敵前大回頭
舷側を向けた時に最大の攻撃力(=砲門数)となるのは、基本的には乗り手が矢を射掛けていた古代の軍船から現代の軍艦に至るまで変わっていない。
前後に並んだ砲塔で敵を狙うには、艦の横腹を向けるしかないからである(黄海海戦 (日清戦争)時の清国海軍定遠級戦艦のような、前後方向に攻撃力の高い艦は、むしろ軍艦史において例外的存在である)。
日露戦争当時の軍艦は主砲を旋回砲塔に収める他は、多くの副砲をケースメート(砲郭)式という「艦の横方向にしか撃てない」方式で備えていたため、なおさらこの傾向が強い。
そして横方向に砲撃する都合、および陣形を組むのが簡単である事から、この時代の艦隊は単縦陣が主流であった。
単縦陣でまっすぐ進む敵艦隊に対して、その進路を横にふさぐ形、丁の字(あるいはT字)に似た体勢を形成できれば、敵の後続艦がまだ遠いうちに、敵先頭艦が前を向いている状態で味方の全艦艇の側方から先頭艦へ攻撃を浴びせることが出来るため、圧倒的に有利な形勢となる。
この戦法自体は海戦の定石として古くから知られていたが、敵艦隊もそのような形を避けようとする事と、交戦時間の経過に伴い相対的位置関係がずれてゆくため、実際に丁字を描くのは不可能に近いと言われていた。
東郷司令長官と秋山真之参謀は黄海海戦 (日露戦争)で丁字戦法を実施したが失敗した。
この教訓と試行錯誤の末、「敵艦隊の先頭を我が艦隊が押さえなければ、逃げる敵との砲撃戦は成立しない」という教訓を得た。
その解決策として秋山らが考案したのが連携水雷作戦(敵艦隊に機雷源への突入か砲撃戦かの選択を強いる)である。
しかし決戦当日は荒天となり、その使用は不可能となってしまった。
そこで次善の策として考え出されたのが、敵前逐次回頭という敵の盲点を衝く事と、連合艦隊の優速を活かし、強引に敵を同航砲撃戦に持ち込む事だった。
定針せず回頭中の艦は、敵にとっては針路を予測するのが困難で、砲撃を受けて被弾する確率は大きくない。
ただし逐次回頭の場合の単縦陣後続艦は、先頭艦の航路をたどるので予測される虞れはある。
同航砲撃戦
14時08分、先頭の「三笠」は約150度の回頭を終え東北東に定針し、バルチック艦隊の航路の斜め前方7,000mを浅い角度(約20度)の丁字形で圧迫を始めた。
ほぼ同時にバルチック艦隊は砲撃を開始し「三笠」に攻撃を集中した。
14時13分、距離6,000m。連合艦隊第1戦隊は回頭を完了し、右舷側にバルチック艦隊の30隻以上が見渡せた。
連合艦隊第1戦隊に航路を圧迫されることになったバルチック艦隊は、まず第1戦艦隊が右舷逐次回頭し同航(並航)体勢に移行を始めた。
そして隊形が多少不完全だったが、艦隊主力全力を以て単縦陣を整え、「三笠」への攻撃集中および同航砲撃戦を受けて立つ形を作り始めた。
連合艦隊は考えた戦法通りに同航砲撃戦を強要したことになる。
従来では大回頭ののち、日本艦隊は丁字の形を完成させ丁字戦法を行ったと言われてきた。
しかし戸高一成の調査などで
1.海軍側の一次史料である戦闘詳報や公判戦史などに「日本海海戦で丁字戦法を行った」という記述がない
2.同じく制作された日本海海戦の日露両艦隊の航路図には丁字の形をしたものは存在しない事(大回頭後の形は並航戦)
などから後述する日本海軍独自の極秘戦法だった「連携機雷戦」を隠すため、黄海海戦で失敗し、日本海海戦では使わなかった丁字戦法をいわばダミーとして公表し、それが世間に真実として広まってしまったのではないかという意見も出ている。
あったという意見も未だ根強いが、海軍の一次資料に記載がないのと正確な航路図にそのような形が見当たらない事もあり、大回頭の事は書いてあっても、丁字戦法については触れていない書籍も多くなっている 。
