摂陽落穂集「野里村一時上臈の事」(6) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

《摂陽落穂集「野里村一時上臈の事」(5)
:2018-08-31 09:42:19》に日本武尊の登場する物語と
生け贄献上の神事と位置づけたのは
暁鐘成と書きました。


*『摂津名所図会大成』の巻十「野里一時上臈」の記事に
次の記述があります。
 *『摂津名所図会大成』:暁鐘成、安政2(1855)年頃制作
  『摂津名所図会大成』『浪速叢書』第8,1928年
◆摂津志に柏の済ハ野里村に在し云々
 上古此辺りに悪神ありて人民をなやませしを
 日本武尊のころし給ひし邪神の霊などを
 鎮めん為とて生贄などそなへし遺風により
 てかゝる神事を行ふならんか

 

「柏の済」において、悪い神を日本武尊が
退治した記事は*『日本書紀上』に日本武尊の事績に
「難波に至る比に、*柏済(ルビ:かしはのわたり)の
悪ぶる神を殺しつ」と見えます。
  *『日本書紀』:『日本書紀上』
  (1967年、坂本太郎他校注、日本古典文学大系67、
  岩波書店、景行天皇27年12月)

 

しかし「柏済」は「野里」とは結びつかない。
元禄14年(1701年)完成の
*『摂陽群談』の「野里済」の記事は
「西成郡浦江村より、海老江新家に出て、
 野里村尼崎道の済也」とあって、
「柏済」の記述はありません。
   *『摂陽群談』:『摂陽群談』巻第七済の部
  蘆田伊人編一九七六年
 『大日本地誌大系三八』雄山閣出版

 

「柏済」を「野里」辺りと比定したのは
たしかに『大成』のとおり*『摂津志』です。
 *『摂津志』:『五畿内志 下巻』「摂津志 四」[関梁]
 (『日本古典全書』第3期第14)
◆名柄川渡《半角割注:有レ五(中略)
 柏済在2野里村1
 景行天皇二十七年日本武尊至2難波1殺2悪神1
 即此 (以下略)》

 

日本武尊が悪神を殺した「柏済」を
野里村に在りと記しています。

 

『摂津志』編者は並河誠所です。
誠所は享保期に『五畿内志』に
多くの歴史を記述しました。

そればかりか、顕彰行為をしました。
*『江戸知識人と地図』に次の記事があります。
 *『江戸知識人と地図』:上杉和央、2010年
 『江戸知識人と地図』京都大学学術出版会
◇また、(並河)誠所は『五畿内志』執筆の過程で
 式内社の位置を比定していき、そこに
 標石を建立しようという願いを幕府に出していたが、
 その顕彰行為の実質的遂行は
 (久保)重宜が担うことになった。
 そして、標石建立後、重宜はそれらの宣揚を企図して
 『摂陽 延喜式内神社在所巡参記』を刊行した。

 

「摂陽 延喜式内神社在所巡参記」は
神戸市立博物館には「摂陽神廟図」の標題の絵地図に
記されています。
絵地図には
表記「田蓑嶌」(浦江村の場所)の北西に川を挟んで

表記「柏渡」が読図できます。
「*元文四年 久保重宜撰」が記されています。
    *元文四年:1739年

 

野里渡を「柏済」に比定し、その場所で
日本武尊の悪神退治したまでの考証は
並河誠所たちの記述に読み取ることができます。

その日本武尊が登場する言説に
歌国『摂陽落穂集』の野里神事に関する
「祭神にいけにへを備へる事、
  古雅なる事」記事を結びつけ、
野里の神事を
日本武尊が殺した邪神を鎮める神事と
解釈したのは
暁鐘成『摂津名所図会大成』が最初です。
鐘成による創造した世界の一端が見えます。

鐘成につきましては、
「暁鐘成のしおり」に小論を寄せました。
  ↓ここをクリック
http://www.og-cel.jp/project/ucoro/pdf/2018timesVol10.pdf

 

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登