乳幼児よりも周回遅れという仮説 | 3年前のしこうの楽しみ

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主体性優先の立ち位置について考えました。
もちろんその重要性への認識が変わるわけでもありません。
本質的にそちらが求められている実感は同様のままです。
 

しかしそれでは進みが遅いのも事実です。
ある意味でそこには目を瞑ってきたとも言えるでしょう。
少なくとも昨年まではそれをデメリットとはとらえていなかったわけです。
 

むしろ必要なプロセスを自力で踏まなかったことの弊害を重視していたのでした。
だからこの心境の変化は何かの急転換を表しているのかもしれません。
おそらくそれが2020年以降というものなのでしょう。
 

ある程度の強度でそんなことを感じます。
現実的に結果を出すことの優位性が一気に上がっているのだと推測します。
もちろんその予感は年始からありましたがここまでのものとは考えていませんでした。
 

ある種の危機感といってもよさそうです。
だとしたら依存性を誘発せずにそこに加速感をもたらす働きかけはできるのでしょうか。
つまり今までのベクトルとの両立は可能なのかということです。
 

そこにジレンマを打開するポイントがあることは確かでしょう。
ただ世の中を見てもそういった事例は浮かび上がってきません。
むしろ一定の依存を前提として成り立っているとも見受けられます
 

本質的な主体性を後押ししつつ短期的結果をも目論んでいる性質のものを個人的には知りません。
もしかしたら存在しているかもしれないけれど巡り会えていないわけです。
そんなところで数日は意識のどこかが悶々としていました。
 

そしてとらえられたことがありました。
そもそも出発点のイメージがずれていたのです。
知識レベルではわかっていたもののそこに感覚がついてきていなかったわけです。
 

しかもそれは脳の性質からしても当然のことです。
やはり嫌だとしても枠におさまってレールを歩く方が楽なのでしょう。
顕在的にはそこから出ようと努力しても深層レベルではこれが強固なわけです。
 

人生の選択をそうやって積み重ねてきていればこれはなおさらです
逆ベクトルの離れたところがスタート地点になるわけです。
酷い言い方になりますが乳幼児よりも遅れをとっていることになります。
 

それでは自分で決めるということの意味も本当のところはとらえられないのかもしれません。
表面上は決定していてもメンタリティが伴わない可能性があるわけです。
言葉だけでそこに伴うテンションや状態が連動しないわけです。
 

これは重要な視点かもしれません。
おそらくそうなるということは本人が乳幼児の頃からそれを要求されていないわけです。
生まれてから未体験かもしれないわけです。
 

そうだとしたら一般的に言われる好きなことを仕事にするのだって困難な話です。
何をするにせよ稼げるようになるには然るべき重みが必要です。
ひとまず課題は明確になったのかもしれません。

谷 孝祐
2020.1.30