連合艦隊第1戦隊は回頭を完了した艦からバルチック艦隊の先頭の第1戦艦隊旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」と第2戦艦隊旗艦「オスリャービャ」に対して榴弾(徹甲榴弾)による一斉砲撃を開始した。
連合艦隊第1戦隊は回頭を完了した艦からバルチック艦隊の先頭の第1戦艦隊旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」と第2戦艦隊旗艦「オスリャービャ」に対して榴弾(徹甲榴弾)による一斉砲撃を開始した。
「クニャージ・スヴォーロフ」に向けられた「三笠」の4射目は砲弾は司令塔の覗き窓に飛び込んで半数即死、半数を負傷させた。
14時17分、連合艦隊の砲弾がバルチック艦隊の両旗艦に多数命中し火災を発生させた。
この頃、連合艦隊第1戦隊は命中率をさらに上げるために約5,000mに距離を詰めた。
これに伴い「三笠」の被弾も急増した。
また連合艦隊第2戦隊(装甲巡洋艦6隻)も回頭を完了し第1戦隊の航路に続く単縦陣に加わった。
バルチック艦隊第2戦艦隊も第1戦艦隊の航路に続く単縦陣を懸命に整えつつ砲撃を行った。
連合艦隊主力とバルチック艦隊主力との単縦陣同士の同航砲撃戦は最高潮となった。
連合艦隊はバルチック艦隊の北(間隔は約5000m)を浅い角度の丁字の形を保ち先行しながら東北東の針路で同航した。
両艦隊はその後何回か浅い角度の右転針を行ったが、連合艦隊は優速により常にほぼこの形を保った。
バルチック艦隊の速度11ノットに対して日本の艦隊は15ノットであった。
浅間
14時27分、第2戦隊所属の装甲巡洋艦「浅間」が被弾により舵機を損傷し戦列から離れた。
しかしこれを除けば、連合艦隊は各艦の戦闘力を維持した。
これに対してバルチック艦隊主力艦は多数の榴弾(徹甲榴弾)の被弾により急速に戦闘力を失っていった。
「三笠」へ向けて集中する砲撃の命中も減り被弾は峠を越えた。
14時35分、連合艦隊第1戦隊は東北東の針路から東へ転針を行った。
14時43分には東南東へ転針を行った。
これにより先述のようにバルチック艦隊の頭を抑える浅い角度の丁字の形を保持しつつ、同艦隊のウラジオストックへの進路も遮蔽していった。
この間にも連合艦隊の砲弾は着実にバルチック艦隊各艦をとらえ、14時50分、「クニャージ・スヴォーロフ」と「オスリャービャ」は甲板上や艦内の各所で火災を起こしながら右へ大きく回頭して戦列から離脱した。
この30分間の砲戦で、バルチック艦隊は攻撃力を甚だしく失った。
連合艦隊の第3・第4・第5・第6戦隊は大回頭に参加せずバルチック艦隊の後方を回り、14時45分に第3・第4戦隊が主力艦隊の右方にいたバルチック艦隊の巡洋艦・特務船に対する攻撃を開始した。
第2戦隊の独断専行
インペラートル・アレクサンドル3世
「クニャージ・スヴォーロフ」の急な右回頭は舵の故障によるもので、回頭を続け回転していた。
「クニャージ・スヴォーロフ」に続くバルチック艦隊の2番艦、戦艦「インペラートル・アレクサンドル3世」の艦長ブフウオトフ大佐はすぐにこれを見抜き、事前の取り決めどおり自身が先頭に立つことを決め、東南東の針路を保持した。
しかし「インペラートル・アレクサンドル3世」も集中砲火を受けて列外に出た。
バルチック艦隊主力は、同航戦で南東に針路を取る連合艦隊第1・第2戦隊に先行され、北東からの圧迫・砲撃を受け、東南東への進路も遮られつつあった。
ボロジノ
14時55分頃、後を引き継いだ戦艦「ボロジノ」艦長セレブレーンニコフ大佐は、第2戦隊の後方を北方にすり抜けるため艦隊を率いて左へ回頭し変針した。
