意図せざる腹痛修行 | 3年前のしこうの楽しみ

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山行2日目に苦しめられた腹痛は何の意味があったのでしょうか。
ここまで辛いこともなかなかないものです。
ひとまず状況を回想したいと思います。

定期的にやってくる痛みは次第に感覚が短くなっていきました。
どうやらお腹をこわしてしまったようです。
なのですぐにトイレに行ける環境であれば特に問題もなかったのでしょう。

しかしこの時は次の小屋まで歩かなければなりませんでした。
原因はともかく窮地に立たされてしまった感じです。
もちろん簡易トイレは持ち歩いています。

ただ行程を考えると最終手段は残しておきたいものです。
事後の袋を持ち歩くのもできれば避けたいところです。
そんなこともあり体の状態と逐一向き合うことになりました。

腹痛がやってきたらその場で足を止めて感じきってまた進みというスタイルにならざるを得ません。
水を飲めば頻度が高まるので微量を口に含むことしかできません。
もちろん食料も同様です。

むしろこちらの方が負担を強いられた気もします。
とにかく最低限を明らかに下回る摂取量で歩かなければなりませんでした。
しかもこの日の道のりは修行のハイライトとも言えるような場所でした。

峰々を丁寧にトレースするように常にアップダウンがあります。
壁に近いような岩場もありました。
これはまさに悪循環という印象です。

一刻も早く小屋に着きたくても足取りは重くなる一方で到達すら危ぶまれてくるわけです。
とはいえトレーニングジムとしたら稀有な機会です。
わざわざ自分をここまで追い込むことは選択し得ないことなわけです。

受難ということなのでしょうか。
あたかも逃げ道のない完璧に練られた課題であるかのようでもありました。
いつからでしょうか。

気づけば水分補給量の少なさから汗も出なくなりました。
必然的に体内に熱がこもるようになります。
そもそも腹痛と向き合うだけでも相当なエネルギーを消費している実感があり身体維持すら危うくなっていきました。

次第に筋肉までもその対象になっていくかのような体感覚がありました。
ここまでいくと意識も朦朧としてくるものです。
こちらの世界とあちらの世界の境がなくなっていくかのようでもありました。

こんな時に滑落事故になるのかなどと妙な納得感も生まれました。
そして過去の時代に修験者が身投げを修行の一部としたことも理解できました。
そのまま死んだら神仏と一体になれる幻想が生まれてもおかしくないと感じたのです。

自分がその選択をしないのは明らかですがそれを魅了に感じる心理には共感できました。
結果的に他者理解の枠が広がったのかもしれません。
そんな知覚もありながら息も絶え絶えでなんとか小屋に到達して救われたのでした。

この経験は多次元的な受け取りになった気がします。
それを意識化していきたいと思います。

谷 孝祐
2018.5.14 23:18