自分の枠は自分ではない | 3年前のしこうの楽しみ

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ふと気づいたことがありました。
自分の枠を超える転機という話題からです。
そもそもそれが何なのかに意識が向きました。

どことなくおかしな気がしたのです。
より自分らしくなる方向に超えるべきものはあります。
ただそれに対してその表現で良いのかと疑問を持ったわけです。

もちろん既存のままで問題だというわけではありません。
とはいえ場合によっては混乱の原因にもなり得ます。
今回この視点が新たに生まれたのでした。

これが案外ごっちゃになることで進みにくいこともあるのではないかという推測です。
なので整理してみることにしました。
そのおかしさは本当に自分なのかというところにあります。

枠を超えて行きつく先は確かに自分かもしれません。
少なくとも自分らしさに該当する自分です。
完全でなくともそちらに近づいています。

しかし手前側はもう少し曖昧なものです。
純度が異なるとも言えるかもしれません。
余計なものが混ざっているはずです。

ということで超える前後の自分は別のものでしょう。
同じ単語でも意味するところが異なります。
でも確かにどちらも自分という感覚ではあります。

むしろ手前側の方が主観的にそうでしょう。
セルフイメージやアイデンティティに入っていればなおさらです。
ということでこちらは自己認識レベルの自分と考えられます。

もしくは理解してきた範囲の自分とも言えるでしょう。
加えていつの間にか身につけた習慣なども入ってきます。
要は雑に言うなら今までの自分ということになります。

ちなみに後ろ側は本来の自分と表せるかと思います。
当然ながらわざわざこのように表現を分けなくても意味の違いがあることは理解できるでしょう。
ところが頭で分かっていても同じ語彙を当てはめることで感覚では混ざってしまうかもしれません。

そんなわけで違いを明確にした表現で認識する方が妥当かもしれません。
では手前側の自分をどう表現すれば良いでしょうか。
手放す側を自分以外の表現にした方がプロセスが進みやすいと予想されるためこちらを切り替えるわけです。

少なくとも自分という語句は含まないようにしたいところです。
過去のセルフイメージや習慣というのがギリギリでしょうか。
エッジを立てるなら成長過程で受けた影響でも良いかもしれません。

対象に応じて言葉を変えた方が回り道しなくて済みそうです。
そんなわけで丁寧に扱っていきたいものです。

谷 孝祐
2018.12.6