山に入った初日のことです。
スタートの渡渉は増水により断念したもののそれ以外は順調でした。
疲労を溜めない歩きを意識したからでしょうか。
休憩をほとんど必要としませんでした。
淡々と体が動いたのです。
実際に食事を取るタイミングのみ荷と腰をおろしたのでした。
腹痛の起きた2日目とはまさに真逆だったのかもしれません。
だからなおさらそれが際立ったとも言えそうです。
それはさておきこの日も印象的な受け取りがありました。
3時間半ほどぶっ通しで進んでいた時のことです。
初日の一番の難所に差し掛かったくらいでした。
それは急な上りの始まりでした。
ふとなぜ自分は山に入るのかという疑問がでてきました。
好きだからという主観はありません。
ことさら何かの意味を求めているわけでもありません。
もちろん身体機能向上というベースはあるものの個人的には目的と言えない気もします。
どちらかといえば在るべきところに身を置く感覚に近いのです。
月並みな山がそこにあるからというわけでもありません。
何かの対象物ではないのです。
そこにいるのが自分にとって自然だからという雰囲気なわけです。
つまり一体化する魅力なのかもしれません。
もしくは人が本来は自然と同化した存在であることを思い出すためなのかもしれません。
潜在意識深くにある目的が概ね認識されたようでした。
すると記憶から突如あらわれたものがありました。
それは亡き祖父の職業です。
自分が生まれる前に他界しているので会ったことはありません。
ただいつだか父親から山師をしていたと聞いたことがあります。
そして病気ではあるものの山で仕事中に還らぬ人になったようでした。
これを聞いたころは当然ながら実感の持てるものではありませんでした。
そこまで縁のある話題に感じなかったわけです。
ところがこの時は顔を合わせたこともないお爺ちゃんの遺伝子が自分の中にあるという妙な納得感が得られたのでした。
隔世遺伝的な何かがあるのかもしれません。
案外その影響度の強さを自覚したのでした。
彼に山に導かれてきたのでしょうか。
これも自己一致の要素のような気がしました。
感覚とは面白いもので4人の祖父母をバランスよく感じられるようになって気づけば安定感が上がったような体感があったのでした。
谷 孝祐
2018.5.17 8:44