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コーポレイト・ユニバーシティ

コーポレイト・ユニバーシティ(CU)。特に有名なCUとしていつも例に出されるのが、GEのクロトンビル、モトローラのモトローラ大学、マクドナルドのハンバーガー大学。


日本企業も人材育成についてはアメリカに引けを取らないが、CUが「ブランド」として確立している企業の例は多くない。トヨタ、、他にもあるだろうが、あまり聞かない。 

参照文献: リクルートWorks No.53



最近日本でもまたCUづくりが盛んになってきた。その背景は様々である。

 - 将来の経営人材を創りたい。

 - 企業の価値観(バリュー、Way等)を「グローバルに」浸透させたい。

 - 無駄なく、効率よく人材の能力を向上させたい。

 - 組織の暗黙知を効果的に活用する場を設けたい。

 - 人材育成に対して積極的な姿勢をアピールし、人材獲得、引きとめの切り札としたい。


「ひと」が企業の競争力の源泉である。


多くの日本企業にも、バブル崩壊後の苦しい十数年を経て、やっと当たり前のことに目を向ける体力と余裕が戻った。



CUの目的は、「あるもの」を創ることではなく、「ある状態」を創ることだと思う。


研修体系を創ることが目的なのではなく、「育てる」&「育つ」文化を創ることが目的。


「同僚、部下が、自分をを越えることを心から応援することのできる文化」である。


もちろん、決して自分は努力しなくていい、と言う意味ではない。


自分だけを見ているのではなく、チーム、組織が「育つ」ことに喜びを感じる文化である。




先日、NHK教育の道徳ドキュメント で見たなわとびチャンピオンの鈴木勝己さんを思い出した。


まもなく70歳の鈴木さん。

なわとびの世界チャンピオン。


今でも毎日鉄アレイを手にジョギングをし、鉄棒で懸垂をする。

小学校などに訪問し、なわとびの楽しさを伝えている。


NHKのドキュメントが伝えたかったメッセージとは外れていると思うが、次のコメントに感動した。


「将来世界チャンピオンを越えるこどもが出てきたらどうしますか?」と言う記者の質問に、目を輝かせて答えていた。


「ボクの教え子がボクを越えたら? そりゃー嬉しいですよ。早くその日が来て欲しい」


この心意気だと思った。


どこまでも努力を続け自分を究極まで育て上げつつ、後世に自分を超える人材を輩出し、社会に貢献したい。世界に貢献したい。


自分自身のエゴを超越し、人を育て、自分を育てる。




私もこれを目指したい。




一人ひとりの強みを活かす支援をしたい。


チームの、組織の、企業の強みを活かす支援をしたい。


日本の強みを活かす支援をしたい。


世界の強みを活かす支援をしたい。




それが「Peace」につながる。








「Be TARO」

岡本太郎



































高尾山にて想ふ

日本人の美意識。

掃除しているおじさん。


ベンチに腰掛けていると、おじさんが近寄って来て、「いいですよ、そのままで。」といった。
"足を動かして掃除しやすくしようとされましたね。ありがとう。でもいいですよ、そのままで。"と聞こえた。


日本語はハイコンテキストな言語と言われる。

全てを表現しなくとも意図が通じる。正確に言えば、伝わり易い。


足りない部分は聞き手が補って理解する

むしろ全てを表現しないからこそ表現していない部分がきわだつ。

俳句などはその典型。

17文字で世界を表現する。

その世界の空気や音、温度や感情まで体感できる。

それは自分のなかの世界、記憶と共鳴するからだ。

ロジックではなくアート。

足りない部分は相手の美意識に委ねられる。

ロジックもいいが、やっぱり、アートだね。





「Be TARO」
岡本太郎
























リーダーシップって?

リーダーシップについて考えさられる出来事があった。


  先日、電車に乗っていると、一人の男性が発作で痙攣をし始めた。


  癲癇だ、と瞬間的に思った。


  周りの人はただただ、それを眺めているだけ。


  私も状況を把握するに留まり、「眺めて」いた一人だった。


  30秒も立たないうちに、男性一人、女性一人が介抱をし始めた。


  私もとにかく何かしなきゃ、と思い、電車の非常停止ボタンを押す。


  けたたましいベルの音が車両に響き渡る。

 

  次の駅で緊急停車するというアナウンスが流れた。


  数分して駅に停車すると、乗客の数名が大きな声で「病人はこっちにいるぞ!」と


  駅員に担架を持ってこさせた。


  またある乗客たちは、人垣をこわして、担架を運び入れる道を確保した。


  担架に乗せられて、電車から運び出される頃は、病人は意識を取り戻していた。


  そんな中でも、おしゃべりをしている人たち、全く無視している人もいた。寝ている人もいた。



ここで疑問に感じたことは、2つ。


なぜ最初の数十秒は、だれも動けなかったのだろう?

リーダーは誰だったのだろう?



なぜ動けない?


痙攣して口から沫を吹いている人を見て、ただ眺めている時間があった。

誰もが眺めている。

私自身も動けない。


影響力の武器に「社会的証明の原理」という考え方が紹介されている。


私たちは他人が何を正しいと考えているかに基づいて物事が正しいかどうかを判断する、というものです。

この原理が特に適用されるのは、正しい行動が何であるかを私たちが決めるときです。特定の状況のものとで、ある行動を遂行する人が多いほど、それが正しい行動だとみなすのです。

(影響力の武器 ロバートBチャルディーニ)


私が行動する前に感じていたこと、


  悲鳴が聞こえた・・・なんだろう?

  あ、、人が痙攣を起こしている・・・・昔も見たことがある。癲癇だ。

  だれか介抱しないのかな?

  はやく周りの人、動けよ。

  あ、動き始めた。二人とも慣れているな。

  あ、俺も何かしなきゃ!・・・そうだベルを押そう。

  ベルはどこだ!・・・・あった!


そして、ベルを押した。 

そのとき心に聞こえたのは、「おまえ自身が動け!」という自分の声だった。



リーダーは誰?


最初に介抱した2人?非常ベルを押した私?それとも駅員に担架を持ってこさせた人?


いわゆる指示命令をするような人はいなかった。

ただ、動いた人は、自分のやるべきことを分かっていて、動いた。。ように見えた。



「自分が動かなきゃ」と自分自身が思わない限り、人は行動しない。

それは、誰かに言われて動く、という受動的なものから、自分で動くという能動的なものまで、行動にもいろいろあるだろう。いずれにしても、「自分が動かなきゃまずい」と思って、自分で自分を動かす。



リーダーシップは、まず己自身に何をすべきかを考えさせ、行動させる「意識」なのではないか?その上で、人に影響を与える人なのではないか?


リーダーシップは、一人ひとりの中にあり、たった一人でも行動するという強い「信念」なのではないか?


リーダーシップは、Being(己を生きるプロセス)そのものなのではないか?




一人ひとりが「自分」のリーダー。



組織で考えてみると、どうだろう?


社会で考えてみると、どうだろう?



まず「自分」が動く。


「自分一人」の行動が、大きな波を起こす。


一人ひとりがリーダー。








「Be TARO」

岡本太郎