大河ドラマの『光る君へ』を、毎週楽しみにしています。
道長と紫式部が恋人同士だったという設定はちょこちょこ見かけますが、まさかのBoy Meats Girl 、賢く真っ直ぐなまひろのかわいらしさ、大器を感じさせる道長の優しさと大きさ、大変好みで、
「もう、史実なんかいいから幸せにおなり……!!」
と思って見ていたのですが、そこはさすがにぶっちぎれず、ついに別々の道を歩むことになる、というそのシーンで、まひろちゃんがいうには、
「私は、私の生まれてきた意味を探します……(正確じゃないけどそんな感じ)」
えーん、史実に負けた!と滲む涙を拭いつつ、この時代に『生まれてきた意味』なんて、そんな西洋哲学的な発想はなかったと思うよ……ぐすん……と、心の中でつぶやいておりました。近代以前の日本人の自我は、西洋的な自我とはちょっと構造が違うらしいです。
が、それを置いておいても、生まれてきたことに、つまり命に意味を求めるのは、とても自我っぽい発想ですよね。
命は、ただそこにあるだけで意味なんて関係なく、ただ尊いんですから。
そんなの意味わからないとかいうのは(私だ)、意味というものに意味があると思ってるからです。だから意味なんてないんだってば(ぐるぐる)。
先日の勉強会で、自分の子どもが全力を出し切って頑張っていないことが歯痒くてならない、という話になりました。
全力でがんばらなければ、本当の人生の楽しさが味わえない。
だから我が子にも頑張ってほしい。
それはそれでよくわかります。
でも私たちが全力で頑張るとき、それは頑張ることに意味なんかないのに、ついうっかり頑張っちゃっただけ、つまり好きだからやっちゃっただけなんです。いくら好きだからって、とことん頑張るのはほんとに大変なんだけど、それでもやめられなくて努力しちゃった、というだけのことです。
この好きだから、というのもまた誤解を招きやすいのですが、楽しいことばかりではなく、苦しいことも含まれます。
自己犠牲が好きとかね、過労死レベルに忙しいのが好きとかね、トラブルが好きとかね。
だから本人が好きでもないことを頑張ることはできないのに、なんなら頑張ることに意味を見出そうとして頑張ろうとしたり、周りもがんばらせようとしたりする。
以上を踏まえて、「これまで頑張ってきたこと」というお題で、みんなでマインドマップをしました。
いいことも悪いことも、玉石混交。
そしてそれをしみじみとながめながら、
「で、これってひとつも意味がないんだよ、どう思う?」
「まあ、なんてことでしょう」
とはいえ、意味がないということは、無であるということではありません。
意味に意味なんかないんだから意味がなくたって何も無くなるわけじゃない。
頑張った結果、どんどん辛くなるような自虐的な頑張りは、さっさと赦して委ねた方がいいのですが、どんどん面白くなっていっちゃうような頑張りは、もう人生はそのためにこそ、というしかありません。
この喜びの拡大こそが生きる意味なのだろうと思います。
私が私という物語に、私にとっての意味を求めるのは、私の命は私のものだと信じたいから。
でも本来、全一の命である私には、全一としての大きな物語を生きています。
でも自我である私には、大きな命の物語はその存在の理由も意味も、全くわからない。
だからこそ、その大きな物語の中に鎮まり、呼びかけ、耳を傾ける必要があるのでしょう。
遊びをせむとや生まれけむ
と、歌い踊った昔の日本人は、その「わからない」という感覚に、今の日本人よりも謙虚だったのかなと思います。
で、大河の話に戻りますが、あそこまで道長がかっこよくなってしまったら、例のあの歌は、どういう解釈でドラマに登場するのでしょう……
『この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば』
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