なぜ研究者は論理的でない手法を「なんとなくバカにしてしまう」のか | みんなの事は知らないが、俺はこう思う。

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落合陽一が考える、「非論理的なこと」を排除せずに対話するために必要なこと


+αオンライン編集部  6/14(金) 08:30

AIに代表される計算機技術の成熟とともに訪れる、新しい自然。デジタルデータと自然が融和し、そのどちらでもない自然に生まれ変わった自然・自然観を、落合陽一氏は「デジタルネイチャー」と名付けた。計算機と自然の様々な中庸状態を探るなかで、人の身体が制約から解放され、新たな制約を楽しむこともできる、という気づきの先にあるのが、xDiversity(クロス・ダイバーシティ)のプロジェクトだ。

技術の多様性と課題の多様性をクロスさせてどのような新しい価値を生み出すことができるのか――2023年に刊行された『xDiversityという可能性の挑戦』よりお届けする。

AIに代表される計算機技術の成熟とともに訪れる、新しい自然。デジタルデータと自然が融和し、そのどちらでもない自然に生まれ変わった自然・自然観を、落合陽一氏は「デジタルネイチャー」と名付けた。計算機と自然の様々な中庸状態を探るなかで、人の身体が制約から解放され、新たな制約を楽しむこともできる、という気づきの先にあるのが、xDiversity(クロス・ダイバーシティ)のプロジェクトだ。


技術の多様性と課題の多様性をクロスさせてどのような新しい価値を生み出すことができるのか――2023年に刊行された『xDiversityという可能性の挑戦』よりお届けする。
「非論理的なこと」を排除せずに対話するために
落合陽一です。アカデミック研究者になったのが2015年なので、もう7年もPI(Principal Investigator=研究室主宰者)をやっていることになります。様々なことを考えつづけると、論理的であるという価値観が世界の隅々まで覆っていくような気分になってきます。科学技術の触手を日々伸ばしつづけ、やがて世界が知性で接続される日を夢見るのは、コンピュータサイエンスで学位をとってその分野にどっぷりと浸かってきてしまったからでしょうか。

 社会生活の中で、「論理的であること自体も多様な価値観の一つ」だと認め、「ロジックで通じない、エビデンスも関係ない、文脈や歴史も必要ないという価値観」があったとしてもそれを排除しないようにするのは、職業研究者の頭で生きていると、なかなか難しいことです。まるで信仰を否定されたような拒否反応が生じることもときにはあります。

 研究者や、ロジックを使った仕事をしている多くの人が、論理的でない手法を、「なんとなくバカにする」ことで、論理の外で自分から遠ざけようとすることはよく分かりますが、それでは分断の問題は解決しにくくなってしまいます。

 (ここでいう狭義の)反知性主義の指摘する社会的問題は重要ですが、(それだけではなく広義の)「非論理」「脱文脈」と対話する知性主義を、どうやって構築していくことができるかという問題には、考えるだけではなく実践や身体性も重要なのだろうと思いながら、今日も作家的に手を動かしています。

 アーティストをしているとバイブスや右脳的な協調も重要だと思いますし、「正史」だけではない多様な文脈や「もしも」の可能性を探究しつづける豊かさもよく分かります。背反するいくつかの可能性を内包しながら思考停止や行動不能に陥らないために必要なのは作りつづけることなのだと信じてはいますが、それも安直な逃げなような。でも、逃げるとそのうち解けることもあるのかもしれません。

 このような考えに至るには旅路があります。
その始まりはいつだろう――。

 2017年ごろのことを思い出していました。そこから5年、xDiversity(クロス・ダイバーシティ)を始めて4年半が経ち落合CREST(※)はもうすぐ終わりを迎えます。研究はバンド活動だと気づかせてくれたのがこのCRESTの良いところで、良い共同研究者は家族のようなものですし、クロス・ダイバーシティはいいチームだと思います。

 ※CREST=我が国が直面する重要な課題の克服に向けて、独創的で国際的に高い水準の目的基礎研究を推進し、社会・経済の変革をもたらす科学技術イノベーションに大きく寄与する、新たな科学知識に基づく創造的で卓越した革新的技術のシーズ(新技術シーズ)を創出することを目的とし、トップ研究者が率いる複数のベストチームが、チームに参加する若手研究者を育成しながら、研究を推進する。

