国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき | 戦車のブログ

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栗林忠道大将は辞世の句「国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」の訣別電報を昭和20年3月16日16時に大本営に対し打電​​​​した。

 

翌日、3月17日に栗林忠道は陸軍史上最年少の陸軍大将へ昇進した。

 

今から72年前のことである。

 

 

栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7月7日 ‐ 1945年〈昭和20年〉3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。

 

 

位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)。

 

 

長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。

 

真田信之を藩祖とする松代藩のあったところだ。

 

 

第二次世界大戦(大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)として知られる。

 

 

戦国時代以来の旧松代藩郷士の家に生まれる。

 

 

1911年(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。

 

在学中は文才に秀で、校友誌には美文が残されている。

 

当初ジャーナリストを志し東亜同文書院を受験し合格していたが、恩師の薦めもあり1912年(大正元年)12月1日に陸軍士官学校へ入校。

 

当時のエリート陸軍軍人の主流である陸軍幼年学校卒ではない一般中学を経ての入校であった。

 

 

陸士同期に、のちの硫黄島の戦いで混成第二旅団長に指名して呼び寄せた“歩兵戦の神”の異名をもつ千田貞季が、その他に田中隆吉、影佐禎昭らがいた。

 

 

1914年(大正3年)5月28日、陸士卒業(第26期、兵科:騎兵、席次:125番)、騎兵第15連隊附見習士官となり、同年12月25日に陸軍騎兵少尉任官。

 

1918年(大正7年)7月に陸軍騎兵学校を経て中尉。

 

1920年(大正9年)12月7日、陸軍大学校へ入校。

 

1923年(大正12年)8月、大尉。

 

同年11月29日に卒業(第35期)、成績優等(次席)により御賜の軍刀を授与されている。

 

同年12月、同姓の栗林義井と結婚。

 

その後、太郎・洋子・たか子の一男二女をもうける。

 

孫に衆議院議員の新藤義孝がいる。

 

 

騎兵第15連隊中隊長、騎兵監部員を経て1927年(昭和2年)、アメリカに駐在武官(在米大使館附)として駐在、帰国後の1930年(昭和5年)3月に少佐に昇進、4月には陸軍省軍務局課員。

 

1931年(昭和6年)8月、再度北米のカナダに駐在武官(在加公使館附)として駐在した。

 

フランス・ドイツ志向の多い当時の陸軍内では少数派であった「知米派」であり、国際事情にも明るくのちの対米開戦にも批判的であった。

 

 

1933年(昭和8年)8月、中佐、同年12月30日に陸軍省軍務局馬政課高級課員となりさらに1936年(昭和11年)8月1日には騎兵第7連隊長に就任する。

 

 

1937年(昭和12年)8月2日、大佐に昇進し陸軍省兵務局馬政課長。馬政課長当時の1938年(昭和13年)には軍歌『愛馬進軍歌』の選定に携わっている。

 

1940年(昭和15年)3月9日、陸軍少将に昇進し騎兵第2旅団長、同年12月2日、騎兵第1旅団長に就任。

 

 

大東亜戦争開戦目前の1941年(昭和16年)9月19日、緒戦の南方作戦においてイギリス領香港の攻略を任務とする第23軍参謀長に就任した栗林は作戦立案や指導にあたり、12月8日の開戦後、香港の戦いにおいて陸軍は18日間でイギリス軍を撃破し香港を制圧した。

 

1943年(昭和18年)6月10日、中将。

 

同日、第23軍参謀長から留守近衛第2師団長に就任。

 

1944年(昭和19年)4月6日、師団厨房で起きた失火による火災事故の責任をとり師団長を辞し、東部軍司令部附となる。

 

 

1944年(昭和19年)5月27日、小笠原方面の防衛担当であり父島要塞守備隊を基幹とする第109師団長に親補され、6月8日、硫黄島に着任。

 

同年7月1日には大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任、海軍部隊も指揮下におき「小笠原方面陸海軍最高指揮官」となる。

 

兵団司令部を設備の整った従来の父島から、アメリカ軍上陸後には最前線になると考えられた硫黄島に移し、同島守備の指揮を執る。

 

敵上陸軍の撃退は不可能と考えていた栗林は、堅牢な地下陣地を構築しての長期間の持久戦・遊撃戦(ゲリラ)を計画・着手する。

 

水際陣地構築および同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍の強硬な反対を最後まで抑え、またアメリカ軍爆撃機の空襲にも耐え、上陸直前までに全長18kmにわたる坑道および地下陣地を建設した。

 

 

その一方で隷下将兵に対しては陣地撤退・万歳突撃・自決を強く戒め、全将兵に配布した『敢闘ノ誓』や『膽兵ノ戦闘心得』に代表されるように、あくまで陣地防御やゲリラ戦をもっての長期抵抗を徹底させた。

 

また、島民はアメリカ軍上陸以前に本土や父島に避難(強制疎開)させた。

 

 

翌1945年(昭和20年)2月16日、アメリカ軍艦艇・航空機は硫黄島に対し猛烈な上陸準備砲爆撃を行い、同月19日9時、海兵隊第1波が上陸を開始。

 

