お寺で現世利益を願う | 冥奏記

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狂ったダイヤモンドの日常

 

神社で願掛けをする人は多いと思いますが、お寺でも願い事は叶います。

 

しかし、神社と違うところは全ての寺院が願掛けや祈願に対応しているわけではないという事です。

実は誰が何の目的でその神仏を降ろしたのか?が重要なポイントになっています。

 

弘法大師こと空海は現世利益に前向きな僧侶でした。日本で初めて身分に関係なく教育を受けられる学校を建てたのも空海さんだったと言われています。

 

考えてみてください。

仏教の祖である釈迦は王族でした。超セレブな人だったわけです。ありとあらゆる願望を実現できる環境に生まれて必要な教育は全て受けられて、愛欲も満たすことができてお金の心配なんて1ミリもする必要ない人生を送ってました。

それでも満足できずに全てを捨てて修行の道に進むわけですが。

 

アルメニアにこんな寓話があります。

あるところにヤンチャな狼がいました。

狼は羊が大好物でしたが、菩提心が芽生えて羊を食べるのをやめて僧侶に弟子入りします。

僧侶が祈祷をしていると、家の外に羊の群れがあらわれました。

すると狼は僧侶に向かってこう言います。

「うるせぇ坊主!俺のごちそうが行っちまうじゃねえか!」

 

 

この寓話が伝えているように、人間は自分の欲望や夢や自己実現をないがしろにしたまま悟りの道に入ることは難しいということです。

 

つまり空海さんは満足にご飯も食べれず労働に終われ衣食住や教育も受け入れられない人達が仏さまの教えを理解することは出来ないと考えたのだと思います。

だから空海さんが降ろした神仏は現世利益が得意な仏さまだと言われています。

例えば最初に降ろした不動明王が修行者を守る目的で降ろした仏さまだとすると、守護や祓いに特化した不動明王になります。

逆に現世利益のために降ろした不動明王は商売繁盛の得意な仏さまになります。

 

空海さんは人々を幸せにするために神仏を降ろしてくれたので真言宗のお寺は現世利益に対応した寺院が多いです。

真言宗じゃなくても例えば、上野にある不忍池弁天堂や摩利支天を祀る徳大寺や待乳山聖天のような祈祷寺と呼ばれる寺院はお願い事が叶いやすいです。曹洞宗なら豊川稲荷ですね。

 

なので、神社仏閣で願掛けをする行為は悪いことではないんです。むしろ身も心も豊かにならないと霊性どころではありませんから。

 

もしも釈迦が貧民の出だったらどうでしょう。

釈迦は天才ですからそれでも修行をして悟りを開いていたかもしれません。でも必要な教育を受けていない、読み書きもできない、身分も低い、そんな状態ではマトモな説法も出来ずにおそらく誰も話を聞いてくれず仏教はそこで途絶えていたかもしれません。

 

人は現金な生き物ですから、ヨガナンダも大学に行く必要があったのです。

 

お金持ちになる必要はありませんが、まずは衣食住が安定してお金の心配もなく叶えたい夢を実現して、愛欲も満たされて、その先に悟りや霊性の世界があると僕は思います。そうしないと寓話の狼のようにいつかボロが出てしまうかもしれません。自戒も込めて。