[動画]比大統領主催晩餐会での天皇陛下のお言葉全文  フィリピンの国民的英雄「ホセ・リサール」  | taroozaの不思議の謎解き 邯鄲(かんたん)の夢

taroozaの不思議の謎解き 邯鄲(かんたん)の夢

☆BLOGの話題は、精神世界とリアルな現実世界の話題です。
巡礼の旅で、危機に瀕する日本を感じました。
未来の孫たちへ、「日本人の霊的遺伝子」を繋げる責務が、今の世代にあります。



(全録)天皇陛下、フィリピンでの晩さん会でお言葉述べられる
https://youtu.be/aVWI-twPq-g




2016/01/27 に公開
フィリピンを公式訪問中の天皇皇后両陛下は、日本時間27日夜、大統領主催の晩さん会­に出席し、陛下は「フィリピンの多くの人が命を失い、傷ついたことは、決して忘れては­ならないこと」と述べられた。(全録)



【保存】

■比大統領主催晩餐会での天皇陛下のお言葉全文
読売新聞 1月28日(木)11時40分配信

 27日に行われたフィリピン大統領主催の晩餐(ばんさん)会での天皇陛下のお言葉全文は次のとおり。

  貴国と我が国との国交正常化60周年に当たり、大統領閣下のご招待によりここフィリピンの地を再び踏みますことは、皇后と私にとり、深い喜びと感慨を覚えるものであります。今夕は私どものために晩餐会を催され、大統領閣下から丁重な歓迎の言葉をいただき、心より感謝いたします。

  私どもが初めて貴国を訪問いたしましたのは、1958年12月、ガルシア大統領ご夫妻が国賓として我が国をご訪問になったことに対する、昭和天皇の名代としての答訪であり、今から54年前のことであります。1962年11月、マニラ空港に着陸した飛行機の機側に立ち、温顔で迎えてくださったマカパガル大統領ご夫妻を始め、多くの貴国民から温かく迎えられたことは、私どもの心に今も深く残っております。この時、カヴィテにアギナルド将軍ご夫妻をお訪ねし、将軍が1898年、フィリピンの独立を宣言されたバルコニーに将軍ご夫妻と共に立ったことも、私どもの忘れ得ぬ思い出であります。


  貴国と我が国の人々の間には、16世紀中頃から交易を通じて交流が行われ、マニラには日本町もつくられました。しかし17世紀に入り、時の日本の政治を行っていた徳川幕府が鎖国令を出し、日本人の外国への渡航と、外国人の日本への入国を禁じたことから、両国の人々の交流はなくなりました。その後再び交流が行われるようになったのは、19世紀半ば、我が国が鎖国政策を改め、諸外国との間に国交を開くことになってからのことです。

  当時貴国はスペインの支配下に置かれていましたが、その支配から脱するため、人々は身にかかる危険をも顧みず、独立を目指して活動していました。ホセ・リサールがその一人であり、武力でなく、文筆により独立への機運を盛り上げた人でありました。若き日に彼は日本に1か月半滞在し、日本への理解を培い、来る将来、両国が様々な交流や関係を持つであろうと書き残しています。リサールは、フィリピンの国民的英雄であるとともに、日比両国の友好関係の先駆けとなった人物でもありました。

  昨年私どもは、先の大戦が終わって70年の年を迎えました。この戦争においては、貴国の国内において日米両国間の熾烈(しれつ)な戦闘が行われ、このことにより貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、この度の訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでいます。

  貴国は今、閣下の英邁(えいまい)なご指導のもと、アジアの重要な核を成す一国として、堅実な発展を続けています。過ぐる年の初夏、閣下を国賓として我が国にお迎えできたことは、今も皇后と私の、うれしく楽しい思い出になっています。


  この度の私どもの訪問が、両国国民の相互理解と友好の絆を一層強めることに資することを深く願い、ここに大統領閣下並びにお姉上のご健勝と、フィリピン国民の幸せを祈り、杯を挙げたいと思います。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160128-00050127-yom-soci



  ---------------------------------------------------------------------------------            

ホセ・リサール



ホセ・リサール(José Rizal,1861年6月19日 - 1896年12月30日)は、フィリピン独立運動の闘士にしてフィリピンの「国民的英雄(Héroe Nacional)。医師、著作家、画家、学者でもあった。志半ばにして捕らえられ、スペイン軍の手で銃殺されたが、その意志は人々に受け継がれ、フィリピン独立の英雄として現在も愛され続けている。

リサールは1881年にアテネオ・デ・マニラ専門学校を卒業、翌1882年にサント・トマス大学医学部を修了した後、同年中にヨーロッパへと旅立った。1882年6月13日にマルセイユに、6月15日にバルセロナに到着した後、最終目的地であったスペインの首都マドリードに到着し、同年10月に国立マドリード大学の医学部と哲文学部の両学部に入学した。マドリード大学でリサールは猛勉強し、26歳までにスペイン語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、カタルーニャ語、中国語、英語、ドイツ語、オランダ語、スウェーデン語、ロシア語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、サンスクリット語などの諸言語を習得し、中国語、日本語、タガログ語、ビサヤ語、イロカノ語を研究していた。

リサールは「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン同盟)」を組織すべく活動した。ラ・リガ・フィリピナの思想的立場は急進的な革命を望むものではなく、スペイン治下のまま暴力を用いずに穏健な改革を望むものであったが、この方針をも危険視した植民地政府当局によってリサールは逮捕され、同年7月7日にフィリピン南部のダピタン(Dapitan、現在のサンボアンガ・デル・ノルテ州に位置する)へ流刑された。

