日本海海戦 1905年(明治38年)5月27日 その1「敵艦見ユ」 | 戦車のブログ

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日本海海戦(にほんかいかいせん、1905年5月27日 - 28日)は、日露戦争中に行われた海戦である。



日本以外ではこれを主力決戦の場所にちなみ対馬沖海戦(つしまおきかいせん、英語:Battle of Tsushima、ロシア語: Цусимское сражение(Tsusimskoye srazheniye)と呼ぶ。



この海戦は日本海軍の連合艦隊と、ロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊との間で戦われた。



連合艦隊はロシア海軍両艦隊を撃滅し戦力のほとんどを失わせたが、連合艦隊の損失は軽微という海戦史上まれな一方的勝利となった。




これにより両国間のポーツマス講和会議への道を開いた。



なお日本では上記のロシア海軍両艦隊を指して「バルチック艦隊」と呼ぶことが定着しており本稿でもこの呼び名を用いる。





「敵艦見ユ」




1905年(明治38年)5月27日(海戦1日目)午前2時45分、九州西方海域203地点付近にて、艦長成川揆大佐指揮の連合艦隊特務艦隊仮装巡洋艦「信濃丸」が汽船(バルチック艦隊の病院船「オリョール」であった)の灯火を夜の海上に視認した。


接近したところ、4時45分突如無灯火航行中の艦影・煤煙を多数視認し、此を無線電信で通報せんとした。



「敵艦見ユ」である。



「信濃丸」が夜間に病院船「オリョール」を発見できたのは、バルチック艦隊で1艦だけ「オリョール」が灯火管制を守っていなかったためであった。





第一報ともされている(違う戦闘のものとも思われる)電文のどこかの段階での電報送達紙とその訳文(平文)を載せている書籍には『タタタタ(モ四五六)「YR」セ』(敵艦隊見ユ 456地点 信濃丸、略符号を丸括弧で囲むのは電報業務の一般的慣習。最後の「セ」は不明)とある。



また同書には送信が午前4時40分と(電報送達紙の時刻ではない)ある。



これは翌28日の電報としている文献もある。



通報の詳細は、「日本海海戦における通信」によれば以下の通りである。


艦影を確認した「信濃丸」は全速で退避しつつ決死で此を通報せんとする。


緊急のため、規定の発信元・宛先等を付けられず、午前5時ごろから約1時間の間に、本文のみで以下4通を発信する。


「タタタタ 敵第二艦隊見ゆ」「敵艦隊二百三地点、午前五時」「敵は東水道を通過せんとするものの如し」「十五隻以上目撃す」。しかし無線機の性能のため麾下の艦には直接達せず、「三笠」は午前5時05分、「厳島」の中継により「タタタタ 敵第二艦隊見ゆ」を受信する。



以降、出所不明の電波により混乱するも、続報の受信により敵の動静を把握する。(なお、暗号については当資料では触れられていない。参照として挙げられているのは「明治三七、八年海戦史 第二部 第二巻」)




「信濃丸」は夜間とはいえ危険を冒してロシア艦隊に並航し観測を行い電波を発射し続けていたが、バルチック艦隊からは発見されなかった(当時は無線方位測定器の実用化以前)。




「信濃丸」は6時すぎまでバルチック艦隊に同航し敵艦隊が間違いなく対馬海峡を目指している事を確認してから、警戒任務のために近くにいて偵察に駆けつけた第3艦隊第6戦隊所属の巡洋艦「和泉」と交代後、敵に発見されることなく離脱した。



「和泉」は6時に引き継いでから7時間に渡り敵の位置や方向を無線で通報し続けた。

ロジェストヴェンスキー



ロシア側からの記述では、「オリョール」乗員は午前5時すぎに汽船を認め、その後、朝靄の中にロストしている。



曰く、「旗はよく見えなかったが、どうも胡散くさく――日本の哨戒船に相違なかった」。


ロジェストヴェンスキーは、何もしなかった。



午前6時ごろ船が現れ、接近してみると「和泉」だと判った。



「和泉」はまる一時間ほど、ロシア艦隊と同じ針路で進んだ。



受信機には暗号があわただしく入ってきた。



ロジェストヴェンスキーは、砲を「和泉」に向けるよう命令したが、狙いをつけただけだった。



(以下しばらく記述が続き、午前9時過ぎ、複数の日本艦の出現の記述の後)「ウラル」は600哩を交信できる(大出力の)無線機を具えていたのだが、「ウラル」からのロジェストヴェンスキー向けの通信妨害の許可を求める信号に対し「日本側ノ無電ノ邪魔ヲスルナ」と応答があり、通信妨害はおこなわれなかった。



ともあれ、世に言う「敵艦見ユ」・「敵艦隊二百三地点ニ見ユ 敵ハ東水道ニ向カウモノノ如シ」が通報され、日本海海戦の火蓋が切られたわけである。




連合艦隊出撃


5時35分、連合艦隊に「直ちに出港用意」が 下令された。6時6分、三笠は航進を起こし、連合艦隊は出港を始めた。



6時21分、連合艦隊は大本営に向け「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と打電した(打電文の最後の「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」は秋山真之が書き加えた。)。



7時10分、三笠は加徳水道を抜け鎮海湾から外洋に出た。



クニャージ・スヴォーロフ


艦隊集結



10時には最初に駆けつけた第3艦隊第5・第6戦隊がバルチック艦隊を確認した。



バルチック艦隊も、夜明けから「和泉」やその後の第5・第6戦隊を確認していた。



11時すぎに旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」の掲げた「和泉」との距離を示す旗旒信号を発砲命令と誤認した後続の諸艦が砲撃を行った。



