外島保養院入院者の見た中島町界隈(2) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

今回も前回に引き続き、
7月22日(日)、西淀川図書館での郷土史講演会
 「室戸台風以前の中島周辺の世界」の
講演準備を兼ねて
《外島保養院入院者の見た中島町界隈》を
覚書を記します。

 

テキストは
*『風と海の中』です。
  *『風と海の中』:
  『風と海の中―邑久光明園入園者八十年の歩み』
  1997年第2版発行、邑久光明園入園者自治会
   第1版1989年

 

いったい保養院入院者は、
前回、取り上げた『風と海の中』の
外島保養院のあった付近の記述には、
「葦の生い茂る湿地帯」とありました。

外島保養院の創設当時の所在地について、
リーフレット*『大阪にあったハンセン病療養所』に
次のとおりに記されています。
 *『大阪にあったハンセン病療養所』
  :『大阪にあったハンセン病療養所-外島保養院』
   大阪市保健所感染症対策課
   「外島保養院の歴史をのこす会」
   2017年2月発行

 

◇大阪には、2府10県(内訳略)の
 第3区連合府県立外島保養院(大阪府主管)が
 開設されました。
 1908(明治41)年11月に
 西成郡川北村字布屋町の一部を
 大字外島と新設して
 1909(明治42)年に設立されました。

 

創設当時は、布屋町の一部であったのが
わざわざ「外島」という大字名を新設したというのです。
「大字外島」というのは、やはり、
「葦の生い茂る湿地帯」だったのでしょうか?

*『大阪府全志』の西成郡川北村「大字外島」に
当たりました。
 *『大阪府全志』:井上正雄1922年『大阪府全志』巻之3

 

◇本地は明治41年11月9日
 大字布屋の内、
 字子の割第20番乃至34番(耕地)・
 第217番(井路敷)、
 及び字丑の割第35番乃至51番(耕地)・
 第218番(井路敷)を
 割きて新設し、外島と名づけられし所なり。

 

慥かに布屋の内でも
「大字外島」として分割された土地は
井路敷といった水の湧くような
低湿地であったのでしょう。
耕地といえども、
水害を受けやすい
流作場であったに違いありません。

 

そもそも「外島」という言葉は
堤防の外の海中に
築かれた土地という意味なんでしょう。
そのような名称の大字を新設し、
地名上も元の集落から切り離して
その土地を保養院入院者に宛がえるとは
初めから保養院入院者を疎外する
当時のハンセン病患者をめぐる思潮が
かいま見えてきます。

 

次回は保養院を取り巻く環境について
入院していた少年少女たちの
体験を交えて記します。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登