「戦った父がいたから今の自分がいる」 靖国に思う「自立した日本を」 | 戦車のブログ

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元海軍大尉、市來(いちき)俊男氏は著作もあり、割と知られた海兵67期出身の方だ。
戦後海上自衛隊で海将補で退官されている。
以下産経ニュースより転載


 あの時から70年近い歳月を隔てても、胸に秘めた思いが色あせることはない。

 「祖国のために命をささげたあなたは英雄です」「もう一度あなたの子供として生まれ、一緒にうまい酒を飲みたい」


 来年8月15日に戦後70年を迎えるのを前に、靖国神社遊就館(東京都千代田区)が企画した「英霊に贈る手紙」。

先の大戦で亡くなった兵士の遺族を対象に今年2月から8月末まで募集しているが、その数はすでに300通に迫る。

差出人の約半数が遺児で、残りは兄弟や妻、孫、おいなど。

「これまで父親のいる友達に負けるものかとずっとがんばってきました。父の元に行ったらほめて下さい」。

記憶のかなたに浮かぶ父親、兄弟、夫らに宛ててつづられた思いは、いずれも切実だ。

今回の企画を提案した展示課主典の後藤智司さん(33)は、「いずれの文面からも、『戦争で戦った父たちがいたからこそ今の自分たちがいる』という共通した感謝の思いが伝わってきます」と話す。

 手紙は、来年春に行われる靖国神社での慰霊祭で神前に供えられる。

その靖国には、英霊とともに戦った“同期の桜”が今も足を運び、慰霊を続けている。

「慰霊こそ私の義務」


 「祖国の行く末を信じ、勇戦奮闘した仲間を思うと、その御霊(みたま)を慰めることこそが生き残った私の義務であると考えています」

 元海軍大尉、市來(いちき)俊男さん(95)=さいたま市南区=は、毎年6月17日に靖国神社に参拝している。

海軍兵学校67期卒にちなみ、この日に決めた。

もちろん、数少ない同期生も一緒だ。



 鹿児島県出身で、昭和10年に海兵に入学。

67期248人のうち、終戦時の生存者は88人。

亡くなった160人の大半が戦死だった。


 市來さんは大戦の口火を切った16年12月の米ハワイ真珠湾攻撃に駆逐艦「陽炎(かげろう)」航海長として参加。

その後も多くの海戦や輸送作戦に従事した。

兵士約1万人が餓死するなどし、敗戦への分岐点となったとされるガダルカナル島(ソロモン諸島)の戦い(17年8月~18年2月)では、機銃掃射を受けながら増援部隊や補給物資を輸送した。


 この戦いで今でも記憶に残るのは、陸軍士官学校52期卒だった中尉の面影だ。

海兵卒の市來さんとは、卒業年次でいえば同期に当たる。「士官室で夜更かししながら『上陸したら(ガダルカナル島を)取り返すぞ』などと話し込み、艦長に注意されたこともあった」。

対立関係が取り沙汰された陸軍と海軍だが、現場での“同期生”の絆の強さは組織の違いを超えていた。

 市來さんは戦後、海上自衛隊、防衛研究所などに勤務し、47年に退官。その後も戦史研究と執筆に取り組んできた。


 戦後の東京裁判でA級戦犯とされた東条英機元首相ら14人が53年に合祀(ごうし)され、60年の中曽根康弘首相(当時)による公式参拝以降、中国、韓国が反発を強めているが、市來さんはこう喝破する。

「国のために戦って亡くなった軍人を慰霊するのはどこの国でも当然の行為。内政干渉だ」


生き残り「私だけ…」


 東京の夏の風物詩として親しまれ、毎年約30万人の参拝者でにぎわう靖国神社の「みたままつり」。

今年も7月13~16日、英霊への感謝と平和を祈念して大小3万超のちょうちんが境内に掲げられた。その中に、「第二師団第十六連隊」という連隊名とともに、個人名が記された33個のちょうちんがあった。

 「新潟県新発田市にあった歩兵16連隊での同年兵の数と、自分の出陣のときの番号です。
今や同年兵の中の生き残りは、私だけになってしまいました」

 ちょうちんを献灯したのは東京都大田区の●屋(すみや)久平さん(92)。

33個のちょうちんに込めた思いを、こう語った。

 新潟県魚沼市出身。17年11月に南洋のニューブリテン島(パプアニューギニア)に出征後、フィリピン、シンガポール、ビルマ、中国で任務に就いた。

 ニューブリテン島では苦戦していたガダルカナル島への出撃に備えていたが、直前になって中止に。その代わりに担当したのが、野戦病院での遺体処理だった。

 火葬にすると敵の爆撃目標になるので土葬にしたが、深さ5メートルほどの穴を掘っては遺体を埋めるというつらい作業の連続だった。「戦友たちに土をかけ終わるまで涙が止まらず、埋葬後も戦友たちの家族に思いをはせると再び涙が出た」

 戦後は都内で修理業や食肉販売店などを営んだが、くじけそうになるたびに「戦場で亡くなった戦友に申し訳ない」と歯を食いしばって耐えてきた。

靖国神社に参拝すると、戦友の面影を思い浮かべながら平和の尊さをかみしめる。



「自立した日本を」


 戦後日本の平和の礎となった英霊たち。国の行く末を案じながら亡くなった彼らの思いを、どう受け継ぐべきか。

 市來さんにとって、国防を忌避する風潮を強める戦後日本の光景は「平和ボケ」と映る。「戦争を嫌う気持ちは誰にもある。

しかし、自分たちが自分の国を守らなくてどうするのか」

 史上最大の戦艦「大和」の副砲長としてレイテ沖海戦に参戦するなどした元海軍少佐、深井俊之助さん(100)=東京都世田谷区=もこう口にする。

 「今の世代に言い残したいことは、とにかく、自立した日本を取り戻してほしいということだ」

 日本の安全保障環境が厳しさを増す中、英霊の思いを代弁する元軍人たちの言葉は重い。 (花房壮)


 8月15日、先の大戦が終結してから70年目を迎える。国のために戦い生還した人々や戦没者の遺族は、ますます高齢化している。薄れゆく大戦の記憶を語り継ぐため、生存者を訪ねた。

 ◇用語解説

 靖国神社 明治政府が明治2年、戊辰戦争での官軍の戦死者を弔うため、東京・九段に東京招魂社を創建、12年に現在の名称となった。「国を靖(安)んずる」の意味で、明治天皇が命名した。
先の大戦はもとより日清戦争(明治27~28年)、日露戦争(37~38年)などの戦没者のほか、坂本龍馬や吉田松陰ら幕末の志士も合祀されている。祭神総数は246万6千柱余に上る。

●=「角」の中央のたて棒を伸ばす

(産経ニュース)



市來俊男氏は海軍の研究もされていて貴重な戦争体験と共に海軍の語り部ですね。