機内で合唱を聴いて思考が展開しました。
それは音楽そのものに対するものです。
きっかけは花は咲くの曲からレゾナンスハーモニーという言葉が頭に浮かんだところからでした。
これはエジプトの合唱団につけた名前です。
ちなみに勝手に考えた造語ですが目指すベクトルを示しています。
あえて日本語訳するなら共鳴的響きというイメージかもしれません。
意識のハーモニーと音のハーモニーの両立とも言えそうです。
結局のところあるべきものがあるべきところにあるというベクトルです。
歌い手があるべき役割に徹しあるべき音を奏でるということです。
当たり前のようですが非常に難しいのかもしれません。
自己犠牲的役割認識では実現し得ないことです。
つまり主体的役割認識からの表現です。
今回はそれが自分にとって音楽そのものだと感じたのでした。
これ以外はあり得ないという気分です。
許容が広がって音楽という概念も緩んだもののそこは変わらないようでした。
逆行するように磨きがかかってその本質しか個人的には意味を持たなくなったのかもしれません。
また同時にこれがなかなか実現されないことを知覚しました。
思い返せば感動することは多々あれど演奏に心から満足できたことがないのです。
簡単に目の前の音楽に感銘を受けるのに心の深くは冷静なのです。
一般的な完璧主義とは異なる意味での完璧主義でしょう。
むしろ冷淡とも言えるくらいです。
年を重ねるごとに超一流の演奏の中にみる不協和に気づく度合いも上がってしまっています。
ちなみに個人的にレゾナンスハーモニーを体験したのは一度だけです。
奏者としてのことでした。
曲はモーツァルトのピアノと管楽のための五重奏曲でした。
それも二分音符が4つだけの10秒にも満たない短い瞬間でした。
ファゴットとホルンの和声移行(コード進行)という単純作業です。
そこに妙味とも言うべく時空を超えたかのようなハーモニーが生まれました。
空気の振動という物理現象から音が解放されたかのような時間でした。
このように思い出してくると当時のことをまだ受け取りきれていないのかもしれません。
言語化すると陳腐化してしまうような気分がどこかにあるのです。
その後は無意識的にこれを希求していた可能性はありそうです。
だからプロとして生きることをすんなり諦められたのかもしれません。
現実の音楽はほとんど妥協の産物でそれが良さであったりもします。
ただ自分の理想はそこにはないことが明白になっただけです。
なんだか諦めて閉じた箱を開けてしまったみたいです。
そもそもそれは顕在化したものでもありません。
まずは本当に目指していたところを箱から取り出してみることにします。
谷 孝祐
2018.5.26 4:33