改めて後から見ても壊れた靴は案外インパクトのあるものでした。
表面はそこまで古ぼけているわけでもないのに裏は使い物になりません。
それよりも切れて足が見えるというのが初めてでした。
思えばそこまで履いたこともありません。
そんなこともあって自分の靴との関わりに意識が向きました。
重要視しているわりにその結末まで覚えていないものです。
基本的に気に入ったものを長く履くほうで捨てたことも多くありません。
実家を出た後くらいの時期に一旦リセットしたかもしれないというくらいです。
何足か回して使うのでなおさらでしょう。
形が崩れてくるということもありません。
ということで必要があって買い換えた経験もないのです。
良いものが見つかって買い増していく感じです。
少なくとも高校生の頃からはこの様子です。
一般的にもそういうものなのでしょうか。
なので増えていく傾向が強いものです。
10年くらい持っていても不思議ではありません。
今回の靴も8年くらいになります。
買ってすぐの頃にちょっとした山を登ったのでよく覚えています。
もちろん登山用ではないのですが歩きやすさが印象的でした。
ただ近年は確かに使っていませんでした。
基本的にほぼ全ての靴がどこかのタイミングで履かれるのですがこれは別物になっていました。
いつの間にか心理的にはいらないものになっていたのでしょう。
こうなってそれを初めて認識できました。
それとともに靴は手放す対象になりにくいことが自覚できました。
もしかしたら無意識的な執着があるのかもしれません。
大切にしているのは事実ですがそれ以上の意味づけもあるのでしょうか。
確かに履き心地の良い足に合ったものは健康の基本であり頼りになるものです。
そこにはスムーズに進むことが投影されている気もします。
ある種の相棒みたいな意味合いなのかもしれません。
実際に昨年末くらいから感性的に合わなくなっているものがありますがそのままです。
邪魔ということもないので捨てるという発想も出てきませんでした。
とはいえ今の自分に持ち物を合わせるという意味では適正化されていないわけです。
今までの恩恵に感謝しつつ整理を進めたいと思います。
それとともに未だ扱ったことのない潜在意識における靴の意味を考えてみることにします。
谷 孝祐
2017.10.18 9:14