硫黄島の戦い 「伝える役目、終わったか」 | 戦車のブログ

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海軍特別年少兵も86歳になったんだね。
軍人としては昭和生まれの最年少の部類の方達もそういう年齢になっているということだ。
以下産経ニュースより転載


 「あの日は暑かったんだろう。だが、今はそのことも思い出せない」

 昭和20年8月15日。大越晴則さん(86)=横浜市港北区=はこの日、米ウィスコンシン州のマッコイ捕虜収容所で、多くの仲間とともに憤怒の表情を浮かべていた。
当時17歳。
3カ月前は、本土防衛の最前線として激戦が繰り広げられた硫黄島(いおうとう)で、わずかに生き残った戦友と薄暗い壕(ごう)の中に潜んでいた。

 米国で迎えた終戦の日。

「天皇の話を読み上げる」と言って玉音放送の内容を記した紙を広げようとする米将校を、大越さんらは怒りをあらわに押し返した。

「みんな、負けたことを信じられなかった」

 復員船から富士山を眺め、初めて敗戦を受け入れ、以降は戦友の供養と遺族への説明を続けてきた。

「それが、生き残りの責任だ」。そう考えてきた。



殺すか殺されるか


 14歳で、海軍が中堅幹部養成を目的に採用した「海軍特別年少兵(特年兵)」に志願した。

「14歳で志願できたのは特年兵だけ。家族の幸福や国家の安泰を信じる純粋な気持ちだった」

 海兵団で教育を受けるなどした後、香取海軍航空隊(千葉県旭市、匝瑳(そうさ)市)の搭乗整備員として輸送機に乗り込み、硫黄島への物資輸送などを行っていた。

19年8月、米軍機に撃墜され、漁船に助けられた後に硫黄島へ移動、南方諸島海軍航空隊の分隊長として着任した。

島では栗林忠道陸軍中将の下、米軍の侵攻に備え、全体を要塞化すべく、地下壕づくりに邁進(まいしん)していたころのことだった。


 半年後の20年2月19日、米軍が上陸作戦を開始したときは、元山飛行場そばにあった海軍の本部壕にほど近い壕に潜んでいた。

「映画の描写とは比べものにならない」ほどの激しい砲撃に耐え、3日後、斥候(せっこう)として初めて壕を出た。

目に飛び込んできたのは海を埋め尽くす米軍の艦船。米兵と鉢合わせたのは、それから間もない2度目の斥候の時だった。

 一瞬気付くのが早かった大越さんは手榴弾(しゅりゅうだん)を投じ、米兵に組み付いて抱き合う形になった。

「殺すか、殺されるか」。

とっさに手に持っていた銃剣を米兵の背中に突き立てると、刃は米兵の体を貫通、勢い余って自らの腹を傷つけた。

「もう、自分が生き残ることしか考えられなかった」。当時を、そう振り返る。



 持久戦を狙った日本軍だが圧倒的な物量にものを言わせる米軍の攻勢に、徐々に後退を余儀なくされた。

3月8日、海軍が総攻撃を実施。大越さんも参加したが、奇跡的に生き残った。

 その後、日本兵が多く潜む壕に合流した。

壕には武器も食料もほとんどない。息を潜め、地獄のような飢えと、のどの渇きとの戦いを続けた。


 ある日、壕に突然、液体が流れ込んできた。「水だ!」。

思わず駆け寄る日本兵たち。

しかし、その正体は海水に混ぜられた油。

米軍のわなだった。火炎放射器が火を噴き、仲間が次々に火だるまとなった。

 生き残ったのは10人足らず。「どうせ死ぬなら、太陽の光を見てから死のう」。

他の日本兵とそう話し、壕からはい出た。

待ち構えていたのは銃を構えた米兵たち。

鋭い銃声の後、右足に鋭い痛みが走った。

「ノータッチ!」。思わず海兵団で習った英語が飛び出す。

背後を見ると、戦友たちが次々と姿を見せていた。

「そこからの記憶はない」。

