岳飛伝 ~靖康の変~  | そんな感じ。 since March 28, 2005

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日常生活の中で、ふと感じたこと。

関心したこと。

その時の感性のおもむくままに気ままに書き留めています。

2015年12月21日(月)

 

夫は北方健三の岳飛伝の新刊が出る都度、買って読んでいるのでBSジャパンで放送が始まった岳飛伝を録画しておいてあげのに、「岳飛のイメージが違う。 こんなヤサ男じゃない!」と言って、ものの10分も見ないうちに見るのをやめてしまった。

まぁ~、ヒトの親切を無下にしてむっ

なら、私が見るわよ!

ヤサ男上等! 黄暁明はやっぱり超絶イケメン☆

 

【秦檜(Qin2 Hui4 1090~1155)

 

てな感じで見始めたドラマだけど、私が岳飛のことを知ったのはつい最近。

NHKラジオの中国語講座で『树倒猢狲散木が倒れればサルも散っていく)』という成語を知ったのがきっかけ。

南宋の宰相で恐怖政治をしいた秦檜(Qin2 Hui4 1090~1155)を木にたとえ、手下たちをサルにたとえて、秦檜病死後の派閥の運命を風刺した成語だという。

秦檜は「金」との講和を進め和議を結ぶが、その過程で「岳飛」ら抗金派を謀殺。

「岳飛」は忠義の英雄として中国で大人気だが、秦檜は後世の中国人から「奸臣」、「売国奴」と罵倒されているらしい。

『岳飛伝』では、イケメン岳飛がなぜに中国人に愛され、中尾彰似の秦檜がここまで憎まれているのかを描いているそうなので、その辺が楽しみ。

 

【宋の文化】

 

美術館巡りをしている立場からいうと、宋代は米の生産高があがり、宋銭のクオリティも高かったし、文化レベルが発展した時代というイメージ。

 

「書は晋に極まり、詩は唐に極まり、画は宋に極まる。」と言われていて、加えて、青銅器は殷と周で極まっており、磁気についても宋で頂点に達していたとも。

中国においては南宋が滅亡した1300年頃、文化的発展は終わっていたとさえいわれる。

そういった文化的側面からいうと和議も悪くなかったんじゃね?という気がするけど。

 

→ 松園と華麗なる女性画家たち ~野口小蘋~

 

北宋時代の文化の発展に大いに寄与したのは第八代皇帝、徽宗帝。

室町幕府第八代将軍の足利義政が好んで徽宗帝の書画を蒐集していたというくらい、徽宗帝は芸術面の才能がある人だったらしいけど、政治にはとんと向かない人だったらしく奢侈に走り、奇石集めに没頭して莫大な国費を投じたのが宋が傾く一因となったそうで、その辺の事情も『岳飛伝』にばっちり描かれていて面白い。

 

去年、「國立故宮博物館展」で蘇軾の『寒食帖』を見たし、徽宗コレクションを見たので、宋の歴史とドラマを絡めて覚え書きしておこうと思います☆

 

【蘇軾】

 

→ 2014年08月08日(金) 寒食帖(かんじきじょう)


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『自我來黃州  已過三寒食 Zìwǒ lái huáng zhōu  yǐguò sān hánshí』

(私が黄州にやって来てから、既に三度目の寒食節が過ぎた。)と書かれた『寒食帖』の冒頭は、蘇軾(1037~1101)黄州に左遷されて3年目のことだとは知っていたけど、左遷の理由は王安石の新法に反対したからで、更に元豊2年(1079年)に詩文で政治を誹謗したと讒言を受け、投獄された後に黄州へ左遷となったらしい。

 

そりゃ~、むちゃくちゃ気持ちが荒むわ・・・。

 

元豊8年(1085年)に神宗が死去し、哲宗が即位して旧法派が復権すると蘇軾も中央に復帰するけど、旧法派の中で内部対立し、紹聖元年(1094年)に再び新法派が盛り返すと、蘇軾は再び左遷。

恵州(現在の広東省)に流され、さらに62歳の時には海南島にまで追放された。

66歳の時、哲宗が死去し、徽宗が即位し、新旧両党の融和が図られると、ようやく許されたが、都に向かう途中病を得て、常州(現在の江蘇省)で死去した。

 

あ~、蘇軾と徽宗ちゃんはすれ違いだったのね・・・。

 

【徽宗帝】

 

「國立故宮博物館展」の『徽宗コレクション』コーナーで徽宗帝(1082年~1135年)の描いた『渓山秋色図軸』を見て、画才もある皇帝だったんだなぁ~と思ったのですが、身から出たさびといはいえ、かなり悲惨な晩年を送ったんですね・・・。

 

→ 2014年08月08日(金) 2回目の國立故宮博物館展


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徽宗帝『渓山秋色図軸』


 

【岳飛伝 第13話 二帝北行】


さて、岳飛伝 第13話 『二帝北行』では、徽宗ちゃんと息子の欽宗が金の捕虜となった悲惨な出来事「靖康の変(せいこうのへん 1126年)」の」お話でした。

 

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【靖康の変 (せいこうのへん 1126年)

 

