今日は八月のお盆です。
私の住む関東では、七月にお盆をするお寺も多くて、父のお墓のあるお寺にも毎年七月にお伺いするのですが、今年は二月に母が骨折して入院、それからリハビリ病院→老人ホームに入居と続いて、気がつい時にはすっかり七月のお盆は過ぎており、慌てて月末にご挨拶に行ってきました。
「すみませーん」
「いえいえ、まだ、旧盆もありますしねえ」
ゆるーい日本の宗教体制に救われております。
春に、コース仲間から連絡があって、急にご兄弟が亡くなられたとのことでした。
その方にとっては、新盆になります。
少しは落ち着いてきたかもしれない悲しみが、また新たになるんだろうなと思うと、とても切ない気持ちになります。
大切な人を失ったり、体が不調になったり、誰かのほんとに辛い気持ちを、じゃあ代わってあげるよ、なんていう覚悟もありませんが、だからと言って何もしてあげられないというのも、身体の断絶というものを深く思い知らされます。
自分が辛い時も然りで、死や、病や、孤独は、誰かに代わってもらうことはできないのです。
ないのですが、ただ、死や病や孤独があると信じ、私は一人であると信じているのは私の自我であって、ほんとうの私は体で分断されていないし、永遠の存在なんだよ、と、今辛い人の隣で、ぐっと踏ん張って信じ続ける、ということ、それだけはできるわけです。
でも、もし私が今辛い側だったら、いや、そういうんじゃなくて、もう少し具体的にこの辛さをなんとかして欲しいと、毎度、絶対に思うわけですが、それでも、今辛いあなたの代わりに、ちゃんと覚えておくからね!っていう気持ちだけは持ち続けよう、と思うのは、結局自分自身のためなのかもしれません。
なんかうまいこと悟ったら、誰かが死んでも悲しくなかったり、自分が病気になっても辛くなくなったりするのかなって、昔は思ってたんですが、そういうものでもないらしく、悲しいのは悲しいし、辛いのは辛い。
でもその悲しみや辛さは、そのように感じているというだけで、その悲しみや辛さに、私たちが何か意味を見出したり、耐えたりしなければならないわけではない、本当の私たちはそういう「理」の中にはいないという智識は、少し心を楽にしてくれるようにも思います。
別のコース仲間にとっても、今年は新盆になります。
私も、父が亡くなり、叔父が、叔母が、と数えると、ここ十年くらいで何人もの肉親が、そして友人が、その体を離れていきました。
三匹のにゃんずも見送りました。
こういう行事は、生きている側が死と折り合うためにあるんだろうなあ、なんて思うのですが、大切な人を失った方々の心が、少しでも安らぐことを祈っています。
今日は八十一回目の終戦記念日でもありますが、テレビでも、昔のように戦争に関する特番とかドラマとかを見かけなくなったように感じて、時代は前のめりに進もうとしているんだなという思いがします。こんなに失うことが辛いのに、戦争がなくならないなんて馬鹿げているなと思いますが、それは私の投影なのだということを、今年も、
「何だかなあ……」
という思いで過ごしていますが、今朝もちゃんと瞑想をして、ワークを読んで、
「さ、やることやるか」
と、切り替えられたのは、少し進歩かもしれません。
私たちは、死によって分たれるのではなく、私が「いる」という誤解によって分たれている。
そのことをちゃんと覚えておこうと思います。