日本側も多少の砲撃を返すが戦闘状態を避けて、常に距離を保った。双方に1発の命中弾もなかった。




第3艦隊第5戦隊の巡洋艦「厳島」「松島」「橋立」と二等戦艦「鎮遠」がバルチック艦隊の前方を横切った。



その後、第3艦隊第4駆逐隊の駆逐艦4艦「朝霧」「村雨」「白雲」「朝潮」がバルチック艦隊の前方を距離を保ったまま横切った。



第5戦隊や第4駆逐隊側では敵艦隊の正面から方向を測定することで敵針路を正確に掴む、単なる偵察行動だったが、針路の前方海域に機雷が撒かれた場合の危険を避ける為、バルチック艦隊は回避運動に入った(他説あり。ただし日本側は連携水雷作戦を考案しており、あながち間違った判断ではない)。



ロジェストヴェンスキーは戦後、「和泉」などが見えなくなった隙に第1・第2戦艦隊を一列横陣に展開しようとしたが第3戦艦隊が接近してきたためその命令を途中で取り消した、と述べている。



しかし、この時の艦隊運動がバラバラで、もともと2列縦隊であった隊列はいつのまにか3列縦隊となり巡洋艦部隊は後方に遅れた。



後日、連合艦隊主力の多くの水兵はロシア艦隊を初めて見たときの印象を「敵はダンゴでやってきた」と語っている。



接近


11時42分、第3艦隊第7戦隊も沖ノ島沖でバルチック艦隊を確認し、その後、友軍と合流した。




13時15分からは、第3戦隊旗艦「笠置」をはじめ、バルチック艦隊に同航して敵所在を通報していた第3艦隊各艦が列をなして第1・第2艦隊に合流しはじめた。




13時39分、南西の針路に共に単縦陣で進む連合艦隊主力の第1・第2戦隊は、北東の針路に進むバルチック艦隊をほぼ艦首方向に視認し、三笠は戦闘旗を掲揚して戦闘開始を命令した。



続いて右舷面舵で北西へ変針し、バルチック艦隊の針路の左舷側(北西側)へ横距離を確保し始めた。





13時55分、三笠は左舷取舵を行い針路を西にとり、バルチック艦隊への反航路接近の体勢に転じた。



その時、両艦隊の距離は12,000m。東郷は連合艦隊旗艦「三笠」へのZ旗の掲揚を指示した。






この時連合艦隊が使用していた信号簿ではZ旗は「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という文言が割り当てられていた。



14時02分、さらに三笠は左舷取舵を行い針路を南西にとり、連合艦隊第1戦隊はバルチック艦隊に対して間隔約6,000mのほぼ完全な反航路(平行すれ違い)上につく。



連合艦隊とバルチック艦隊との距離は10,000mを切り、そのまま両艦隊が進むと先頭の旗艦同士がすれ違うのは14時10分頃となる。



14時05分、距離8,000m、東郷は大角度の針路変更を指示、すなわち、ほぼ同航かつバルチック艦隊先頭を圧迫する隊形へ変更するよう第1戦隊に左舷取舵約150度の逐次回頭を指示した。




先頭をいく三笠は「敵前大回頭」(トーゴー・ターン)を始めた。




敵前大回頭



舷側を向けた時に最大の攻撃力(=砲門数)となるのは、基本的には乗り手が矢を射掛けていた古代の軍船から現代の軍艦に至るまで変わっていない。



前後に並んだ砲塔で敵を狙うには、艦の横腹を向けるしかないからである(黄海海戦 (日清戦争)時の清国海軍定遠級戦艦のような、前後方向に攻撃力の高い艦は、むしろ軍艦史において例外的存在である)。



日露戦争当時の軍艦は主砲を旋回砲塔に収める他は、多くの副砲をケースメート(砲郭)式という「艦の横方向にしか撃てない」方式で備えていたため、なおさらこの傾向が強い。



そして横方向に砲撃する都合、および陣形を組むのが簡単である事から、この時代の艦隊は単縦陣が主流であった。



単縦陣でまっすぐ進む敵艦隊に対して、その進路を横にふさぐ形、丁の字(あるいはT字)に似た体勢を形成できれば、敵の後続艦がまだ遠いうちに、敵先頭艦が前を向いている状態で味方の全艦艇の側方から先頭艦へ攻撃を浴びせることが出来るため、圧倒的に有利な形勢となる。



この戦法自体は海戦の定石として古くから知られていたが、敵艦隊もそのような形を避けようとする事と、交戦時間の経過に伴い相対的位置関係がずれてゆくため、実際に丁字を描くのは不可能に近いと言われていた。





東郷司令長官と秋山真之参謀は黄海海戦 (日露戦争)で丁字戦法を実施したが失敗した。


この教訓と試行錯誤の末、「敵艦隊の先頭を我が艦隊が押さえなければ、逃げる敵との砲撃戦は成立しない」という教訓を得た。



その解決策として秋山らが考案したのが連携水雷作戦(敵艦隊に機雷源への突入か砲撃戦かの選択を強いる)である。




しかし決戦当日は荒天となり、その使用は不可能となってしまった。



そこで次善の策として考え出されたのが、敵前逐次回頭という敵の盲点を衝く事と、連合艦隊の優速を活かし、強引に敵を同航砲撃戦に持ち込む事だった。



定針せず回頭中の艦は、敵にとっては針路を予測するのが困難で、砲撃を受けて被弾する確率は大きくない。




ただし逐次回頭の場合の単縦陣後続艦は、先頭艦の航路をたどるので予測される虞れはある。