イメージ力への自己認識 | 3年前のしこうの楽しみ

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ふと気づいたことがありました。
潜在的にはじわじわと認識が形成されてきたのでしょう。
おそらくこの秋にそれが一気に進んだのだと推測します。
 

きっかけは新しい家の計画が始まったことにありました。
しかしそれはあくまで刺激の一端でしかありません。
むしろこれだけだったら流して無視したことになってしまっていたと思います。
 

このベースがあったからこそ会話に出る頻度が上がって意識が向いたわけです。
最終的には音楽との同化が切り離れたことが重要だったと推測します。
直接的に関係なさそうですがタイミング的にも体感的にもそう感じるのです。
 

ちなみにこれはイメージ力についての話題です。
だから思い返せば成塾実践会でテーマとして扱ったことも大きかったことでしょう。
実感は薄いものの客観的にはダイレクトに影響していそうです。
 

ある程度の人数のそれにまつわるシェアを聞くことになりました。
それによってさらに実態が掴めたのはあります。
ともかく自分は比べるならイメージが得意なようなのです。
 

できなくて困った記憶はありません。
課題に感じたこともありません。
全くといって良いほど今までここういった自己認識はありませんでした。
 

ある程度できることが当たり前すぎて目が向かなかったわけです。
可視化しにくいものだからこそ他人との比較もしたことがありませんでした。
正直なところ画像にせよ音にせよ何であれイメージできない状態があまり分かりません。
 

他者との違いで象徴的なのは瞑想で使う白光だったことが思い出されます。
多くの人がこれを作るのに苦労するとは想像もしていませんでした
結局それも自分の投影からのことです。
 

経験からその理由も理解するようになったつもりでしたが不十分だった気もします。
つまり足を引っ張る要素が多いという解釈でした。
そもそものイメージ力の不足についてはフォーカスしていませんでした。
 

もちろんそういう声は聞きつつもブレーキが外れればできるという感覚だったのです。
ただ現実的なイメージはできても架空の概念によるイメージを構築することは難易度が高いようです。
どうやらこの差は大きなもののようです。
 

一般的には前者だけでも十分にイメージが得意とされるのかもしれません。
こうやって見つめてくるとどことなくこの状況を受け入れたくない自分がいる様子がとらえられました。
なぜだか抵抗があるようなのです。
 

確かに前提が変わってしまう性質はあるのかもしれません。
意外な課題が表面化してきたものだと実感します。

谷 孝祐
2020.10.30