国立研究開発法人・科学技術振興機構(JST)の研究プロジェクトである「JST CRESTxDiversity」では、筑波大・東京大・富士通・ソニーコンピュータサイエンス研究所(Sony CSLチーム)とともに、計算機によって多様性を実現する社会に向けた超AI(artificial intelligence)基盤に基づく空間視聴触覚技術の社会実装を行ってきました。

 この研究のテーマは「どうやって人の多様性をAIテクノロジーで支えるか」というもので、自動化された車椅子やロボット義足がその一例です。

 少子高齢社会に突入した我々にとって、テクノロジーを用いた社会の改善は急務です。我々の社会には、高齢化や先天的もしくは後天的な理由によって運動の自由が利かなくなったり、視聴覚機能の低下が生じたり、発話やコミュニケーションに困難が生じたりといった多様な困難を抱えて生きていくことを強いられる人々がいます。

 本記事で紹介するJST CRESTは、人の身体や感覚器の機能補完や拡張のためにタスク志向型のAIソフトウェアおよび身体拡張デバイスの開発を行いながら、研究の社会実装により多様性社会実現を目指すプロジェクトです。

 タスク志向とは、万能の判別機や学習機を目指すのではなく、あるタスクに特化したソフトウェアを志向することを指します。本プロジェクトの目的は、タスク志向型の開発を積み重ねることで、技術開発の方法論やコミュニティ形成、検証方法などを含めたノウハウと方法論、およびオープンソースのソフトウェアを共有することにあります。

 本プロジェクトは2017年から2019年3月末までのスモールフェーズと2019年4月以降の加速フェーズの2期に分かれており、スモールフェーズでは、視聴覚能力やロボティクスによる能力拡張・コンピュータビジョンと機械学習・障害者向け能力拡張デザイン・運動能力拡張ロボティクスの専門家による4グループを組織し、一つの社会実装チームとして上記のようなタスク志向開発に取り組みました。

 聴覚補助デバイス(富士通・東京大学)、自動運転車椅子(筑波大学)、ロボット義足(Sony CSL)を具体的なタスクとしながら、それぞれが加速フェーズに向けたいくつかの試験検討を行い、タスクごとに垂直統合したチームを組織し、解決に当たるための方法論について検証を行いました。

 その後2019年4月から2023年3月までの加速フェーズを行い、コロナ禍という状況を顧みつつ社会のデジタルトランスフォーメーションに伴いながら、進んでいます。

もの作りをする中で大事なことの作りをする中で大事なこと
最高の音楽人間/機械がものを作ることには、問題を見つけて解決策としてマーケットに出すという一連の流れがあります。

 機械が問題を解くときのキーパートは、AIをどう使うか、つくるか、もしくはどんなユースケースに何がはまるかを考えることにあります。

 世の中にアプリケーションやタスクはたくさんありますが、そういったものと、コンピュータビジョンが扱うもの―モノを認識する、ボディ構造をトラッキングする、自然言語処理、音声認識など―をどうすれば最適に組み合わせられるかを考えていくのはとても重要な問題だと思います。

 さらに精度の高い文字認識など、"エンジン"は世の中にいっぱいありますが、それをどうユーザーインターフェースに落とし込んで使えるようにするか考えること、また、そういったものの整備をオープンソースでやっていくことも非常に重要な問題となります。それを仕組み化、方式化するのも研究の一つです。

 さらにどうデバイスを使えるか、どうやってワークショップのデザイン論ができるかをまとめていくのも我々のテーマの一つです。我々のチームの面白いところは、誰も障害を障害として捉えていないこと、障害を個性と言い切るほどに標準性の悪意を意識し放っておかないところにあります。

 "標準化"というものは非常に問題だと思っていて、それに対してどうやって課題解決システムを作って自分たちで使っていけるのかに興味がある人たちの集まりなので、そこがディスカッションしていても常に面白いところです。

 テクニカルな話以外に最優先課題となるのは、違いに寄り添うテクノロジーを見つけながら、個別課題から現場共通の課題を抜き出し、様々なデバイスやアプリケーションと自分たちの作っているものを組み合わせて問題を解くことです。
義肢で「歩く」ことを目指すプロジェクト
たとえばプロジェクトの一環として、四肢のない作家・乙武洋匡さんとともに、義足や義手を使って「歩く」ことを目指す「OTOTAKEPROJECT」に挑戦しています。
 
