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宮崎 勇(みやざき いさむ、1919年(大正8年)10月5日 - 2012年(平成24年)4月10日)は、広島県呉市出身の大日本帝国海軍軍人。
最終階級は海軍少尉。
太平洋戦争における撃墜王。
なお名字の本来の表記は「宮"﨑"」であるが、環境依存文字のため、標記の文字とする。
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海軍入隊
1919年(大正8年)10月5日、広島県呉市に生まれた。
父は呉海軍工廠勤務であった。
小学校に上がるときに香川県に引っ越す。
中学1年の時に善通寺の練兵場で、アクロバット飛行ショーを見てから空に憧れるようになった。
父の仕事や、海軍士官を父に持つ同級生の影響もあって、1936年(昭和11年)6月香川県立丸亀中学(現:丸亀高校)を3年で中退し、佐世保海兵団に入団する。
半年の海兵団教育を終えて水兵として、軍艦「磐手」に配属された。
「磐手」は1937年にインド洋・スエズ運河経由で、フランスまで遠洋航海をおこなっている。
のちに宮崎はこの時の体験を、「若い時に貴重な体験ができて本当によかった。」と述壊している。
その後、水上機母艦「千歳」・軽巡洋艦「長良」・砲艦「熱海」乗り組みを経たのち、上司の勧めを受けて1940年(昭和15年)11月、第2期丙種飛行予科練習生となり、土浦海軍航空隊に入隊。
百里原空で初歩練教育、宇佐空で艦爆の実用機教育を受け、1941年(昭和16年)に飛練を卒業した後は戦闘機操縦に転科した。
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横須賀空に配属された宮崎は、樫村寛一一飛曹の列機となり、以後約一年間にわたって樫村に鍛えられることになる。
1942年4月18日、ドーリットル空襲迎撃へ樫村の列機(一番機樫村一飛曹、二番機五日市末治二飛曹、三番機が宮崎三飛曹)として上がった。
宮崎らは双発機(B-25)を確認していたが、敵機は艦載機であろうという思い込みと、出発前の飛行長の「味方陸軍の双発戦闘機二機が飛行試験をしている」との注意から、これを日本機と誤認し、結局見逃してしまった。
転勤で横空を去る際に樫村からは、「日本一の横空でこそまだまだと思うかもしれんが、よそに行ったら誰にも負けん。自信持って行け。」等、励ましと実戦での注意を受けた。
宮崎は「厳しかったけど、今生きているのは樫村さんのお陰です。」と述懐している。
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二五二空
1942年(昭和17年)10月、二五二空編成の人集めのため、横空に来た二五二空飛行隊長の菅波政治大尉から引き抜かれる形で、同期の鎌田哲夫とともに、二五二空へ転勤となる。
11月9日に空母「大鷹」でラバウルに進出した。
初陣は12日のガダルカナル島ルンガ泊地に入港した敵輸送船団を攻撃するための陸攻隊直掩、ガダルカナル沖でF4Fを初撃墜するが、基地帰還後に隊長の菅波政治大尉に「深追いするなと言ってただろう!」と叱られた。
2日後の11月4日、輸送船団の上空直衛任務後、二番機の宮崎は菅波隊長に付き添うことを断られ、菅波は単機で戦果確認に戻り戦死した。
宮崎らの252空はラバウルを拠点に、バラレ島・ブイン・ラエの各飛行場に進出し、ソロモン・東部ニューギニア方面での戦いに従事した。
宮崎はこの期間2度、空中被弾・海上不時着し、いずれも生還している。
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1943年(昭和18年)2月、252空は内南洋方面への転進を命ぜられ、部隊は同方面の広い範囲にわたって分散して進出した。
宮崎の当初の配置はウェーク島であった。
進出後半年程度は、時折米軍機の空襲があったものの比較的平穏で、非番の日には釣りに行ったり演芸会を行っていた。
11月、米軍がマキン・タラワに上陸すると、宮崎ら252空は零戦に爆弾を装備して出撃した。