これに対応するため、東郷は第1・第2戦隊に「左八点一斉回頭」(全艦左へ90度一斉に回頭)を命じ、第1戦隊は14時58分に各艦が北東へ変針を行った。
しかし第2戦隊の上村は、後方をすり抜けようと急に回頭し接近を始めた「ボロジノ」およびバルチック艦隊主力を見て、東郷の命令に従わず、速度を17ノットに上げ南東にほぼ直進のまま舷側戦闘を15時10分まで続けた。
これにより第2戦隊単独で近距離となったバルチック艦隊主力に対し北東から東に先行して回り込んで圧迫・戦闘を行った。
この別機動は、第2戦隊までもが一斉回頭すると東方向ががら空きになることを判断したとも考えられ、第1戦隊の丁字形攻撃へ敵艦隊を追い込む働きも生んでいる。
このような第2戦隊の優速を生かした連携機動は、連合艦隊の乙字戦法として検討を練ったものでもあり、本海戦で生かされた。
「クニャージ・スヴォーロフ」の脱落後は「インペラートル・アレクサンドル3世」や「ボロジノ」がバルチック艦隊の針路を決めていたが、乗員が後の沈没時に「ボロジノ」の砲員1人を残して戦死したため、正確な航路やその意図を測ることは不可能になっている。
この後の展開は第1戦隊と第2戦隊の報告が食い違ったものになっており、日本側の戦史では両方をそのまま掲載してしまっている。
ただし海戦図として残されたのは第1戦隊のものが基礎となっている。
また第2艦隊先任参謀であった佐藤鉄太郎はさらに違った証言を残している。
この最中の15時7分あるいは同10分には「オスリャービャ」が沈没している。
またバルチック艦隊の後方で離れて航行していた病院船「アリョール」と同「コストローマ」は、15時30分に仮装巡洋艦「佐渡丸」や同「満州丸」に捕捉され、臨検のため荒れた外海から三浦湾に移動させられた。
第1戦隊による報告
第1戦隊は、14時58分に「左八点一斉回頭」を行い北東に進む単横陣となったが、第2戦隊が敵との間に入り込んでしまったため砲撃を一旦停止した。
15時5分に北方に進む敵の前面に出るため「左八点一斉回頭」を行い、装甲巡洋艦日進を先頭にした逆順単縦陣となり、速度を下げて西北西に進み、15時7分に北進するバルチック艦隊に対し丁字形に近い形で左舷戦闘を開始した。
バルチック艦隊は4000m以下の近距離で砲撃を受けることになり、艦列を乱しつつ、「ボロジノ」が右へ回頭し一時的に東進する反航戦の態勢となった。
ここで「インペラートル・アレクサンドル3世」が先頭に復帰したが、さらに右へ回頭を続け、バルチック艦隊主力は第2戦隊の圧迫からも逃れる南方に一時的に進んだ。
この約30分間、バルチック艦隊主力は同航戦の形を避けほぼ定針せず回頭を続けた。
第1戦隊は反航戦を行いながら西北西への直進を続けた。
この戦闘の終盤では、機関の調整によって操船の自由をある程度取り戻し北進する「クニャージ・スヴォーロフ」を発見し砲撃を加えたが、他の敵艦主力からは遠ざかりすぎて見失った。
「クニャージ・スヴォーロフ」は砲撃戦を避けるように回頭運動を行い、東郷はそれを見て既に戦闘力を失っていると判断し砲撃を切り上げ、第2戦隊が追いついてから合流して敵主力艦隊を追うことにした。
15時40分ごろ「左八点一斉回頭」を再度2回行い、15時49分には「三笠」を先頭にした単縦陣に戻って東へ、そしてその後、北東へ針路をとった。
右へ回頭を続け南方に一旦逃れたバルチック艦隊は回頭を続けながら列の整頓を行い、再びウラジオストクを目指して北へ進んだ。
「クニャージ・スヴォーロフ」は、第1・2戦隊の攻撃を逃れ、孤立したまま北に針路を変更し主力の前方を進む形となった。
第2戦隊による報告
15時5分頃、第2戦隊は、北東に進む単横陣の第1戦隊各艦の後尾を直進の単縦陣で通過しながら、右舷斜め後方に距離3,000mにまで接近したバルチック艦隊に攻撃を続けた。