N対1、つまりN対N(※)じゃなくて、1人のユーザーだけに寄り添うアプローチってなんだろうなと。乙武さんが歩いていく様子をひたすら追いかけていくっていうのは、N人ではなく1人が使う義足を作る様子とそのチームがどう育っていくかを考えていく点で非常に面白いなと。
※N:複数を示す。「N対1」は「複数対1」、「N対N」は「複数対複数」

 どうやって歩けるようにしていくかというのはおそらく1人では解けない問題で、義肢装具士の人、デザインの人、理学療法士の人が入ることでその問題を解決しようとする。そんななかで乙武さんは1年間練習を続けて20メートルくらい歩けるようになりました。プロジェクトのなかで生まれてくる人の輪やコミュニケーションを考えていくことは非常に重要だと思います。

 OTOTAKEPROJECTプロジェクトはSony CSLの遠藤謙さんがアスリート支援をしていることもあって、てっきりスポーツの延長のようなもの、もしくは身体拡張による社会運動のようなものだと考えていました。パーツを出力し、組み立て、モーターを動かし、プログラミングと機械学習で取りこぼしたものは、乙武洋匡氏が身体を鍛えることで回収します。とにかく練習を続け、それを理学療法士の内田直生さんやスタッフたちが支えます。

 テクノロジーは障害を突破する、テクノロジーの欠陥は人間力によって補完される、大切なのは習慣とモチベーション作りだ、トレーニングとはそういうものなのだ、ということを知る―そんなことを感じながら、いやあくまで身体拡張とテクノ民藝のお話なのだと思っていました。

 しかし、先日100メートルを歩く(117メートルでバランスが崩れた)乙武氏のすぐ横でひたすらカメラを回していた自分が感じたのは、それとはまったく違ったものでした。

 乙武洋匡氏にとって車椅子は身体拡張されたインフラです。車椅子があれば乙武氏は自由自在に舗装された道をいき、ニュース番組に出演し、身長も自由に変えることができます。あえてテクノロジーを伴う義足を用いて歩く挑戦とは、そういった様々な社会的課題や社会的困難に向かい合うための社会運動で旗を振るようなものだと考えていました。

 ところが、結果は違いました。

金属製の腕を使って、人生ではじめての拍手をする乙武洋匡氏が発する金属音はグルーヴを生み出し、身体拡張された義足による歩行は人々にリズムと応援の声を響かせ、コンヴィヴィアルな体験を伝播させていったのです。

 国立競技場の100メートルトラックの上で、乙武洋匡氏の身体は、「楽器」にトランスフォーム(変成)していました。社会的困難に向かう左脳的アイコンではなく、群衆にグルーヴを生み出し、その相互理解のための演奏を行う右脳的パフォーマーに変化したことは、予想していなかった着地でした。

 感動ポルノなんてクソ喰らえ、と言っていた2018年から変化したものがたくさんあります。

 身体的な活動を主体とするCRESTクロス・ダイバーシティは感動ポルノではなく、グルーヴをもたらす音楽です。この後味は長く余韻になるでしょう。言葉で消化されるロジカルなキャンディではなく、胸の高鳴りを通じて具体的な身体行動を伴うトラックになると確信させられました。

 遠藤チームが生んだものは、乙武氏がたくさんの聴衆に共感を響かせるための新しい身体楽器だったのだと思うと、それはそれで爽やかな気分になります。難しいことはいいのだ、そしてロジカルなキャンディも必要ないのだ―おめでとう乙武さん。

 最高の音楽でした。いつも大変な練習を重ねてくれて本当にありがとう。新しい身体性を獲得されたことをいまはただ祝いたいと思います。

 そう、音はしないが、音楽が奏でられるようになったんだぜ。これは「きのこの楽器だ」。ありがとうジョン・ケージ。

 きのこの楽器というネーミングの危うさとエロと胡う散さん臭さ。しかしそういった想定外使用からしか次のステップは見出されないのだと思います。当たり前のものが当たり前の場所でしか使われないなら、それが跳躍を生むことはありません。音がしない音楽、それを奏でるための楽器、いや、そのための身体拡張。きのこでケチャップを作ったらDogs-upって言うのでしょうか。ジョン・ケージ。