やがて両島が玉砕し米軍が飛行場を完成させると、マーシャル諸島の各基地に連日のように爆撃が行われるようになり、宮崎らは邀撃に追われた。
約2か月間にわたる米陸軍機による空襲で消耗していたところに、1944年(昭和19年)1月30日米機動部隊による大空襲を受け、マロエラップの252空は壊滅した。
2月5日、252空搭乗員は一式陸攻に分乗してマロエラップを脱出。2月中旬には内地に帰還して、館山で再建を開始した。
6月にマリアナ諸島に米機動部隊が来襲し、あ号作戦が発令された。
252空は横空を中心とする「八幡部隊」に編入され、宮崎は6月25日に硫黄島に進出した。
しかし数次にわたる米機動部隊艦載機の攻撃により、またもや252空は壊滅し、再び内地で再編作業に当たった。
10月10日、沖縄が米機動部隊の攻撃を受け、252空も小禄、次いで台中に進出したが、台湾沖航空戦には間に合わなかった。
22日にはフィリピンのマバラカットに進出し、24日ルソン島東海上で米機動部隊に攻撃を行った。
その夜、飛行長の新郷英城少佐によって集合が掛けられ、特別攻撃についての説明の後、「特攻に希望しない者は一歩前に出ろ」と告げられた。
前に出るものはなく、搭乗員全員はそのまま特攻配置となった。
11月1日に飛曹長に進級し、特攻待機のある日、宮崎・岩本徹三・他1名に飛行機受領のため内地帰還命令が出た。
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三四三空
内地に帰った宮崎は1944年12月第三四三海軍航空隊(剣部隊)戦闘301飛行隊(新撰組)へ転属となった。
301飛行隊隊長はマバラカットで一緒だった菅野直大尉。
343空は紫電改を集中配備され源田実司令の構想のもと編隊空戦、情報通信に重点を置いた猛特訓を宮崎らは受けることになる。
宮崎は新撰組という隊名に気概を持ち「我こそは近藤勇なり」と言っていた。
菅野隊長とは懇意でありたびたび2人で外出した。
ある晩菅野に誘われ無断外出をして温泉へ行った際、源田司令と温泉ではち合わせた。
無断外出は明らかな違反行為で小さくなった2人に源田は「温泉はいいのう、気をつけて帰れよ」と声をかけ咎めなかったという。
343空は1945年(昭和20年)3月19日に、呉に来襲した米機動部隊艦載機の邀撃で初陣を飾ったが、宮崎はこの日出撃第二陣であり会敵の機会はなくその後も鹿屋・国分・大村と移動して沖縄作戦・本土防空戦闘任務にあたったが、宮崎は戦運が無かったのか、大きな空戦には参加する機会がないままに終戦を迎えた。
343空で長崎原爆を目撃しており救助活動を行った。
そのせいか戦後白血球が弱くなったという。
9月、少尉任官と同時に予備役編入。
総撃墜機数は13機以上。
宮崎によれば共同撃墜を含め120~130機ほど。
宮崎の実戦参加回数は全ての戦闘機搭乗員の中でも一番多いほうに数えられるとも言われる。
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戦後
一旦は香川県の実家に帰ったが、まもなく343空の思い出が残る松山市へと引っ越した。
郵便自動車の運転手や友人の会社の雇われ社長を経て、妻の実家の家業である酒屋を継いだ。
戦争体験を自ら語ることは無く、酒屋の常連客にも宮崎が元戦闘機搭乗員であったことは知られていなかった。
1966年(昭和41年)、搭乗員時代の訓練中に起こった事故の後遺症により、突如失明する。
一年半がかりで回復したものの、視力はかなり落ちてしまった。
1978年(昭和53年)、愛媛県城辺町の海底で紫電改が発見され、NHKから地元在住の関係者である宮崎に連絡が入った。
その後の調査でこの紫電改は1945年7月24日に未帰還となった6機の中の1機、ということが分かった。
宮崎はこの調査、及び引き揚げ作業に協力した。
この件をきっかけに、それまで戦争に関して口をつぐんでいた宮崎は戦争体験を語るようになり、本も出版した。
2012年4月10日午前11時30分ごろ、肝臓の病気により死去。
享年92。