バルチック艦隊は右へ回頭を続けていた。
しかし第2戦隊は浅く右折したがほぼ南東へ直進を続けたので次第に後方のバルチック艦隊主力との距離は遠ざかった。
15時10分に「左16点逐次回頭」を行い、15時16分に針路を北西とした。
第2戦隊は反転してバルチック艦隊主力に再接近を始めた。
15時20分に左舷側のやや前方を列を乱しながら北へ向かうバルチック艦隊主力に対し距離6,000mで砲撃を再開した。
15時26分には針路を西北西にとり、バルチック艦隊には距離3,000mまで近づき通り過ぎながら攻撃したが、その後、濃霧と爆煙で見失った。
15時34分には左舷に今度は「クニャージ・スヴォーロフ」を発見し、1,700mという至近距離で激しく砲撃を加えたがほとんど反撃が無く、第1戦隊との合流を急ぐためそれ以上の砲撃は切り上げた。
先に見失ったバルチック艦隊主力は第2戦隊が通り過ぎたあとを北側に抜けたと推測され、さらに前方に第1戦隊を発見したため、15時47分に右へ約150度回頭して第1戦隊の左前方に入り合流し、東へ、そしてその後、北東へ針路をとった。
佐藤の証言
1935年(昭和10年)に記録された「日露戦役参加者 史談会記録」による佐藤の証言によれば、「クニャージ・スヴォーロフ」は14時50分の段階でまだ列の戦闘にいて、そこから舵の故障で左折して後続の艦が列を乱したとしている。
第2戦隊の「左16点逐次回頭」には触れているが、バルチック艦隊主力の行動については触れていない。
浪速
追撃
15時55分、第1戦隊は南方にバルチック艦隊の主力を発見し、16時1分に距離6,500mで砲撃を再開した。この戦闘は長く続かず、16時35分に第1戦隊が敵の北進に備え「左八点一斉回頭」を行った際にバルチック艦隊が南方へ逃れ、直進していた第2戦隊も敵を見失って終わった。
第1・第2戦隊は敵を追って南に向かった。
この間に「クニャージ・スヴォーロフ」は両艦隊の間に入り込んでしまい、さらなる攻撃を受けている。
第3・第4戦隊は反航戦から同航戦に移りつつ攻撃を繰り返し、16時20分には曳船「ルーシ」を撃沈し、仮装巡洋艦「ウラル」や工作艦「カムチャツカ」にも損害を与え脱落させた。
第5・第6戦隊も攻撃に加わったが、16時40分に南下してきたバルチック艦隊主力の一部と遭遇し、巡洋艦「浪速」が浸水するなど被害を受けたため一旦退避した。
この時にバルチック艦隊は主力と巡洋艦・特務船が合流し、北へと針路を変えた。
また第3戦隊旗艦の巡洋艦笠置は15時7分ごろ水線部に受けた損傷で浸水がひどくなり、18時に油谷湾で修理を行うため離脱した。
これには護衛と第3戦隊司令官出羽重遠の移乗のため巡洋艦「千歳」が同行し、巡洋艦「音羽」、同「新高」は臨時に第4戦隊に合流した。
ブイヌイ
「クニャージ・スヴォーロフ」は上部構造物のほとんどを破壊され海上を漂うようにしていたが、17時30分ごろ駆逐艦「ブイヌイ」がこれを発見、ロジェストヴェンスキーや幕僚らを移乗させて他の艦を追った。
ロジェストヴェンスキーは頭部に負傷を負って意識を失いかけており、指揮権をネボガドフに譲った。
「クニャージ・スヴォーロフ」はその後も攻撃を受け、最終的に第5戦隊に随伴していた第11艇隊の魚雷により19時20分、沈没した。
またそれより先の19時ごろ、その周辺に漂流していた「カムチャツカ」は第4戦隊などの攻撃により沈没している。
第1戦隊は17時28分には南進を続ける第2戦隊と分離して北北西に向かった。
第1戦隊は17時40分ごろには孤立していた「ウラル」を撃沈した。
さらに17時57分、ほぼ同方向に進むバルチック艦隊を発見して砲撃を再開した。