気付いたときには米軍の野戦病院のベッド上だった。

5月17日、栗林中将が大本営に玉砕を伝えてから2カ月後のことだった。


もう荷物下ろそう


 今も硫黄島では1万を超える日本兵の遺骨が眠っている。

政府は、飛行場の下にも遺骨が眠っているとして、平成24、25年度に地中探査レーダーで飛行場を調査。

その結果、遺骨の可能性がある反応が千以上もあった。

今年度、アスファルトをはがすなどして遺骨を収容する予定だ。


 「夜になると、あのときの戦いを思い出す」。

戦後は睡眠薬がなければ眠れない日々を続けてきた。

まだ、あの島に残る戦友がいる。だからこそ、あの戦いを伝えなければという思いを抱いてきた。

 ただ、特年兵の仲間による戦友会は昨年解散した。

あの戦いから70年目の夏。「背中に負った荷物は下ろそう。

役目は終わったんじゃないか」。今は、そう思っている。(豊吉広英)



【用語解説】硫黄島の戦い 

東京とサイパン島のほぼ中間に位置する戦略上の重要拠点だった硫黄島(面積約22平方キロ)をめぐる戦い。

昭和20年2月19日に米軍が上陸開始。

当初、5日で陥落できると見込んでいた米軍に対し、日本軍は陸海軍計2万1200人の将兵が、栗林忠道陸軍中将の指揮の下、全長約18キロに及ぶ地下壕を構築して持久戦を展開。

3月26日に栗林中将が総攻撃を行うまで、36日間にわたって抵抗を続けた。

この結果、日本軍は約2万1千人、米軍は約2万8千人に及ぶ死傷者を出し、先の大戦屈指の激戦と呼ばれた。

(産経ニュース)

海軍特別年少兵

昭和16年7月、海軍特別年少兵制度を創設、「官機密第5921号」により、従来16歳以上とされていた志願兵年齢を特例として、15歳以上16歳未満と定めた。

(名称:「特別年少兵」または「特例年齢兵」)

昭和16年11月19日、「達第351号」により年齢を更に1年引き下げ、教育期間を1年6ヶ月以内と定める。
(名称:「練習兵」)

昭和17年9月1日、第1期生3,500名が各海兵団に入団

横須賀鎮守府=武山海兵団(旧横須賀第2海兵団)
呉鎮守府=大竹海兵団(呉海兵団大竹分団)
佐世保海兵団=相浦海兵団(佐世保第2海兵団)
舞鶴海兵団=舞鶴海兵団(団外兵舎)
※入団3日後に修業期間を約1年に短縮
※特年兵は第1期~第4期まで、総数は17,000名~18,000名

将来の海軍中堅幹部養成を目的とした教育方針、教方法などは、予科練を作った尾崎俊春中佐が中心となって進められたといわれている。

(教官)

普通科=師範学校出身の下士官が担当
英語=文官教官が担当
分隊長=海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校出身者、海軍兵学校選修科出身者が担当
分隊士=選修科出身の特務士官、予備学生出身者が担当
教班長=歴戦の下士官が担当
※第3期、第4期の整備科は4つの鎮守府合同となる。

練習兵教程後は全員が実施部隊を経ず普通科練習生へ直行、各兵科別の専修を受けた。




かつて海軍特別年少兵出身の方と東京原宿にある東郷神社の境内にある海軍特年兵之碑の前でお話をうかがったことがある。

特別年少兵1期生の方で、東郷平八郎を祀る東郷神社内ある東郷会の会員であったことからお話をしする機会を得た。

同期生には戦艦大和や硫黄島で随分戦死者を出したという話を聴いた。

今なら中学生くらいの年齢に相当する。

映画「海軍特別年少兵」というのがある。

もし機会があったら観てみるのもいいかもね、反戦映画ぽくて好きじゃないけれど・・・。


香淳皇后御歌

やすらかに

ねむれとぞ思ふ

君のためいのちささげ志

ますらをのとも