この台詞はおそらく、「笑ったら負け」のような台詞を、働くのが嫌なニートが一ひねりした言い方として使い始めたものだと考えられますが、ひねるということは、様態の公理にわざと違反して、ふつうとのずれを作り出し、笑い・ギャグへとつなげることなのです。

こうした観点から考え直すと、この台詞はなかなか興味深いものだと言えます。ちなみに、ヒキニート的気質をもつ私は、この「部屋を出たら負けだと思っているわ」という台詞が大好きです。