デジタルデータと自然の融和
新しい自然を実現していくことを自らのビジョンとしているけれど、その自然は人によって都合のいい自然と言えます。そういった意味でデジタルネイチャー(計算機自然)は多様な身体を揺籃します。それは新しい自然を構築した人類が自らの身体を精神の形の一つとして多様に獲得していく過程なのです。 デジタルネイチャーは身体に多様性を生み出します。多様性と自然の関係性を以前インタビューで話したことがあります。

 「僕の考える自然というのは、マテリアルトランスフォーメーション可能な自然。荘子がある日うたた寝していると蝶々になってしまった夢を見たという話のように、"物化する自然"、あらゆるものが定型をとどめずあらゆる形で自由になれるというのはどういうことだろうというのが僕にとっての自然の探求です。

 そこで熱が失われるのか、何が変換されるのかという部分で、情報だけが変換されるならば、それはある種、物理現象よりももっと自由になれるんじゃないかという自然観を僕は持っています。そして、自然体が自然体のままでいられるというのは素晴らしいこと。そのために自然の側も歪ゆがめてしまっていいのではと思っています」

 デジタルネイチャーは2015年に研究室を始めたときにつけたビジョンの名称です。

 質量のないデジタルデータと質量のある自然が融和し、そのどちらでもない自然に生まれ変わった自然・自然観をデジタルネイチャーと呼んでいます。名前のない新しい自然の呼び名の一つで、ニューノーマルやニューメディアアートみたいなものだと思っています。

 デジタルネイチャーはイメージと物質の間で考えていた際にその間をとりなす感覚を一般化した平衡点であり、元来の自然と計算機が不可分の状態にあります。これはユビキタスコンピューティングとかIoT(モノのインターネット)とか言われる世界のことで、その世界にやがて元来の自然と区別不可能なくらいにコンピュータが入ってくることになります。

 これはおそらく皆さんが知っているこの世界の進捗の話でしょう。解像度は上がっていき、センサーとアクチュエータ(エネルギーを動作に変換する装置)は増えていきます。

 もう一つの過程は計算機の中にある自然が成熟した状態です。

 これは物理シミュレーションとか機械学習エージェント同士の対話とか、データ同士の振る舞いが見せる新しい自然がコンピュータの中に成熟した状態を指しています。これも皆が知っている話でしょう。データは大容量化し、アルゴリズムは精緻になり、出てくるリザルトは自由度を増していきます。

 その両者の間に着地点があります。この着地点は元来の自然の解像度を上げていった世界とはまたちょっと異なった着地であることが予想されます。人間に機械を組み合わせたり、山頂でzoom飲みをする世界かもしれませんが、元来の自然の持っている範囲からはみ出していて、それでいて、データの自然だけでは到達しないものがあるはずだ、というモチベーションによって成り立っているのです。
質量のない自然と質量のある自然の着地
当時のモチベーションを一般化するときに出てきたのが質量のない自然と質量のある自然の着地という考え方です。元来の自然のようでいて計算機であり、計算機上に見えて元来の自然。

 なぜそんなことを考えるようになったのかといえば、僕が博士課程でやっていたことは、映像と物質の間にあるものはなんだと考えていたことに由来するからです。映像のようでいて物質であるし、物質のようでいて映像であるものとは何か。その実装が計算機音場によるグラフィクスだったり、ホログラムによるプラズマだったりしました。

 要は、触われるけど映像のように消えちゃうものもある、ということ。意外とそれは実装できました。そこに着眼していくときに見出されたのが質量性・非質量性の対比であり、計算機技術の成熟とともに訪れるであろう新しい自然のことです。そのときに対比構造になってくるのは元来の自然とデータの自然だけれど、元来の自然はもはや計算機に囲まれているし、データの自然のほうは元来の自然のデータを吸収しつづけ、独自の計算を生み出しつづけています。

 その間にある新しい自然、これに名前をつけなくてはならない。そうやってできたのがデジタルネイチャーという暫定名称でした。だからよく名前が変わっていきます。「計算機と自然、計算機の自然」と同語反復したのはまさにここですし、「質量のある自然、質量のない自然」と言い換えることもできます。

