人間というアイデンティティを見つめてみることにしました。
普通に考えれば誰しもが持っていそうなものです。
ただ個人的には実感の乏しいものです。
そんなわけでここを考察の出発点にすることにしました。
そもそもどのくらいの人がこれを自己認識として持っているのかを推測するところから入ることにしたのです。
この視点から実は意外に多くない気がしてきました。
通常であればこれは周知の事実でしょう。
少なくとも人間の姿形をしていれば当たり前すぎるようにも思えます。
幼少期にわざわざそれを親から言われるようなケースも少ないのではないでしょうか。
だからわざわざ認識する機会があまりないと考えられれわけです。
疑いの余地もないくらいだから意識化されることもないわけです。
よく考えればアイデンティティの多くは他者との比較から生まれるのかもしれません。
直接的な場合と暗示的な場合はありそうですが前提に何らかの対象が置かれているわけです。
そうであるなら人間については人間でないものと比較する必要がありそうなものです。
でも実質的にこれはあまり意味がなさそうでもあります。
比べるまでもなく違いが明らかであればわざわざそれもなされないわけです。
動物との比較から自分が人間であるととらえる確率は低そうだということです。
こうなると宙ぶらりんな感じになってきます。
人間でありながらそれが明確な自己認識になっていないわけです。
少なくとも自分はこれに近い気がしました。
とはいえここには大きな課題があります。
それは何をもって人間とするかというものです。
概念として人間をどう規定するかが問題なわけです。
事実これは深淵なテーマでしょう。
見かけから決めるのとは違う感じもします。
人間らしさという表現があることからも人間らしくない状態が想定できるでしょう。
ここには姿以外の要素があることがうかがえます。
より広くみれば様々な要因が絡んできそうな気もします。
このように考えていると人間という概念がいかに薄弱なものかという気分になってきました。
当たり前すぎる以外にこの概念的な力の弱さがアイデンティティになりにくさを含んでいるのかもしれません。
ただ確実に言えることもありそうです。
もし自分を基準に人間を設定するのであれば事は簡単だということです。
そもそも多くの人はこの形式の人間像を持っている可能性はありそうです。
そうであるなら逆でとらえることもできるでしょう。
自分を人間でないと意味づけしてみるのです。
これが何かの解決に寄与するのかはわかりません。
でも少しは人間を見つめるメガネの役割にはなりそうです。
谷 孝祐
2018.12.27