今回も前回に引き続き、
7月22日(日)、西淀川図書館での郷土史講演会
「室戸台風以前の中島周辺の世界」の
講演準備を兼ねて
《外島保養院入院者の見た中島町界隈》を
覚書を記します。
テキストは
*『風と海の中』です。
*『風と海の中』:
『風と海の中―邑久光明園入園者八十年の歩み』
1997年第2版発行、邑久光明園入園者自治会
第1版1989年
いったい保養院入院者は、
前回、取り上げた『風と海の中』の
外島保養院のあった付近の記述には、
「葦の生い茂る湿地帯」とありました。
外島保養院の創設当時の所在地について、
リーフレット*『大阪にあったハンセン病療養所』に
次のとおりに記されています。
*『大阪にあったハンセン病療養所』
:『大阪にあったハンセン病療養所-外島保養院』
大阪市保健所感染症対策課
「外島保養院の歴史をのこす会」
2017年2月発行
◇大阪には、2府10県(内訳略)の
第3区連合府県立外島保養院(大阪府主管)が
開設されました。
1908(明治41)年11月に
西成郡川北村字布屋町の一部を
大字外島と新設して
1909(明治42)年に設立されました。
創設当時は、布屋町の一部であったのが
わざわざ「外島」という大字名を新設したというのです。
「大字外島」というのは、やはり、
「葦の生い茂る湿地帯」だったのでしょうか?
*『大阪府全志』の西成郡川北村「大字外島」に
当たりました。
*『大阪府全志』:井上正雄1922年『大阪府全志』巻之3
◇本地は明治41年11月9日
大字布屋の内、
字子の割第20番乃至34番(耕地)・
第217番(井路敷)、
及び字丑の割第35番乃至51番(耕地)・
第218番(井路敷)を
割きて新設し、外島と名づけられし所なり。
慥かに布屋の内でも
「大字外島」として分割された土地は
井路敷といった水の湧くような
低湿地であったのでしょう。
耕地といえども、
水害を受けやすい
流作場であったに違いありません。
そもそも「外島」という言葉は
堤防の外の海中に
築かれた土地という意味なんでしょう。
そのような名称の大字を新設し、
地名上も元の集落から切り離して
その土地を保養院入院者に宛がえるとは
初めから保養院入院者を疎外する
当時のハンセン病患者をめぐる思潮が
かいま見えてきます。
次回は保養院を取り巻く環境について
入院していた少年少女たちの
体験を交えて記します。
大阪民俗学研究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登