 

上陸準備砲爆撃時に栗林の命令を無視し、応戦砲撃を行った(日本)海軍の海岸砲により擂鉢山火砲陣地が露呈し全滅するなど誤算もあったものの、十分にアメリカ軍上陸部隊を内陸部に引き込んだ日本軍守備隊は10時過ぎに一斉攻撃を開始する。

 

ホーランド・スミス中将

 

 

その夜、前線からの報告を調べたアメリカ海兵隊のホーランド・スミス中将は栗林の兵が無謀な突撃をまったく行なわないことに驚き、取材の記者たちにこう語った。

 

 

「誰かは知らんがこの戦いを指揮している日本の将軍は頭の切れるやつ(one smart bastard)だ」

 

 

 

その後も圧倒的な劣勢の中、アメリカ軍の予想を遥かに上回り粘り強く戦闘を続け多大な損害をアメリカに与えるものの、3月7日、栗林は最後の戦訓電報となる「膽参電第三五一号」を大本営陸軍部と陸大時代の兵学教官であった蓮沼蕃大将に対し打電。

 

 

さらに組織的戦闘の最末期となった16日16時には、玉砕を意味する訣別電報を大本営に対し打電。

 

翌17日、大本営よりその功績を認められ、特旨により陸軍大将へ昇進。

 

 

平時とは異なる戦時昇進ではあるが、53歳という年齢は日本陸海軍中最年少の大将である(栗林の大将任官は訣別電報を受けての進級ではあるものの、死後進級のいわゆる特進では無い)。

 

 

 

 

 

同日、最後の総攻撃を企図した栗林は残存部隊に対し以下の指令を送った。

 

  • 一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ
  • 二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス
  • 三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃、最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君{注:3語不明}テ顧ミルヲ許サズ
  • 四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ

17日当日および以降は総攻撃の機会が訪れなかったため、以来時機を窺っていた栗林は26日、約400名の将兵とともに、自ら指揮を取りアメリカ陸軍航空軍野営地に対し夜襲を敢行し、戦死したと推定されている。

 

 

満53歳没。

訣別の電文

 

 戦局最後ノ関頭ニ直面セリ 敵来攻以来 麾下将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神ヲ哭シムルモノアリ 特ニ想像ヲ越エタル量的優勢ヲ以テスル陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ 宛然徒手空拳ヲ以テ 克ク健闘ヲ続ケタルハ 小職自ラ聊(いささ)カ悦ビトスル所ナリ

  然レドモ 飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ 為ニ御期待ニ反シ 此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ 小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘザル所ニシテ幾重ニモ御詫申上グ 今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ 最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方(あた)リ 熟々(つらつら)皇恩ヲ思ヒ 粉骨砕身モ亦悔イズ 特ニ本島ヲ奪還セザル限リ 皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ 縦ヒ魂魄トナルモ 誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス 茲(ここ)ニ最後ノ関頭ニ立チ 重ネテ衷情ヲ披瀝スルト共ニ 只管(ひたすら)皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ 永ヘニ御別レ申シ上グ
  尚父島母島等ニ就テハ 同地麾下将兵 如何ナル敵ノ攻撃ヲモ 断固破摧シ得ルヲ確信スルモ 何卒宜シク申上グ
終リニ左記〔注:原文は縦書き〕駄作御笑覧ニ供ス 何卒玉斧ヲ乞フ

  • 国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき
  • 仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生れて 矛を執らむぞ
  • 醜草(しこぐさ)の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思う

 

しかし、新聞に掲載された辞世の句は

 

「国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ口惜し」

 

となっていた。

 

アメリカ合衆国においては、硫黄島の戦いの報道がリアルタイムでなされていたこともあり、この戦闘の状況と栗林の知名度は高い。

 

特に戦後、軍事史研究家やアメリカ軍軍人に対し、「太平洋戦争における日本軍人で優秀な指揮官は誰であるか」と質問した際「栗林将軍(:General Kuribayashi)」と、栗林忠道の名前を挙げる人物が多い。

 

 

戦闘自体は敗北に終わったものの、僅か22km2(東京都北区程度の面積)に過ぎない硫黄島を、日本軍の3倍以上の兵力、および絶対的な制海権・制空権を持ち、予備兵力・物量・兵站・装備全てにおいて、圧倒的に優勢であったアメリカ軍の攻撃に対し、最後まで将兵や兵士の士気を低下させずに、アメリカ軍の予想を上回る1ヶ月半も硫黄島を防衛した指揮力は、アメリカ合衆国では高く評価されている。

 

 

従来、日本軍の島嶼防衛における「水際作戦」という方針を退け、長大かつ堅牢な地下陣地を構築したうえで、不用意なバンザイ突撃による玉砕を厳禁し、部下に徹底抗戦を指示した。

 

 

その結果、アメリカ軍の死傷者総数が、日本軍守備隊のそれを上回るという成果を上げ、またM4 シャーマン中戦車やLVT等を多数撃破・擱坐させるといった「物的損害を与えること」にも成功し、のちにアメリカ軍元帥をして「勝者なき戦い」と評価せしめた。