●風の中の牝鶏(1948年) 監督:小津安二郎
出演:田中絹代 佐野周二 村田知英子 坂本武 高松榮子 笠智衆 水上令子 文谷千代子 岡村文子 清水一郎 三井弘次
幼子の浩を抱える時子(田中)は、洋裁で得たわずかな賃金で何とか食いつなぎながら、夫・修一(佐野)の復員を待っていた。手持ちの着物を売るほど生活が困窮するなか、浩が急性大腸カタルにかかってしまう。子供可愛さにあんこ玉を食べさせたのが災いしたのだ。病院での処置が早かったことで順調に回復するも、10日分の入院費が払えない。もう売るものなど何もない時子は、斡旋屋の織江(高松)の紹介で、一度だけ売春をした。
昔からの友達で何かと助けになってくれる秋子(村田)にそのことを打ち明けたところ、「なぜ、私に相談してくれなかったのか?」と厳しく咎められる。お金に困っているのはお互い様。秋子を困らせたくなかったのだが、自ら犯した過ちの大きさに苛まれる時子であった。
その後すぐに、修一が復員してきた。親子3人、しばし仲睦ましく喜び合う。
「留守中に何もなかったか?」と問う修一に対し、時子は動揺しながらも浩が病気になったことを話す。
「かなり費用がかかっただろう?金はどうした?」と聞かれ、ことの一切を正直に話してしまう。
ここから修一の態度が一変する。時子への態度が冷たくなっただけでなく、その時に使った曖昧宿(青線の宿)の詳細な場所、相手の男が来た時間、男の様子まで執拗に問い詰める。
そして修一は、月島にあるその曖昧宿へと訪れ、女を頼む。部屋に来たのは房子(文谷)という女。窓の外を見ながら、宿の裏手にある小学校に通っていたと言う。どこにでも居そうな21歳のお嬢さんで、平気で売春をする女には思えない。教室から聞こえる児童たちの『夏は来ぬ』の歌声。何か虚しさを感じたのだろう、修一は彼女に何もせず、お金だけを置いて宿を出ていく。
修一が隅田川の河岸で思いにふけっていたところ、後から宿を出た房子がやってくる。さらに聞けば、この仕事で働けない父と弟を養っているとのこと。房子から弁当を分けてもらった修一は、「この御礼に真面目な仕事を見つけてやる」と約束する。
友人の佐竹(笠)に房子の就職を頼んだところ、どうにか引き受けてくれた。
そのとき佐竹はこう言及する。「でも、おかしいじゃないか。その女は許せて、どうして奥さんのことは許せないのか。奥さんの身になってみれば無理もない。過ぎたことだから許してあげろよ― もう許しているのなら感情以上に意志を働かせて、その気持ちを押さえつけてしまうんだな。それは立派なことだと思うんだ―」と。
痛いほどに沁みる佐竹の言葉だが、何かが吹っ切れない修一。
家に帰ると、常に修一の顔色をうかがい、ただ許しを乞うばかりの時子に返っていら立ちが募る。また外に出て行こうとした修一と揉み合いになり、時子は階段から転げ落ちてしまう。
痛めた足を引きずりながら階段を上ってきた時子。その姿から受けた憐れみと悲しさの感情が刺激となって、心から時子を許す気持ちが固まったのだろうか。修一は、「もう二度と考えるまい、大きな気持ちになるんだ、もっと深い愛情を持つんだ、笑って信じ合うんだ」と言い、時子を強く抱きしめる。
時子が階段から落ちるシーンはスタントを使ったそうだ。
戦争の悲劇をあからさまに描かない小津監督としては異色の作品。それだけにこの映画への評価は大きく分かれかもしれない。
しかも、夫が出征中の妻の売春がテーマだけに、とても丁寧に描かないと、「こんなこと、終戦直後ならどこにでもある話」で終わってしまう。
時子の相手をした男客が、「ダメだった。ゆうことをきかないんだよ」と残念そうに女将(岡村)に語るシーンがある。時子は客を取ってお金をもらったが、行為に及んでいないことが分かる。「やったか、やらないかが問題ではない」と言えばそれまでだが、ストーリー的に何かしら時子の純潔を加えたかった気持ちがうかがえる。
そして、この作品でよく描かれているのが男の弱さだ。子供のためにやむを得ずやったことなのだから、本来なら許すも許さないもないことなのに、たった1つの過ちにつけ込んで妻を責め続けるのは、自身の不甲斐なさへの裏返しだろう。その点、女は強い。『風の中の牝鶏』とは上手いタイトルだと思うし、窮地に立たされたときの男と女の違いが良く分かる。
房子役を演じた文谷千代子さん。前に紹介した『戸田家の兄妹』や『白痴』、『姉妹』でも見かけたが、今回の『風の中の牝鶏』では印象に残る役どころで登場した。





























