 研究センターにあるデジタルネイチャーの解説は、以下の通りです。

 〈人に纏まつわる情報工学研究を軸としながら、新しい自然において今よりもっと多様な未来を実現するための基礎技術研究、応用研究、デザインの探求、そして社会実装に取り組んでいます。

 新しい自然では、人と機械、質量ある物質の世界と質量なきデータの世界の間に、元来の自然では起こり得なかった多様な未来の形が多元的に存在していく、と私達は考えています。

 人の作り出した計算機により紡がれる新しい自然はどんな姿をしているのか? 筑波大学デジタルネイチャー開発研究センターでは、新しい自然をより確かな形で思い描き、人と調和する持続可能な自然に近づけていくために、様々な計算機技術の応用を実装し、世に問いながら産業・学問・芸術に至るさまざまな問題解決に挑戦しています〉

 いままで計算機と自然の中に様々な中庸状態を作ってきました。

 「触ったオブジェクトはデータであり物質でもあり、物質を変えればデータも変わるし、データが変われば物質も変わる。電源を消すとそれらも消えてしまう」みたいな考え方や、「ロボットが印刷されたり、データがロボットになったりする」、「この世界はすべてデバッグ可能でいて一回性を持つこともできる」→これはブロックチェーンとかの研究をしていたときの話だったり、「人の身体は制約から解放され、新たな制約を楽しむこともできる」→これはクロス・ダイバーシティのプロジェクトだったり。

ムーブメントとバイブス
様々な対立構造を作る中で、立ち位置が溶けてしまうようなものを選び、新しい自然を探究してきました。アプリケーションやアルゴリズムを考える中で物質と映像の垣根に常にいた気がします。新しい自然、質量のある自然と質量のない自然の中間地点。

 以前は質量への憧憬といっても、ほとんどの人はピンとこなかったかもしれませんが、いま伝わっているような気がしています。

 僕はずっと前からいまのみんなくらいにピクセルに囲まれて生きてきて、そこから来る質量への憧憬や映像と物質の垣根にあるマテリアリティに着目してきました。でもいまこの世界は質量への憧憬の中にあります。そこでやっと伝わる言葉もある。そんな自然観が実装されるような自然環境は人間にとって何なのかをよく考えます。

 たとえばXboxのアバターをつくる際に義足や義手、車椅子がアイテムとして選べるようになったアップデートを受け、"Computationally incubated diversity(コンピュータで促進させられたダイバーシティ)"とツイートしました。

 障害があるからではなく、義足や義手が単純にクールだから選んでいるとすれば、ダイバーシティとしては正しい方向だと思っています。自由度や気にしなさをどのように互いに尊重できるかということが大切です。

 そもそも機械学習でものを作る、その言語空間が大切で、その言語はこの世界を構成する巨大なホログラムでできた文学であって、世界は計算しながら詩を綴つづっています。その自覚を持って生きることがデジタルネイチャーに生きることなのです。

 ポエティックなグラフィクスをリアルタイムに生成できる世界になったのは良いことだと思います。私は物理的な研究貢献はしているが言語的な研究貢献との間の接続が気になりはじめています。魔法の世紀で世界の再魔術化でデジタルネイチャーで世界は計算していてホログラムの中に生きる共感覚的なデジタルの自然なのです。喜びを共有したい、と思います。

 テクノロジーですべての問題が解決するなんて考えたこともありません。しかしながらテクノロジーを使わないで問題を解決しようと考えることはありません。クロス・ダイバーシティで何が重要かって言ったらバイブスだ、という話をいつもシンポジウムのときに言っています。自分たちが作るのはテクノロジーではなくてムーブメントだとも言っています。

 ただそこには何らかの技術開発に伴う生態系とレガシーがあるべきでしょう。もちろん論文は書くけど、「お家元」に「お金が動いて」、ははぁ、「ご研究のご文脈が作られた」っていうだけじゃ不満足なのです。

 2022年に入ってから、どうやってレガシーを考えるか、を探しています。ムーブメントとバイブスを意識しながら、技術と人の生態系が作る先を考えていきたいと。