今週の「暮らしの古典」は84話≪校歌の澪標≫です。
前回、「市章「澪標(みおつくし)」を「理由書1894年」の「示教」に遡ると、
きっと「教え」のメッセージが読み取られることでしょう」と示唆しました。
前回、提示した資料を「みおつくし」のメッセージ性を浮かび上がらせるために
前回の資料を要約し、コメントを付け加えることにします。
下線部に注目してください。
三 世紀の潮 あたらしく/洗う 英知の みおつくし
イ)大阪府立旭高等学校(大阪市旭区)
一 …ゆく水の いのちあらたに/
みおつくし 愛とまことの 光かがやく ああ 旭
ウ)大阪市立市岡商業高等学校(大阪市港区)
二 難波入江のみおつくし/心つくしてやまざらめ
社会文化のさきがけは/文化のさきがけは げに我が商業ぞ
エ)大阪府立市岡高等学校(大阪市港区)
一 東大湖の水受けて 溶々西に二十餘里
流れて止まぬ澱江の 浪路の末の澪標
努力の潮我が領と いそしむ健兒千五百
オ)大阪市立梅南中学校(大阪市西成区)
三 行くて険しき道とても/昇る朝日のさわやかに
示す津守のみおつくし
四 澪標(みおつくし)世界の商都の 入船出船
水先みちびく 経済実践 前途(みち)はるか
冰(こお)る潮路も 乗切る気力だ
以下、若干の解釈を試みます。
ア) 大阪市立御幸森小学校(大阪市生野区:1924(大正13)年~2021(令和3)年、
廃校)では
「英知」を「みおつくし」に託しています。
「みおつくし」に正しき進路を指し示す知恵を求めているのです。
イ) 大阪府立旭高等学校では「愛とまことの光」を「みおつくし」に託しています。
作詞は1960(昭和35)年です。
「みおつくしの鐘」が鳴り始めたのは昭和30(1955)年5月です。
「愛」とは、古歌に謳われた情愛でもあります。
校歌の「みおつくし」が指し示すのは真理を探究する教えばかりではないのです。
ウ) 大阪市立市岡商業高等学校(1919(大正8)~2014(平成26年、廃校))では、
古歌で馴染みのある「心つくし」が
枕詞「みおつくし」から引き出され、「社会文化のさきがけ」に繋げています。
3番の歌詞に「夕凪橋の学舎」「国家富強」がみえるところから、
学舎が移転した1920(大正9)年から戦中に至る時代の作詞と推定されます。
エ)大阪府立市岡高等学校(大阪市港区:1901(明治34)年~) では、
「流れて止まぬ澱江の 浪路の末の澪標 努力の潮我が領と」と謳われています。
この歌詞では、大湖(琵琶湖)から遥かに西へ流れ下り、
澪標は河口部に向けられています。
「努力の潮我が領と」には「澪標」を旗印とする意気軒高な一統が謳われています。
1906(明治39)年に制定された、この校歌から彼らの心意気が伝わってきます。
この校歌からの「澪標」の解釈とは別の解釈が同校同窓会会員からあり、後述します。
オ)大阪市立梅南中学校(大阪市西成区:1972(昭和47)年~) では
「行くて険しき道」は人生行路の直喩であり、
その行路を「示す津守のみおつくし」と展開します。
この「示す」は、市章制定「理由書1894年」にあった「航路ノ深浅ヲ示教シ」の
「示教」を引いたものです。
「みおつくし」は、歩むべき進路を指し示すものです。
カ)大阪経済大学(大阪市東淀川区)の作詞は1950(昭和25)年です。
澪標(みおつくし)世界の商都の 入船出船 水先みちびく
経済実践 前途(みち)はるか
冰(こお)る潮路も 乗切る気力だとあります。
「水先みちびく」もまた、「航路ノ深浅ヲ示教シ」を解釈したもので、
国訓「澪(みを)」に通じます。
この段に至って、校歌に謳われているのと異なる市岡中学(現・市岡高校)の
「澪標」観を提示します。
以下の記述はマイブログ≪大阪市章「澪標」のメッセージ(10):2020-10-31 08:04:29≫を
手直し修正するものです。
戦後、*『市岡五十年史』に
「澪標文庫と雑誌澪標の発刊」の記事があります。
*『市岡五十年史』:1951年、玉田義美編纂兼発行
写真図 校友会誌『澪標』市岡高校同窓会室所蔵
青海波の間に澪標が見える。
◆・・・・そもそも澪標即ち「みをつくし」とは
海中に立てられた航路標識である。
本校が西大阪港湾地区に位置している関係で
海に縁の深いこの「みをつくし」が題名として
適しいとされたことは間違ないが、
只それだけではなくもっと精神的な意味、
常に道を誤ることなく進ましめるという意味を、
この「みをつくし」に含ませたのであろう。
この「精神的な意味」の記述に注目しますと、
「人の世の荒波に対しても常に道を誤ることなく進ましめる」に導かれます。
この「玉田1951年」記事は、市章制定「理由書1894年」にあった
「航路ノ深浅ヲ示教シ、
以テ船舶ヲ安全ナラシメ」とある「示教」に通じます。
また大阪文化研究に膨大な記事を残した*宮本又次は、澪標につき
「人の世の荒波に対して、
つねに道を誤ることなく進めよという意味」と
「玉田1951年」と同様のことを記しています。
*宮本又次:「市岡中学の思い出」『大阪春秋』1991年3月63号
(初出『私の研究遍歴』1978年刊 「宮本1978年」)
1951年の玉田義美、1991年の宮本又次いずれも処世の教えとして
市章制定「理由書1894年」にあった「澪標ハ…航路ノ深浅ヲ示教シ」と
理解しておりました。
1906(明治39)年一柳安次郎作詞の解釈「一統の旗印」は
作詞者自身の文芸意識によるものと考えます。
一連の「澪標みおつくし」なる歌語は、
市章制定「理由書1894年」にあった「示教」を意味し、
生徒一人一人の模範・理想たるべき処世訓として謳われていたものです。
戦後の1955(昭和30)年、「澪標」の名を全国に発信した
「みおつくしの鐘」の「みおつくし」観については、
≪写真挿入 大阪市章「澪標」のメッセージ(1):2020-10-20 19:38:53≫
≪大阪市章「澪標」のメッセージ(11):2020-10-31 10:15:07≫に詳しく記述しました。
大阪民俗学研究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登