外島保養院入院者の見た中島町界隈(3) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

今回も前回に引き続き、
 7月22日(日)、西淀川図書館での郷土史講演会
 「室戸台風以前の中島周辺の世界」の
講演準備を兼ねて
《外島保養院入院者の見た中島町界隈》を
覚書を記します。

 

テキストは
*『風と海の中』です。
  *『風と海の中』:
  『風と海の中―邑久光明園入園者八十年の歩み』
  1997年第2版発行、邑久光明園入園者自治会
   第1版1989年

 

前回、次回は保養院を取り巻く環境について
入院していた少年少女たちの
体験を交えて記しますと予告しました。
はたして、体験までたどりつけるやら?

 

《「室戸台風以前の中島周辺の世界」の講演
2018-06-21 18:30》でも用いた
「昭和九年室戸台風前の中島町略図」と
対照しながら
保養院を取り巻く環境についての
テキストの記述を検証します。

写真図 昭和九年室戸台風前の中島町略図
              川北小学校所蔵
        五社神社宮司 沼本湊氏作画

この地図は、中島町に鎮座する
五社神社の神職が
「昭和9年の室戸台風前」を
*小学校記念誌発刊以前に
往時を回想して
描いたものと推測されます。
 *小学校記念誌:『九十年のあゆみ』
         大阪市立川北小学校、
         1963年発行

 

地図の左が、およそ北で
地元の人の云う中島の上「カミ」です。

 

テキストには、保養院の外の様子を
記した記述があります。
◆院の外、北東約3㌔程の間に
 人家は一軒もなかった。
 広い空地と葦原と耕作地があるだけであった。

 

保養院は
地図では右下(南西端)に描かれています。
左上(北東)にかけては、
人家が描かれていません。
テキストに「人家は一軒もなかった」と
対応します。
地図では田畑に見える場所を
テキストは「広い空地と葦原と耕作地」と
記述しています。

 

テキストの記述は、
邑久光明園入園者自治会が編集したもので、
当時の外島保養院入院者による
記憶に基づくものですが、
手許に地元の*川北小学校記念誌の
記事があります。
テキストと比較したい記述です。
次回にまわします。

 

次回は、如何に外島保養院入院者の
視角が制限されたものであるのかについて
考えます。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登