浪花ふくしま奇観(5) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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昨日2018年9月22日(土)、
大阪あそ歩の海老江・鷺洲コースの下見に
今春、お客さんだった澤田耕作さんと歩きました。
今回の「浪花ふくしま奇観」のワンショットは、
福島区海老江遺跡(以下「海老江遺跡」)です。

 

写真図1 海老江遺跡の現在

「海老江遺跡」ちゅうのは、何処?
北から南の阪神野田駅に向けてのショットです。
阪神本社のある阪神星光ビルが見えます。

 

この「海老江遺跡」という言葉を知ったのは、
今春のあそ歩の際、澤田さんからいただいた*記事コピーです。
  *記事コピー:大庭重信、2017年4月
 「淀川河口域の耕地開発-福島区海老江遺跡の調査から-」
 『葦火』185号大阪文化財研究所

何のことはありません。マルピー大日本製薬工場跡地です。

 

写真図2 大日本製薬記念館
     撮影:平成27(2015)年2月

この建物は平成28(2016)年解体されました。

その場所は、*『鷺洲町史』附録地図によれば、
大字海老江「大フケ」です。
 *『鷺洲町史』:鷺洲町史編纂委員会、1925年『鷺洲町史』

 

写真図3 『鷺洲町史』附録地図

海老江の東端、浦江に接する場所です。
*『広辞苑』によれば「フケ」とは
「泥深いところ。湿地。沼地。ふけだ」深田です。
   *『広辞苑』:新村出編2008年『広辞苑第6版』岩波書店

 

海老江の八坂神社の本殿裏に「大冨計橋」親柱が
保存されています。
写真図3 「大冨計橋」親柱

「大冨計」とは「大フケ」に吉字を宛てたものです。
大冨計橋は
現在の福島区海老江1丁目から
松本病院(同海老江2丁目1-36)に架かっていたと推測します。

 

その深田「大フケ」の辺りの埋蔵物調査が今回、行われたのです。

この付近は古代海辺でした。
『葦火』185号記事の冒頭は以下の記述がみえます。
◆梅田に隣接し、
 商業ビルや住宅が立ち並ぶ大阪市福島区域は、
 古代には八十島と呼ばれたように
 淀川河口域の三角州に広がる低平な場所でした。

 

中世以来の歌枕「田蓑の島」を近世文人は
海老江に隣接する浦江を比定しました。
海老江、浦江という地名が語りますように、
かつては人も住まない
河口域に位置する干潟でした。

 

『葦火』185号記事は陸地化した年代を
推定しています。
◆干潟層から出土した
 木片の放射性炭素年代(14C年代)を測定したところ、
 紀元後3~4世紀の値が得られ、
 弥生時代の終わりから古墳時代の初めには
 陸化が始まっていた可能性が高くなりました。

 

その干潟が開発されるようになるのは
なんと1000年後のようです。
『葦火』185号記事の続きを記します。
◆その後、淀川が運んだ砂が堆積しつつ陸化が進みますが、
 しばらくの間は湿地の環境が続いていました。
 当地で本格的な開発が始まったのは、
 15~16世紀になってからです。

 

中世の後半には
大がかりな耕地開発がおこなわれた模様です。
『葦火』185号記事には栽培された果菜が
記されています。
◆広畝の畠の畝の片側に有機質な地層が
 規則的に分布することに気づき、
 この部分の土を水洗すると、
 スイカ・カボチャ・メロン(瓜)といった
 種子がたくさん含まれていたのです。

 

元禄期に撰せられた*『摂陽群談』の《第十六 名物土産の部》に
次の記事があります。
  *『摂陽群談』:蘆田伊人、編集校訂、1957年『摂陽群談』
  (大日本地誌大系38)雄山閣
◇海老江冬瓜(ルビ:カモウリ):
 同郡海老江村より出る。口味宜く勝て大なり。

 

『葦火』185号記事と重ね合わせますと、
瓜といった換金作物が生る畠であったようです。
大字「フケ」深田は惨めな農地どころか

まさに「冨を計らう」畠だったのです。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

 

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