1896年7月に流刑を終えた後、かねてから伝えていた軍医志望の旨が総督のラモン・ブランコに許可されたため、リサールはスペイン海軍の巡洋艦「カスティリア号」に乗り込み、任地のスペイン領キューバへと旅立った。しかし、船が地中海に入ったところで秘密結社カティプナンが独立闘争(1896年革命)を開始すると、上陸地のバルセロナで以前からリサールに目をつけていたスペイン官憲に逮捕された。スペインからフィリピンの首都マニラに送致された後、軍法会議にかけられ、同年12月26日に銃殺刑が宣告された。処刑の前の晩に妹に手渡した遺言代わりの辞世の詩は、後に『ミ・ウルティモ・アディオス(Mi Ultimo Adios,『我が最後の別れ』の意)』と名づけられ、彼の祖国への熱い思いを伝えるものとなっている。同年12月30日、リサールを一目見ようと集まったフィリピン民衆が見守る中、35歳にしてマニラで銃殺された。wikipedia



---------------------------------------------------------------------------------



『ミ・ウルティモ・アディオス(Mi Ultimo Adios,『我が最後の別れ』の意)』
ホセ・リサール(1896年)
翻訳;加瀬 正治郎氏

さようなら なつかしい祖国よ 大陽に抱かれた地よ
 夏の海の真珠 失われたエデンの園よ!
 いまわたしは喜んできみに捧げよう
 この衰えた生命の最もよいものを
 いや 生命そのものをささげよう
 さらに栄光と生気と祝福が待っているなら
 何を惜しむことがあろう


戦場にあって はげしい闘いのさなかにあって
 人々は生命をささげたのだ ためらい まどうこともなく
 そこがいかなるところでも ―糸杉 月桂樹
 白百合の生うるところ
 断頭台も広野原も 格闘も殉教の苦しみも
 それらはみな同じもの
 われらの家と祖国にささげられたもの

暁の光をのぞみ見て 私はいま死んでゆくのだ
 ほのぐらい夜をつきぬけ 昼の光へ導くために
 紅の色が乏しければ私の生命の血で染めよ
 なつかしい祖国のために私の血はみな注ぎつくそう
 黎明の光を鮮血の色に染めるため

私は夢みた はじめて生命のひらかれたとき
 私は夢みた 若き日の希望に胸の高鳴ったとき
 おお 東の海の宝石よ きみの晴れやかな顔をみる日を
 憂愁と悲しみよりとき放たれて
 きみの顔にかげはなく きみの眼に涙のない日を

わが生涯の夢 わたしの中の燃ゆるねがいよ
 すべて来れ! いま魂はとび去ろうとして叫ぶのだ
 すべて来れ! そしてきみたちが消えゆくことは美しい
 きみたちは消えてゆくことに憧れているにちがいない
 そしてきみたちの永遠の永い夜の胸にいだかれてねむれ

いつの日か わたしの墓の上の草むらに
 きみが一輪の花の咲いているのを見つけたら
 唇におしあて私の魂に口づけしてくれ
 地下の冷い私の額は
 きみのやさしさ きみの暖かい呼吸の力を感じよう

柔かな月の光を私の上に注がしめよ
 暁のきらめく光を私の上に輝かしめよ
 悲しい風の嘆きのうたを私の上にうたわしめよ
 私の墓の十字架の上に一羽の小鳥のくるのを見たら
 平和のうたをうたわしめよ
 大陽をして空に水蒸気を立上らしめよ

そして清らかな天に向かって私の反抗を立上らしめよ
 だれか心やさしい人あらば 私の非業の運命を嘆いてくれ
 そしてしずかな夕ぐれに祈りをあげてくれ
 おお わが祖国よ 私が神に抱かれて休らうことのできるよう

不運の死をとげたすべての人のために祈ってくれ
 かぎりない苦難をうけたあらゆる人のために祈ってくれ
 不遇の悲しみに泣いた母たちのために
 夫を失い 妻を失った人たちのために
 拷問の試練にあう囚人のために
 そしてまた救いをうるであろうきみたちのために



暗い夜のとばりが墓苑をつつむころ
 死者のみひとりめざめているとき
 私の休息 ふかい神秘を敗らないでくれ
 そうすればきみはきっと悲しいうたの反響をきくだろう
 それは私なのだ おお わが祖国よ
 きみにささげる私の歌なのだ

十字架も墓標もきえ去って
 私の墓も忘れられるとき
 鋤でならし 掘り返すにまかせよ
 私の骨はふきちらされて消え去るまえに
 きみの地上にしきつめられるだろう

そして忘却は 私を気にもとめないだろう
 きみの谷間と平野の上を私がすぎゆくとき
 きみの土地と大気を鼓動させ 清めながら
 色彩と光 うたとなげきとともに私はゆく
 私の抱いている忠誠をいつもくり返しながら


わが憧れの祖国よ
 おまえの悲しみが私の心を悲しませるのだ
 愛するフィリピンよ きけ
 私の最後の別れの挨拶を!
 私はすべてをきみにささげる 両親も血族も友人も
 私は圧制者の前にひざまづく奴隷のいないところにゆくのだ
 そこでは信仰の名によって人を殺すこともなく
 神がつねに高きところに

私の心から引きはなされたきみたち皆よ さようなら
 家から引きはなされた幼なじみの友たちよ
 私は感謝しよう ものうい日々から免れたことを!
 さようなら 私の道をてらしてくれたやさしいひとよ
 すべての愛するものたちよ さようなら!
 死の休息が待っているのだ!

----------------------------------------------------------------------


500_33845994

「リサール記念館」

フィリッピン独立運動の国民的英雄であるホセ・リサールの詩は、サンチャゴ要塞の「リサール記念館」に展示されているそうです。




1-P1000827.jpg

「パコ公園の入り口」 

ホセ・リサールのお墓がある。