宋は、国内の武人勢力を抑えるため文治政治をとったこともあって、遼・西夏の侵入に対抗できず、毎年銀や絹(歳幣)を送って和を保とうとした。

そのため宋は財政難に陥り、その打開策(新法=宰相・王安石の打ち出した数々の改革案)をめぐって官僚を二分する闘争が激化し、疲弊した農民の反乱も相次いだ。

とりわけ第8代の皇帝徽宗は、政治を臣下に任せて書画・骨董に凝り、美女を漁るなど、風流天子と呼ばれる生活をして国費を浪費した。

一方、政治を任された臣下の蔡京は専制政治を行ったため、政治は荒廃の極みに陥っていた。

のちの満州東部で半農半猟の生活を営んでいたツングース系の女真族は、初め遼の支配下にあったが、1115年、族長の阿骨打に率いられて独立し、金を建国した。

これを知った宋の徽宗は、従来遼に与えていた歳幣を金に送り、両国で南北から遼を挟撃することを提案した(海上の盟)。

金はこれに応じて大軍で遼を攻撃して大打撃を与えた。しかし、宋軍の戦果は微々たるものだった。

しかし、金が宋の約束違反を責めたことから、宋は歳幣の額を大幅に上積みしてこの場をしのいだ。

金は1125年、今度は西夏と同盟して遼を滅ぼした。

宣和7年(1125年)、父の徽宗が金に対する詐術的な外交政策に失敗し、金は宋に対して大軍をもって攻撃を行った。

同年12月23日(西暦で1126年1月25日)、徽宗は「自らを罪する詔」を出し、帝位を欽宗に譲り太上皇となった。

翌年(西暦で同年1126年)、金が開封を包囲すると欽宗は李綱を任用して防御に当たったが、賠償金の支払いと領土を割譲する条件で金と和議が成立することとなった。

 

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↑ドラマでは講釈師のおばちゃんが靖康の変(=二帝北行)を語る。

 

しかし金軍が撤退すると、宋の官人の間では金に対する強硬論が主張されるようになり、賠償金や領土割譲を拒否する方針に転換した。

この宋の違約に、金は再び開封を攻めて陥落させた。

 

金は徽宗・欽宗以下の皇族と官僚など、数千人を捕らえて満州へ連行した(この出来事を「二帝北行」という)。

 

金の天会5年(1127年)2月に金の太宗の詔で、徽宗・欽宗は共に庶人に落とされた上、上京に連行された。

 

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↑金の太宗(呉乞買ウチマイ)

 

翌天会6年(1128年)8月、徽宗・欽宗は素服を着せられて太祖廟に跪拝させられ、続いて乾元殿において太宗に目通りさせられた。

 

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↑ドラマのシーンでは、徽宗ちゃんは金の太宗から「贅沢して、遊びほうけてばかりで民のことを考えないから、こんなことになるんだ!」と説教されちゃてました。

徽宗ちゃんは昏徳公(=とろくて仁徳がないという意味)と名付けられ、息子の欽宗(趙桓)は重昏侯(=ダブルうすらバカくらいの意味かな。)と称せられることに。

 

ここで徽宗は昏徳公、欽宗は重昏侯に封ぜられると、10月に韓州(吉林省梨樹県)、天会8年(1130年)に東北の五国城(黒竜江省依蘭県)へと連れ去られた。

 

二帝と共に、徽宗の妃韋氏、欽宗の皇后朱氏など、宋の宮廷の皇后、妃嬪、皇女、その他宗室の女性や女官、宮女たちが、金軍の慰安用に北へ連行され、後宮に入れられた後、1128年6月には金の官設の妓楼である洗衣院に下されて、金の皇族や貴族を客とする娼婦になることを強いられた。

朱皇后はその境遇に耐えかね、入水自殺している。

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↑金との和議交渉に失敗し、江南へ逃れる夫の趙構 zhào gòu 康王)を見送る妻の邢秉懿(けいへいい)。

この後、宋の都、汴京 biàn jīng(=開封)が陥落。

彼女も徽宗と欽宗らと共に捕虜として金に連れていかれる。

 

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↑汴京biàn jīngを離れていて、難を逃れた趙構 zhào gòu は妻が金の男から乱暴を受ける夢を見る。

 

靖康の変の際に都にいなかった欽宗の弟・趙構が江南に逃れて即位し(高宗)、都を臨安 lín ān(現在の杭州)に定めた。これを南宋という。

 

【その後の金と南宋】

 

1127年(金の天会5年)、欽宗の弟・趙構(高宗)が南宋を興すと、欽宗は複雑な立場に立たされる。

欽宗の南宋帰還が認められれば、高宗は簒奪者とされる可能性があった。

これは、宋が中国の歴代王朝の中でも特に正閏論(せいじゅんろん)が厳格な時代であったためである。

金の側も欽宗の帰還を計画したが、高宗から抑留継続の要望が婉曲に出され、結局南宋への帰還は実現しなかった。

また、高宗の生母である韋賢妃(顕仁xiǎn rén皇后)が南宋へ帰還する際に欽宗は、韋氏の影響力を行使して自身の帰還を実現するよう涙を流して嘆願したと伝わる。
欽宗はその後も30年以上にわたって、現在の中国東北部に監禁され続けた。

1135年(金の天会13年、南宋の紹興5年)、父の徽宗が没した。

金で熙宗が即位すると待遇が改善されたようで、皇統元年(1141年)2月乙酉に徽宗には天水郡王が追贈され、欽宗は天水郡公に改封されている。

1161年(金の正隆6年、南宋の紹興31年)、欽宗は五国城にて62歳で没した。

 

南宋は豊かな江南の経済力と地の利、その後の金の軍事力の弱体化に助けられて、その後1世紀半ほど生き延びることができた。

しかし少数で多数の漢民族を統治する金の政治ノウハウはモンゴル帝国に吸収され、その両国とも制圧されることとなる。

 

ドラマは17話まで終わり、次の放送(18話)は来年1月4日(月)からです☆