第1戦隊は17時28分には南進を続ける第2戦隊と分離して北北西に向かった。
第1戦隊は17時40分ごろには孤立していた「ウラル」を撃沈した。
さらに17時57分、ほぼ同方向に進むバルチック艦隊を発見して砲撃を再開した。
この時のバルチック艦隊のうち、「クニャージ・スヴォーロフ」と「オスリャービャ」を除いた主力艦10隻は「ボロジノ」を先頭としてそれに「オリョール」が続き、損害の大きな「インペラートル・アレクサンドル3世」などが後方に回っていた。
第1戦隊は当初「ボロジノ」に攻撃を集中し、爆煙で照準が困難となったあとは主に「オリョール」を狙った。
この際は距離が詰まらず、18時45分以降、第1戦隊は主砲のみでゆっくりとした射撃を行った。
19時頃には「インペラートル・アレクサンドル3世」が大きく左へ列外に出てから沈没した。
それに後続して列外に出た海防戦艦「アドミラル・ウシャーコフ」、戦艦「ナヴァリン」、同「シソイ・ヴェリキー」、一等巡洋艦「アドミラル・ナヒーモフ」はそのまま南方に逃走しようとしたが、敵艦が見つけられなかったために北上してきた第2戦隊を発見して再び北へ向かった。
しかし残りの主力艦と合流しきれず、夜間に四散して各個撃破された。
日没を迎えた後も砲戦は続いたが19時10分に「三笠」は砲撃を中止し、後続の各艦もそれに倣い19時20分に砲戦が終了した。
しかしその時、「ボロジノ」は2回の大爆発を起こし転覆、沈没した。
日本側はこの27日昼間の戦闘を一まとめに第1合戦としており、以降の戦闘にも発生順に数字をつけている。
連合艦隊の戦艦・巡洋艦は翌日の戦闘に備え鬱陵島に向けて移動を開始し、昼間は所属戦隊に付随していた駆逐隊と水雷艇隊は、日没に備えてバルチック艦隊の周囲に接近し、完全に暗くなると北・東・南の三方から次々と襲撃に移った。
夜間戦闘
夜間攻撃は昼間とは違った危険がある。
連合艦隊の駆逐艦「夕霧」と「春雨」は衝突事故を起こして共に小破し、他に水雷艇同士の2件の衝突事故で1艇を失っている。
バルチック艦隊司令官のロジェストヴェンスキー中将は旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」の艦上で負傷し、5月27日17時30分に駆逐艦「ブイヌイ」に移乗したが、艦尾に砲弾を受け破損の激しい「ブイヌイ」から更に駆逐艦「ベドヴイ」に再び移乗した。
「ベドヴイ」と随行の駆逐艦「グローズヌイ」は日本の駆逐艦「漣(さざなみ)」と駆逐艦「陽炎」に発見・攻撃されたが、反撃せずに全速で逃亡を試みた。
連合艦隊の駆逐艦は30ノットで追撃したのに対し、ロシア駆逐艦は26ノットで攻撃を避けられなかった。
「ベドヴイ」は機関が故障して停止し、降伏した。
「漣」は直ちに伊藤伊右衛門中尉および准士官以下7名の捕獲要員を送り込み、5月28日16時45分に「ベドヴイ」をロジェストヴェンスキー司令官とともに捕獲した。
「グローズヌイ」は逃走に成功し、数少ないウラジオストック到着組の1つとなった。
「ベドヴイ」はこの海戦後、ロジェストヴェンスキー中将と幕僚ごと佐世保に曳航された。
ベドーヴイ
19時03分、戦艦「インペラートル・アレクサンドル3世」撃沈。
バルチック艦隊の第1・第2戦艦隊は壊滅し、ロシアの第1・第2戦隊でウラジオストクまで到着したのは巡洋艦「アルマース」と駆逐艦が2艦のみであった。
20時20分、第3・第4駆逐隊の雷撃によって装甲巡洋艦「アドミラル・ナヒーモフ」が撃沈。
第4駆逐隊司令鈴木貫太郎
21時05分、第4駆逐隊司令の鈴木貫太郎は、連繋機雷作戦を用いて戦艦「ナヴァリン」を葬り、22時15分、戦艦「シソイ・ヴェリーキー」を雷撃によって大破させた。
6時間半の夜間戦闘で50本の魚雷が放たれ6本が命中した。