強さと大きさ | ■■ Tao House ■■

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神の使者から『奇跡講座』に出会って、十数年。
日々をACIMに過ごそうと、聖霊と一緒に訓練中です。

何年か前からテキストを、改めて初めから読んでいましたが、先日ようやく最後まで読み切りました。

わーい!

途中、

「いや、ほんと、御父とか聖霊とかダメだわ。コース向いてないわ」

と、ふらふらと他の道に流されたり、

「キリスト教ってなんなんだろ」

と、そういうことは専門家に任せとけよ、なところに道草したり、いろいろしておりましたが、まあ気が済んだというか、読み終わった後に、

「よし、また初めから行くか」

という気分になりましたので、まあ、これでもうコースアウトはしないんじゃないかなーと思います。それも聖霊に任せておりますが。

聖霊って、自分の卑小さを自覚して、

「よろしくお願いします」

って言った後に、分離の方向に自動的に思考する意識と入れ替わる、全一の意識ことなんだろうなと思います。

 

さて、先日も勉強会がありまして、みんなそこそこ長くやっておりますと、ありがたいことに、

「特に問題はないです。わりと平安ですね」

ということが増えてきました。

私自身を振り返っても、母との関係以外はあまり困ったこともないんです、と言いたいところですが、これは長いこと付き合ってる持病みたいなもんで、慣れてしまっているだけで治ってません。しかもこの間、死ぬんじゃないかと大騒ぎして歯の詰め物を噛み割ったりしてますから、私は、

「わりと平安ですね」

なんて思えないんですが、そうおっしゃる方たちはたくさん赦して、確かにいろんなことが落ち着いてきていて、

「そうだね、よかったよね」

と思います。

とはいえ、なんだろうな、

「でもなんかちょっと足りないんじゃないかな」

と思うのです。

 

で、その人たちを見て、

「なんかちょっと足りないな」

と思うのは私ですから、単純に私の問題なんですが、多分私は「平安」がよくわかってないんだと思います。

私の平安って、多分、

「何も起こらない」

なんですよね。

根っからネガティブで杞憂のプロですから。

 

もうほんと、日常生活、何も起きないでほしい。

平凡上等。

刺激なんかいらないです。

 

でも平安って、そうじゃなくて、もっとダイナミックで動的なものなんだと思います。

例えば、学生時代に文化祭ってあったじゃないですか。

あれって終わった後の盛り上がりってすごかったなって(あ、文化部です)。

文化祭なんて参加しなくたって全然いいのに、好き好んで突っ込んでって、泣いたり怒ったり悩んだり忙しいんだけど、でも最後の、

「やったー!」

っていう達成感って、何もない平安とはパワーが違う。

まあ、もう一度文化祭やりたいかって言われたら、ブラックホールに封じ込めたいような記憶もいろいろあって、ほんとごめん被りたいんですけど(学生時代の記憶が悪すぎる。赦。)、とはいえ、あのパワーはやっぱり凄かったと思うんです。

 

今のように、

「何事もなく無事で過ごせますように」

っていうのは平安じゃなくて、

「何かあったら困るんです」

っていう恐怖がベースにあるような気がする。

平安って、

「おう、なんでもこい!全部受け止めてやる!(聖霊が)」

っていうような、強さや大きさなんじゃないかな。

そういう動的な状態が生きているということで、そういう平安を生きている人は、きっと溢れる愛で、出会った兄弟を手当たり次第に癒せる人になるんでしょうね。

と、納得したところで、聖霊よろしく!

 

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